44.満月の夜
「煌月女学園」
低い声で椿は呟いた。
胸の奥がざわざわと震える。
鬼を呼び出すのであれば、鬼爪神社が最もふさわしい場所だと、誰もが当然のように考えるだろう。
古くから鬼が祀られてきた場所だからだ。
だが――今回の事件は崩鬼に関わりがあると特呪も気づいており、今、あの場所は特呪の監視下にある。
犯人がそれを予見して鬼爪神社を避けてもおかしくない。
そしてその代わりに選ばれたのが、煌月女学園なのだろう。
よくよく考えてみれば、煌月女学園は呪術師の血を引く若い女性たちが集う場所。
その身体に宿る呪力が、昼も夜も絶えず巡っている。
鬼を呼び出す儀式には十分すぎるほどの条件が揃っている。
そして学園には広大な敷地があり、夜であれば人目を逃れることも難しくない。
「……あれ?」
と、ここで、椿は地図上に赤い点を一つ打ち忘れていたことに気付いた。
薫子が襲われた場所だ。
慌てて薫子の襲われた地点を足すと、この場所だけが、なぜかぽつんと呪術陣から離れていた。
(これは……犯人のミスかしら。それとも薫子さんが犯人を目撃したから口封じに……とか?)
腕を組み、考えてみたけれどこの一点だけが椿にはどうしても分からなかった。
やはり犯人は、薫子に恨みを持つ人物なのだろうか?
(まあ、いいわ。場所は分かったもの。あとは、いつ鬼を呼び出すかね)
椿は壁にかかっているカレンダーへと視線をやった。
このカレンダーは敦子から貰ったもので、古い呪術師の家系にふさわしく、日付の下には、大安や仏滅といった六曜のほか、旧暦と月齢まで細かく記されている。
(そういえば、今夜は満月……)
椿は立ち上がり、薔薇のカーテンを開いた。
濃紺の空には、血のように赤い満月が浮かんでいる。
雲は晴れ渡り、月だけが異様なほどはっきりと光る空。
その光景を見た瞬間、椿の背筋を冷たいものが駆け抜けた。
胸の奥が嵐のようにざわめく。予感があった。
今夜は満月。呪力が最も満ちる月の日
(鬼の召喚を決行するのは、もしかして今日!?)
気付いた時には、椿はコートを掴み、勢いよく部屋を飛び出していた。
「椿様、どうしたニャ?」
寝転んでいたミケが目を丸くし、尻尾をぴんと立てる。
「えと……ちょっと学校に忘れ物をして……今から取りに行ってくるから、ここで待ってて!」
「今からニャ!?」
椿は苦し紛れに言い訳をすると、驚くミケに返事をする余裕もなく、玄関へ駆け出した。
外へ出ると、夜の空気は鈍く重く湿っている。
――呪力の気配だ。それも特大の。
椿は息を切らしながら煌月女学園へと走った。
歩けば十五分ほどの距離のはずなのに、その道のりは永遠のように長く感じられる。
(早く――早く行かなくては!)
そしてようやく校門へとたどり着いた時、椿は息をのんだ。
校門を守るはずの呪符が、無残に引き裂かれている。
(誰かが結界を壊した?)
月明かりに照らされる黒い門扉へ、椿は恐る恐る手を伸ばした。
鍵はかかっていない。
椿は慎重に門を押し開け、狭い隙間を身体を細くしてくぐり抜けた。
金属がきしむ僅かな音が、夜の闇に響く。
人の気配は一つもない。
校舎は静まり返り、校舎裏の樹々が不気味にざわめく。
そして広い校庭の中心に――真っ黒な人影が見えた。
はじめは暗闇に紛れて輪郭しか見えなかったが、雲が流れ、濃い月光がその姿を照らすと、椿は息を呑んだ。
「……黒百合利一!」
黒い影を背負うように立っていたその男は、椿と恵の兄であり、凛音の先祖でもある黒百合利一だったのだ。
彼の手には、夜の闇さえ吸い込むような、深い漆黒の鬼の爪が握られている。
爪は禍々しい光を宿し、空気そのものを重く歪ませている。
(あれは……鬼爪神社のご神体……鬼の爪……!)
椿の予感は確信へと変わっていく。
黒百合利一であれば、黒百合家に出入りし『崩鬼録』を読むことも持ち出すこともできる。
鬼を呼び出す方法も、利一なら知っていて当然だ。
だが――分からないのはただひとつ。
(なぜ、利一兄さんが……そんなことを)
動機だけが、どうにも分からない。
利一は椿の姿を認めると、ゆっくりと口元をつり上げた。
狐のように細い目が、月光を受けてぎらりと光る。
「やあ、椿。来てくれたんだね。やっと僕たちの計画を思い出してくれたのかな?」
「計画?」
椿は反射的に言葉を返す。喉が乾き、声が震える。
利一と椿の計画といえば――まさか。
「封印された崩鬼を呼び出す計画?」
椿の言葉に、利一はゆっくりと笑った。その笑みは冷たく、底が見えない。
ひょっとしたら、本来の歴史でも、利一と椿は共犯だったのかもしれない。
だが最後の最後で、利一は椿を裏切った。
殺しも罪も、全て椿一人に押しつけて。
(そういうことだったのね)
椿はぎりりと奥歯を噛みしめた。
胸の奥に、静かな怒りが燃え上がっていく。
目の前の男は、そんな椿の気持ちなど知らず、椿に向かってそっと右手を差し出した。
「ああ、そうさ。鬼の力さえがあれば、俺たちはこの国――いや、世界を手にできる。だが俺一人では力が足りない。今こそ二人で協力して、鬼を呼び出そう!」




