6.椿の特訓
それから数日が過ぎ、ようやく恵は地下牢から解放された。
そして椿もまた、大正時代での暮らしや令嬢らしい振る舞いにも徐々に慣れ、いつもの日常生活へと戻っていったのだった。
「うむ、そろそろ包帯を取ってもいいころですな」
白いひげを豊かにたくわえた医者が、眼鏡を指で押し上げながら椿の母親に告げる。
「は、はい」
椿は目をつぶって医者が包帯を取るのを待った。
薬品や消毒液の入り混じったツンとする匂いが椿の鼻をかすめる。
医者は椿の包帯の下を慎重に確認すると、小さくうなずいた。
「ふむ、だいぶ直ってきたようだ」
医者の言葉に、椿は差し出された手鏡をそっと手に取った。
鏡の中には、色白の肌に大きな瞳、整った鼻と口の美しい顔。
けれどその額には、縦に走る大きな傷跡がくっきりと残ってしまっている。
思わず息をのむ椿の横で、母親の表情が曇った。
「先生、この傷は……いつ消えるのでしょうか」
医師に尋ねる母親の声は震えていた。
「それは何とも言えませんね。かなり大きな傷ですし、下手をすれば一生残る可能性も……」
「そんな!」
母親は椿を抱きしめ、まるでこの世の終わりとでもいうように嘆き悲しんだ。
「この子はまだ嫁入り前なのよ! どうして……どうして私の可愛い椿が、こんな目に――!」
取り乱す母親に、椿は慌てて明るい笑みを作った。
「お、お母様、大丈夫よ。まだ一生残ると決まったわけではないし……それに、前髪を作れば隠れるわ」
額の傷のことを殊更に騒ぎ立てれば、恵にまた余計な八つ当たりがいくかもしれない。
それだけは何が何でも避けたかった。
「まあ、椿……なんてけなげなの」
母親は涙をにじませて娘の頬に触れる。
「けなげというか――」
椿は目をそらし、言葉を飲み込んだ。
両親は椿の怪我を恵のせいだと信じこんでいる。
だが恵や婆やの話を聞くに、実際には、椿が鏡の影に隠れて恵を驚かせようとしたとき、勢い余って鏡が倒れてきただけ――つまりは自業自得だったのだ。
しかしそれを口にしたところで、両親が耳を貸すはずもない。
椿は心の中で小さくため息をつき、話題を変えることにした。
「それで先生、私はいつから学校に通えるのでしょうか」
実は椿はこの時代で自分が女学校に通っていることを知って、学校のことをひそかに気にしていたのだ。
大正時代の女学校。袴にブーツ、大きなリボンをつけた令嬢たち。
漫画やアニメではそんな光景を見たことがあるけれど、それが実際どんな場所なのか椿は全く知らなかった。
医者は白いひげを指先で撫でながら、ゆっくりと答えた。
「それなら来週あたりからでも大丈夫でしょう。幸いにも傷は大事には至らなかったようですが、何せ頭なのでね、念のためもう少し様子を見ても良いでしょう」
「そうですか……分かりましたわ、先生。一週間たてば記憶も戻るかもしれないし、そうしましょ。ねっ、椿」
母親が椿の頭を撫でる。
「ええ。そうしましょう、お母様」
元の記憶が戻ることなどないと椿は知っていたが、椿はそのことは悟られまいとできる限り柔らかく微笑んだ。
(さて、一週間後には女学校に通うことになったわけだけれど)
椿はごろりと布団に横たわると天井を見上げた。
(大正時代の女学校っていったいどんなところなのかしら。アニメや漫画では見たことがあるけれど――)
正直なところ、今の椿には傷跡の痛みよりも、これから始まる女学校生活への期待と不安のほうが大きかった。
椿が通っている女学校は、聞くところによると凛音が令和で通っていた高校と似たような呪術師の子女の集う学び舎のようだ。
しかし、大正時代の呪術学校というのはどんな授業をするのだろう。
「そうだ、教科書」
椿は部屋の本棚や机の中を漁り、椿が使っていたであろう教科書やノートを引っ張り出し、ペラペラとめくってみた。
国語に数学に理科、社会、家庭科。
今と比べてさほど高度な内容が教えられているわけではないことにほっとしつつも、問題となるのはやはり呪術だ。
令和では凛音は呪術を一切使えなかった。
椿として暮らしている今でも、呪術を使ったのは父親の前のあの一回だけで、覚えている呪文は一つもない。
だがいくら記憶喪失ということにしているとはいえ、学校に復帰した椿が呪術を一切使えないのは不自然かもしれない。
(学校が始まる前に呪術の特訓をしておく必要があるわね)
椿は屋敷の奥にある書斎へと向かった。
この書斎は、椿が幽閉された恵を探し回った時に偶然見つけたものだ。
普段は使われていない空き部屋のようだが、呪術や妖魔に関する書物がぎっしりと棚に詰まっている。
椿はそこから呪術書をいくつか見繕うと、こっそりと家を抜け出した。
(どこかに呪術の練習のできそうな場所はないかしら)
椿は近所を歩き回り散策してみることにした。
ひとけのない裏路地に河川敷。暗い林の中。
悩んだ末、椿は家の裏手にある小高い山の上の小さな神社に目を付けた。
苔むした石碑には「鬼爪神社」という文字が刻まれ、長い石段を上がった先には木々に囲まれた小さな社がある。
(鬼の爪……なんだか不吉な名前の神社ね)
椿は何となく嫌な予感がしつつも、とりあえず石段を登って様子を見て見ることにした。
石段を勢いよく駆け上がると、辺りを見回す。
(うん。参拝客や神主らしき人もいなくて広いし、強い気が集まってる。ここなら呪術の練習にちょうどいいわね)
椿は小さな社の縁側に腰かけると、さっそく家から持ち出した呪術書を開いた。




