7.なぞの黒い手
椿は小さな社の縁側に腰かけると、さっそく家から持ち出した呪術書を開いてみた。
(ええと、確か黒百合椿は火・水・土の三属性を扱うことのできる天才って話だったわよね)
とりあえず教科書を開くと、初級の火の呪文を唱えてみる。
とたん、体中を赤い気が駆け巡る気配がし、難なく手の先に炎が現れた。
次に水、土と色々な呪文を試してみる。
どの高度な呪文も、椿が唱えさえすればさほど練習せずとも技が発動した。
椿は夢中になって呪術書を読み進める。
(なんて面白いの。呪術を自在に操れるってこんな気分なのね)
自然と気分が沸き立つ。心の中が万能感で満ち溢れた。
それと同時に、元の歴史で自分の力に溺れ、破滅の運命を進んでしまった運命を思い出して、はっとなる。
(いけないいけない。いくら自分の力が強いからって驕らず、謙虚でなきゃ。でなきゃ破滅の運命まっしぐらだわ)
椿は興奮する胸を抑え、深呼吸をして身を引き締めた。
だが、自分の思い通りに術が使えるのが嬉しくてたまらなくなった椿は、次の日も、そのまた次の日も夢中になって呪術の特訓を重ねた。
そのかいあって、椿の呪術は見る見るうちに上達していった。
(よかった。大体の呪文は暗記できたし、女学校での呪術の授業も大丈夫そうね)
母親と話し合い、明日から女学校に通うことが決定していた椿は、ほっと息を吐くと石段に腰をかけた。
目の前には、茜色の夕陽が帝都の街並みを照らしている。
呪術の特訓に夢中になっているうちに、どうやらすっかり遅い時間になってしまったらしい。
「わあ、綺麗」
椿が目の前の景色に感動していると、突然、椿の背筋をゾクリと冷気が駆け抜けた。
(な……何!?)
ぞうっと鳥肌が立ち、心臓が早鐘を打つ。
椿が異様な気配に振り返ると、薄暗い神社の拝殿の影から、低い声が響いてきた。
「……黒百合の娘……力……ホシイ……」
闇の中からぞわぞわと這い出してきたのは、無数の黒い手だった。
椿の元へぞわぞわと這い寄ってくる無数の黒い手。
(これは……妖魔!?)
椿は息を呑むと、ぎゅっと手を握った。
(どうしよう……)
椿は今まで妖魔と戦ったことなど一度もない。
だが、よく考えたらこれは自分の力を試す絶好の機会かもしれない。
椿はぐっと奥歯を噛みしめ、妖魔を見据えた。
「――炎!」
鋭く唱えると同時に、椿の掌から赤い焔が広がり、黒い手を次々と焼き尽くしていく。
「やったわ!」
だが、一瞬、墨のように炭化して消えたかに見えたその手は、再び形を取り戻すと、呻き声とともに椿のほうへと這い寄ってきた。
「ひっ……!」
椿が思わず悲鳴を上げた。その瞬間――。
「大丈夫か?」
低い声が空気を裂く。
逆光を背に、長身の影がゆらりと揺れた。
はっと顔を上げると、そこに立っていたのは黒い外套に黒い詰襟、金のボタンの軍服のようなものを着た男性であった。
椿が呆然と目を見開いていると、男性は静かに腰の刀に手をかけた。
キィンと鋼の澄んだ音とともに、閃光のごとき刃が闇を裂く。
次の瞬間、黒い手は一刀両断にされ、悲鳴のような声を上げながら霧散した。
(凄い……)
椿はじっと男性を見つめた。
年のころは二十代前半だろうか。
男は、当時の女性にしては背の高いの椿ですら見上げるほどの長身で、すらりと長い足に均整の取れた体つきをしている。
その上その涼しげな眼もとと端正な目鼻立ちは、まるで造りものかと疑うほど整っている。
制服に帯刀――ということは軍人だろうか。それとも警察?
椿は一瞬、息を呑んだ。
彼をどこかで見たような気がする。
しかし記憶は霞がかったままで、彼が誰なのかは思い出せなかった。
椿がじっと男を見つめてると、男は刀を鞘に納めながら呟いた。
「こいつには火の呪術は効かないようだな」
黒い手の消えたあたりを見つめる男の横顔はどこか冷たく、けれど妙に美しかった。
「そ、そうなの……?」
椿は思わず息を呑む。
その時、椿の左の足に大きな痛みが走った。
「痛っ」
よく見ると、椿の細く白い足首に、黒い影のような手が絡みついていた。
まるで地の底から這い出した怨霊が生者を引きずり戻そうとしているかのようで、ゾッと背中が冷える。
(まさか……まだ仲間がいたの!?)
考えるより早く、椿の唇は自然と呪文を紡ぎ出していた。
「――氷!」
声と同時に、空気が一瞬で凍りつく。
白い霧のような冷気が黒い手を包み込む。
そして次の瞬間、凍り付いた手はピシリと音を立てて砕け散り、粉雪のように消え去った。
「ふう……」
緊張の糸が切れ、椿はその場に膝をついた。
(呪術で妖魔を倒すのは初めてだけど……何とか上手くいったわね)
胸の鼓動がまだ落ち着かない。
そんな彼女に、制服の男が歩み寄ってきた。
白い頬を真っ赤な夕日が照らし、黒い外套の裾が冷えた風にばたばたと揺れる。
「大丈夫か」
落ち着いた声と共に手が差し出される。
指先まで整った、白く長い指にどきりと心臓が鳴る。
椿は差し出された手をおずおずと取り立ち上がるった。
「あの……助けていただいてありがとうございますっ」
椿がぺこりと頭を下げると、男は涼しげな眼差しのまま、微かに口の端を上げた。




