49.幸せなヒロイン
――それから六十年後。
澄み渡る秋空の下、柔らかな陽光が新築の建物を照らしていた。
白壁に刻まれた文字は「呪術資料館」。
今日は椿にとっては懐かしい――あの呪術史料館の開館式の日だ。
七十六歳となった椿は、差し出された鋏をゆっくりと受け取り、目の前に張られた紅白柄のテープを見た。
その手は若い頃よりも細く、節くれ立っていたが、不思議と震えはなかった。
――ここまで、よく歩いてきた。
そう胸中で呟きながら、椿は静かに鋏を入れた。
テープを切るぱちんという音と同時に、会場を包み込む大きな拍手。
招かれた呪術関係者たちが一斉に手を打ち鳴らし、椿はゆっくりと、深く頭を下げた。
その肩に、そっと重みが伝わる。
抱き寄せるように置かれたのは、しわくちゃになった大きな手だった。
顔を上げると、そこには白髪頭になり、口元にひげを蓄えた暁臣がいた。
若い頃の鋭さは影を潜めたものの、その涼しげな眼差しは昔の面影を残している。
その隣には、上品な着物を身にまとった恵の姿もあった。
目元や口元には年相応の皺が刻まれているが、柔和に微笑む表情は昔と何一つ変わらない。
椿と目が合うと、恵は少しだけ目を細め、柔らかく微笑み返した。
会場を見渡せば、黒百合家の人々の姿もある。
だが彼らは、本来黒百合家を継ぐはずだった利一の血筋ではなく、親類の家から迎えられた養子の子孫たちだった。
これが未来にどのような影響を及ぼすのか――それは誰にも分からない。
けれど少なくとも椿の目には、彼らはかつて知っていた黒百合家の人々よりも、ずっと質素で、穏やかで、欲の少ない人間たちに見えた。
自分の知っている「凛音」はひょっとしたら生まれないのかもしれない。
だがそれもきっと、神様の定めた運命なのだろう。
「それでは、さっそく中を案内しましょう」
係の者に促され、椿たちは新しい木の香りのする建物の中へと足を踏み入れた。
入り口付近では、暁臣が、すっかり人のよさそうな好々爺となった鉄太と昔話に花を咲かせている。
それを横目に、椿は恵と並んで資料館の奥へと進んだ。
最初に目に飛び込んできたのは、長い時を生き抜いてきた呪符や呪具の数々だった。
黄色く焼けた和紙に、墨でびっしりと書き連ねられた呪符。
丁寧に磨かれた木箱に収められた古い刀。
翡翠や瑪瑙で作られた勾玉、錆びついた銅鏡。
壁際のガラスケースには、動物なのか、それともそれ以外の何かなのか判別のつかない、黒ずんだ巨大な爪や牙がずらりと並べられていた。
そのどれもが、かつて人ならざるものと対峙してきた証だった。
さらに奥へと進むと、自然と足取りが重くなる。
この資料館のいわば中心――メインの展示室が現れた。
大正時代から昭和初期にかけて活躍し、近代呪術の基礎を築いた人物。
煌夜椿とその夫の暁臣についての展示だ。
椿は、展示室の中央に掲げられた一枚の写真に、思わず足を止めた。
写真の中の二人は、五十代半ばから六十代ほどだろうか。
暁臣は和装に身を包み、手には刀。
立派な口ひげを蓄え、涼しげな眼差しでこちらを射抜くように立っている。
その隣で、不敵な笑みを浮かべる椿はレトロなワンピース姿。
片手には銃を握り、暁臣に背を預けるようにして堂々と立っていた。
その姿は、夫婦というより、まるで同じ戦場を生き抜いてきた戦友のような佇まいだ。
椿は思わず口元を綻ばせた。
この二人こそが、煌夜家を単なる呪術師の名門に留めず、近代呪術の祖へと押し上げた立役者。
煌夜椿とその夫、暁臣である。
「わあ、お婆ちゃん、スパイみたいでかっこいい!」
孫娘の来未が、目をきらきらと輝かせながら声を上げた。
「お爺様も、お侍さんみたいでかっこいいですよ」
同じく孫の雪臣も誇らしげに言う。
「本当に素敵な写真ね」
恵もまた、どこか感慨深げに写真を見つめていた。
「ありがとう」
椿は微笑みながら答えたが、その胸中は少しだけ複雑だった。
(本当は、ここに恵お姉様の写真が飾られるはずだったのよね)
それが何の因果か。
椿の身体に凛音の魂が入り、暁臣の結婚相手が椿となり、運命は大きく変わってしまった――いや、別の世界線へと繋がってしまったのだ。
写真から目を離せずにいると、恵がそっと椿の手を握った。
「こんな素晴らしい妹を持って、私は本当に幸せ者だわ」
百合の花がほころぶような、可憐な微笑み。
その笑顔を見ているうちに、椿の胸の奥がじんわりと暖かくなる。
「……ええ。私も、幸せよ」
二人の幸せなヒロインが微笑み合っていると、後ろから暁臣が椿の手を取った。
年を重ねた指先は、相変わらず少し不器用で、けれど確かに温かい。
「何を二人だけで話しているんだ」
少し拗ねたような表情に、椿は思わずぷっと吹き出した。
「あなたと結婚して、幸せだって話してたんですよ」
そう言って、椿はきつく、けれど優しく暁臣の手を握り返した。
【完】




