4.黒百合家のばあや
母親ががばりと椿に抱き着いてくる。
「ああ、良かった。椿ちゃん。あの無能みたいになったらどうしようかと思った」
だけれどその温かさとは裏腹に、椿はぞっと体が冷えるような思いがした。
「無能」――それはおそらく椿の姉の恵のことだろう。
彼女がそう呼ばれていたことは、伝記や資料館の展示で知っている。
そして椿が凛音だったころ、彼女自身もずっとそう呼ばれていたことを思い出し、胸がぎゅっと締め付けられる。
椿は恐る恐る母親に尋ねた。
「あの……ところでお母様。恵……お姉さまはどこにいるのですか? しばらく姿が見えないようですが……」
だが椿が恵の名を出すなり、優しかった母親は般若のような形相になった。
「ああ、あの無能なら、お仕置きのために閉じ込めてあるわ」
その言葉に、椿の背筋はぞっと寒くなる。
「えっ、どうしてですか?」
困惑した椿が聞き返すと、今度は父親が答えた。
「当然だろう。私の大事な娘であるお前に傷を負わせたのだ。しばらく反省させるのが筋というものだ」
「そんな」
椿は顔を覆った。
まさか自分のせいで、姉の恵がどこかへ幽閉されているだなんて。
(それに「私の大事な娘」って――恵だってあなたの娘でしょ!?)
椿の胸にむかむかと怒りがこみあげてくる。
まだ十七歳の少女にこんなひどい仕打ちがあるだろうか。
(こうしちゃいられないわ。恵を助けに行かないと!)
椿は母親と父親が去ったのを見届けた後、恵に会いに行こうと心に決めた。
きっと今ごろ、二人に閉じ込められ、ひどい目に合っているにちがいない。
ゆっくりと部屋の戸を開け、辺りを見回す。
そして誰もいないことを確認すると、椿は足音を立てないよう慎重に廊下を進んだ。
(黒百合恵はいったいどこにいるのかしら)
椿はうろうろと屋敷の中を歩き回り、それらしい部屋のドアを開けては閉めた。
けれど屋敷のどこを探しても恵の姿はない。
長い廊下を行き来しても、見かけるのは使用人たちのばかりで、広い屋敷の静けさに、椿は次第に心細くなっていった。
(いったいどこにいるのかしら。さっき両親にちゃんと居場所を聞いておけばよかった)
椿が途方に暮れて立ち止まっていると、ふいに背後から声がかかった。
「椿お嬢様。こんなところでなにをなさっているのですか」
振り返ると、皺だらけの顔をした老婆が立っていた。
白髪をきちんと結い上げ、古びた着物をまとっているその姿は、かつて呪術博物館で見た、あの「婆や」によく似ていた。
先祖代々仕えていると聞いたことがあるし、ひょっとするとこの老婆は、あの婆やのご先祖様か親戚なのかもしれない。
そう思うと椿はなんとも奇妙な縁を感じた。
「椿お嬢様、どこへ行くのです。部屋に戻ってじっとしていないと、額の傷にもさわりますよ」
老婆が再度尋ねる。
「え……と」
戸惑いを隠せずにいる椿を、老婆はじっと見据えた。
椿はビクリと身を震わせる。
「そういえば、お嬢様は記憶喪失でいらっしゃると旦那様と奥様が話しておられましたが、それは本当なのですか?」
「え、ええ」
「ではもしかして、この屋敷の中で迷子に? それは大変。婆やがお嬢様の部屋まで案内して差し上げましょう」
そう言って椿の手を引こうとする老婆に、椿は慌てて首を横に振った。
「あ、えと、違うの。私はただ、恵お姉様に会いたくて」
椿が恵の名を口にした瞬間、老婆の視線が急に鋭くなる。
「恵様に?」
老婆はぴくりと片眉を上げた。
その瞳は濁っているはずなのに、まるで心の奥まで見透かされるようだ。
椿は何となく落ち着かない気持ちになり、早口に答えた。
「ええ。目を覚ました時にちらりとだけ見たけれど、ここ二、三日全然会えていないし、閉じ込められているって聞いたから、大丈夫かなって」
「……それで、お仕置きを受けている恵様を見て不憫だと馬鹿になさるおつもりですか?」
ポツリと老婆は呟く。
「へ?」
思いもよらぬ言葉に、椿は慌てて首を横に振った。
「ち、違います。私はただ、どうしているだろうかって思ったのよ。私のせいで辛い目にあっていたら嫌だもの!」
だが老婆は力なく首を横に振る。
「恵お嬢様は今、座敷牢にいらっしゃいます。簡単に会うことなど旦那様や奥様が許しません」
――座敷牢。
その言葉に、椿の背中はゾクリと冷えるような心地がした。
映画や時代劇でしか見たことがないが、それが酷い場所であることは椿にも容易に想像がついた。
そんな場所に、自分の娘を閉じ込めるだなんて。
ふつふつと怒りが湧き上がり、椿は老婆に詰め寄った。
「その座敷牢というのはどこにあるのですか? 案内してください」
老婆は濁った眼でしばし椿を見つめると、やがて小さく息を吐いた。
「……どうやら、記憶を失くされたというのは本当のようですね」
「え?」
「良いでしょう。それでは案内しますね。くれぐれも他の者には見つかりませんように。それと、私のことは婆やと呼んでいただいて構いません」
「ええ、分かったわ、婆や」
椿が返事をすると、老婆――婆やはゆっくりと長い廊下を歩き出した。




