47.鬼の爪
満月の光が芝生を淡く照らし、校舎の影がそこへ漆黒の闇を落とす。
椿は校庭の片隅で、恵に傷の処置を受けていた。
「ありがとう。さすがはお姉様ね」
恵の指先が触れたところから、じわりと温かさが伝わってくる。
椿は傷の処置を受けているうちに、だんだんと意識がはっきりとしてくるのを感じた。
暖かく、優しいぬくもり。
――だがそれと同時に、恵はどこか言いようもない違和感を覚えていた。
普通なら心地よく感じるはずの癒しの呪術。だけど――。
(癒しの術って、こんな感じだったかしら……)
痛みは引いていく。確かに効果はある。
でも、流れ込む呪力は椿の知っている癒しの術式とはどこか違っていた。
それに――薫子の治療に向かった時も、以前に椿の額の傷を治療した時も、どうして恵は夜を選ぶのだろう。
堂々と昼間にやればいい。隠す必要などないはずだ。
(私に知られたくない何かをしている? でも、なぜ?)
はっきりした理屈があるわけではない。
ただ直感あった。
(まさか――)
胸の奥で、疑念が確信へと形を変えていく。
椿は静かに立ち上がり、拳を握りしめた。
この勝負、勝てる道筋が――ようやく見えてきた。
「ありがとう、お姉様!」
椿はガバリと起き上がり、女神の手を握った。
「……え、ええ」
困惑して目を白黒させる恵みをよそに、椿ははっきりとした声で呼びかけた。
「ミケ!」
低く鋭い声が夜空に響く。
「はいニャ!」
茂みの影からミケが飛び出す。
月光を受けて影が伸び、ぽんと体が膨張し、巨大化する。
椿はミケに向かって叫んだ。
「私を背中に乗せて。黒百合利一の近くまで運んでほしいの」
「承知しましたニャ!」
椿は躊躇なくその背に飛び乗った。
「つ、椿……大丈夫なの?」
困惑する恵に、椿は口の端を上げ、ニヤリと微笑んだ。
「ええ、大丈夫よ」
椿は真っ赤な満月を見上げた。
「私たちは――勝てる!」
その言葉に、恵は一瞬戸惑ったあと、こくんとうなずいた。
「あなたがそう言うのなら……勝算があるのね?」
「ええ。……さあ、行きましょう、ミケ」
「はいニャ!」
とたん、ミケの大きな体がうなり、一直線に利一の元へと走っていく。
風で揺れるミケの毛並みはまるで波のようで満月の光をうけて金色に煌めいた。
夜の校庭を、巨大な猫と赤いワンピースの少女が風のように駆けぬける。
その光景を、恵は手をぎゅっと握りしめながら見つめた。
そして椿は走りながらスカートの裾を押さえたかと思うと、太もものホルスターへ手をやった。
椿が手に取ったのは、金色にきらめく銃だった。
月光を鋭く反射するその銃は、敦子が椿のために作った、唯一無二の武器。
椿の呪力を弾丸として封じ込めた特注品だ。
使う機会はないかと思っていたけれど――今がその時。
「暁臣さん、下がって!」
椿の声に、暁臣が反射的に一歩身を引く。
同時に、椿は白い指で引き金を引いた。
――ぱあん。
風の切れる音。
それと同時に三発の銃弾が発せられた。
弾丸は空を裂き、まっ直ぐに飛んでいく。
そしてそのうち一発が、利一の腕に吸い込まれた。
「ぐっ……」
赤い血がぽつぽつと芝に点を描く。
草の匂いと鉄の匂いが混じる中、鬼の爪はからりと利一の手から芝生へと転がり落ちた。
黒く濡れたように光る爪は、月明かりを受けて不気味に光っている。
椿はミケの背中にまたがったまま、その爪を拾い上げた。
そしてそのまま空を飛び、ひらりと校舎の上に着地した。
「返せ! それは俺のものだ――!」
利一の怒号が、夜の校舎に反響する。
椿は屋根の上、風を受けながら首を横に振った。
「いいえ、これは誰のものでもないわ。しいて言うならば――これを残した鬼の物……かしら」
椿は指先で爪を持ち上げた。月光が黒い刃のような曲線を照らし、冷たく光る。
「だから、この爪も本来あるべき場所に戻るべきよ」
言葉にした瞬間、夜風がひゅうと鳴り、校庭の闇がざわりと揺れた。
――はるか昔。平安時代。
この国に、まだ妖魔が当たり前のように蔓延っていた混沌の世。
この地に崩鬼という鬼がいた。
それは、怒りを喰らい、嘆きを喰らい、村を一つ飲み込んでなお飢え止まぬ異形であった。
目撃した者の語りは常に異なり、顔のない鬼、腹の裂けた鬼、骨の獣だと語る者もいた。
そんな崩鬼を封印したのは、廻と呼ばれた術師であった。
廻は黒百合家の祖となったと伝えられる、謎多き術師。
封印の直前、崩鬼は最後のあがきを見せた。
右腕を突き出し、爪の一本だけが封印から逃れ、この地にぽつりと残った。
それが、椿の手の中で脈打つこの爪の正体である。
たった一本の爪。
しかしそこに宿る呪力の残滓は、人間からしたらそれだけでも途方もない呪力であった。
手にした者の運命を狂わせるほどに――。




