41.崩鬼録
椿は鞄に二冊の本を押し込めると、ゴクリと唾を飲み振り返った。
すると書斎の入口の薄明りの中に、黒百合家付きの老女――婆やが立っていた。
「……婆や?」
いつもと変わらぬ穏やかな表情ではあるものの、その瞳は椿が初めて見るほど鋭い光を宿してい。
婆やはそっと椿に歩み寄ると、静かに尋ねた。
「お嬢様……こんなところでどうなさったのですか? ご帰宅なさるのは週末のご予定では?」
椿は思わず背筋を伸ばし、作り笑いを浮かべた。
「あ、あの……ちょっと調べたいことがあって……すぐに帰るわ」
だが婆やは椿の言葉を遮るように、小さくため息をつくと、椿の手元の鞄へと一瞥を送った。
「……そうですか。その調べ物と言うのは、ひょっとして鬼のことでは?」
ドクン、と椿の心臓が大きく鳴る。
婆やは濁った瞳で椿を見つめている。
その目はまるですべてを見透かすかのようで、椿は背筋がぞっと寒くなった。
「な、なぜそう思うの」
思わず一歩後ずさりをすると、婆やは小さく息を吐いた。
「普通の呪術や妖魔のことならば、煌夜家で調べたほうがはるかに早いでしょう。それをわざわざこの屋敷で調べるのは……鬼のことぐらいしかございません。この黒百合家は鬼首神社のお膝元なのですから」
椿は口を引き結び、しばし迷った末に、観念したように囁いた。
「実は、女学校の友達の婚約者が何者かに襲われて、その事件に鬼が関わってるらしいの。だから私も気になって……」
その瞬間、婆やの表情がぴしりと引き締まり、目の色がさらに鋭くなる。
「――なりませぬ!」
ぴしゃりと遮るように言う婆や。
椿はびくりと肩を震わせる。
「この件には、椿様は絶対に手を出してはいけませぬ。鬼は他の妖魔とは全く違う存在。手を出せば――傷つくのは椿様でございます」
婆やの低い声に、椿は胸の奥がぎゅっと縮むのを感じながら、小さく頷いた。
「わ、分かったわ」
それを聞いた途端、婆やはほっとしたように椿の手をそっと取った。
「でしたら、早くお帰りくださいませ。もうじき旦那様たちがお帰りになります。誰かに見つかる前に、早く」
「え、ええ……」
薄暗い廊下を、婆やに引かれるまま歩く。
「あの、ところでお父様たちはどちらへ? みんなで出かけているの?」
椿が尋ねると、婆やは目を伏せ、低い声で答えた。
「……病院にございます。風祭家の鉄太様が何者かに襲われてお怪我をされたらしく、旦那様と奥様、恵様の三人でお見舞いに行っていらっしゃいます」
「何ですって!?」
鉄太さんが……襲われた? いったいどうして!?
椿の背筋がぞっと冷える。
「て、鉄太さんはどこの病院に――」
椿が慌てていると、婆やは首を横に振った
「幸いにも、鉄太さんの意識はあるようですし、病院には恵様がいらっしゃるので大丈夫です。今はご家族だけでそっとしてさし上げるのが良いかと。椿様はもう少し容態が安定してからお見舞いをなさったほうがよろしいかと思います」
「そ、そうね」
婆やの言葉に、椿は下を向いた。
薫子の時は動転して病室まで押しかけてしまったが、確かによく考えたらいきなり家族以外の人間が来ても迷惑かもしれない。
「分かったわ。私はもう少し日を開けてお見舞いに行くことにする。それから婆や、私がここに来たことはくれぐれも内緒に――」
「はい、誰にも言いませんとも」
その言葉と同時に、婆やは周囲を鋭く見回し、椿を屋敷の外へ押し出すように送り出す。
次の瞬間、戸がぴしゃりと閉じ、鍵が閉まる固い音が辺りに響いた。
椿はしばし呆然と立ち尽くす。
婆やのあの態度――何かを隠しているような気がする。
でも一体、何を?
私が傷つくって……何?
そんな疑念が胸をもやもやと占領する。
けれども、立ち止まっているわけにはいかない。
椿は振り返ることなく、煌夜家へと家路を急いだ。
***
「おかえりなさいニャ」
煌夜家に着くと、いつものようにミケが満面の笑みで出迎えてくれる。
「……ニャ?」
と、ミケが椿の上着の匂いを嗅ぎ、不思議そうな顔をする。
「どうしたの、ミケ」
「椿様、ここに来る前にどこかへ寄られましたかニャ?」
椿はぎくりとしながらも顔に笑みを張り付けたまま答える。
「え、ええ。黒百合家に寄ったの。その……忘れ物があってすぐに取りに行きたかったから」
「そうでしたかニャ。何か椿様の鞄から嗅ぎなれない匂いがしたので気になったニャ」
ミケが無邪気な笑顔で答える。
椿の心臓がギクリと鳴った。相変わらずミケはするどい。
「そ、そう? それじゃ私、部屋で休んでくるわね」
椿はこれ以上詮索されまいと、大急ぎで自分の部屋へと戻った。
(驚いたわ。まさか鉄太さんまで襲われるだなんて)
でも意識はあると言っていたし、婆やの口ぶりから察するに、そこまで重症ではないのかもしれない。
(意識があるのならば、犯人を目撃したかどうか聞いてみたいけれど……)
恐らくそう言った聞き込みは特呪で行われるはずだ。
あとで暁臣にその結果を聞いてみても良いかもしれない。
(結局は暁臣さんに頼ってしまうことになるわね)
――だが椿にもできることはある。
椿は鞄からそっと黒百合家から持ち出した二冊の本を取り出した。
『鬼爪神社 崩鬼録』の上巻と下巻だ。
「……さてと」
椿は机に座り、ぐっと腹に力を入れ気合を込めると、崩鬼録をそっとめくり始めた。




