5.虐げられた姉
婆やが長い廊下をすたすたと歩き出す。
老婆とは思えぬほどしっかりとした足取りに、椿はついていくのがやっとで、必死で婆やの後を追った。
(な……なんて早いの。まるで忍者だわ!)
椿が息を切らしながらも長い廊下の突き当たりにたどり着くと、婆や婆は床に仕込まれた隠し扉を音もなく開けた。
冷気がふわりと吹き上がり、錆びた鉄とかびの匂いが鼻をつく。
椿が戸惑っていると、婆やは迷いもなくその暗い穴へと身を滑らせた。
「さあ、こちらへ」
婆やに促され、椿も恐る恐る狭く湿った隠し通路の中へと足を踏み入れた。
石で造られた通路の壁は苔むし、水が滴っている。
灯りは婆やの持つ小さな行灯ひとつでなんとも心もとなく、椿は段々と不安な気持ちになってきた。
こんな暗くて寒い場所に恵は一人幽閉されているというのだろうか。
「こちらです」
婆やが立ち止まった先には、鉄格子がはめ込まれた一角があった。
重苦しい錆の匂いが漂い、床には古い藁が薄く敷かれている。
そしてそこには、膝を抱えて座る見覚えのある人影があった。
――黒百合恵だ。
「恵お姉様!」
椿が思わず声を張り上げる。
名を呼ばれた恵は、はっと顔を上げた。
灯火に照らされた横顔は元より細面ではあったものの、さらに痩せこけているように見える。
長い黒髪は乱れ、目の周りには青く痣が浮かんでいた。
椿は恵の痛ましい様子に胸を痛めつつ、鉄格子に駆け寄って声をかけた。
「恵お姉様、大丈夫? その痣はどうしたの?」
「……椿? どうしてここに?」
かすれた声で返事をした恵は、怯えたように身をよじらせる。
椿はふいに、過去に読んだ伝記や博物館に記されていた記録を思い出した。
(そういえば黒百合恵は腹違いの妹である椿に虐げられて育ってきたんだったわね)
恵の怯えた様子からして、過去に相当酷いことをされてきたに違いない。
ひょっとして、自分とは口もききたくないのだろうか。
視線を伏せたまま何も答えないでいる恵に、見かねた婆やが口を開いた。
「恵様、椿お嬢様は鏡に頭を打った衝撃で記憶喪失になっていらっしゃるのです」
「えっ?」
恵は大きな瞳をこぼれ落ちそうなほど見開く。
「そ、そうなの。だから私、頭を打った瞬間のことも何も覚えていなくて、それでどうしてこうなったのかあなたに話を聞きたかっただけなの。それがまさか、こんなに酷いことになっているだなんて……ごめんあさい」
言いながらも、椿の目からは涙がはらはらと流れ落ちていた。
伝記を読んで恵が虐げられていたことは知っていたが、椿はそれをどこか童話やおとぎ話のような遠い世界の出来事のように思っていた。
それが実際に恵が虐げられているのを目の前で見ると、想像していたよりもずっと悲惨で涙が止まらなかった。
(すべて私のせいだ……)
椿は恵の境遇について考えるだけで身が引き裂かれるような思いになった。
思えば、令和での自分の生活も似たようなものだった。
いつも妹ばかりが優先され、自分は「無能」となじられ肩身の狭い思いをしてきた。
だけれどここでの恵の扱いはそれよりずっと酷い。
時代のせいもあるのだろうけど――。
椿はきつく拳を握りしめると、座敷牢の中の恵に呼びかけた。
「お姉様、しばらく何も食べていないんじゃない? 私、何か食べ物を持ってくるわ。ちょっと待ってて」
椿の言葉に、婆やの顔色が変わる。
「椿お嬢様、お待ちください。そんなことをして、もし誰かに見つかったら――」
「見つからないようにするから大丈夫よ」
婆やが止めるのも聞かず、椿は元の道を戻り地下室を抜け出した。
まっ直ぐな廊下を息を切らしながら必死で走る。
そして台所からこっそり余ったご飯を拝借すると、それをおにぎりにして包み、懐へ忍ばせて再び恵の元へと戻って来た。
「これ、食べて!」
椿が不格好な塩おにぎりを差し出すと、恵は一瞬戸惑った後、ゆっくりとそれを受け取った。
そして一口、また一口と遠慮がちに食べ始めた。
「どう? 冷めてたあまりご飯だから、そんなに美味しくないかもしれないけれど――」
椿の言葉に、恵は首を横に振った。
「いえ、美味しいわ」
そう言った恵の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「どうしたの!? お姉様」
慌てる椿に、恵はそっとつぶやいた。
「椿……あなた、本当はこんなにいい子なのね」
「え?」
椿が顔を上げると、恵の澄んだ星空のような瞳が見えた。
どきり、椿の心臓が高鳴る。
「きっとあんなふうになってしまったのはお父様とお義母様のせいなのね。本当のあなたはきっと優しい人なんだわ」
「恵お姉様……」
辛い境遇に置かれているのに、けなげに微笑む恵。
なんて美しく可憐なのだろう。
その姿を見て、椿は心を打たれた。
自分はこの人を守らなくてはいけない。
そんな使命感に似た感情が胸の底から湧き上がって来る。
(そうよ……私がきっと、黒百合恵を……恵お姉様を幸せにしてみせるわ)
自分が――黒百合恵の虐げられる運命を変え、幸せなヒロインにするのだ。
椿は、そう強く決意したのだった。




