32.すれちがいの恋模様
夕日がビルの隙間に沈み、街灯がぽつぽつと灯り始めるころ。
椿と鉄太は黒百合家へと戻ってきた。
「今日はありがとう」
「いいえ。こちらこそ、楽しかったわ」
鉄太は少し照れたように後頭部をかく。
「今度は椿ちゃんにも何かお礼をさせてもらうよ」
「いえ、とんでもない」
「別に遠慮しなくたっていいよ」
彼の屈託のない笑顔に、椿もつられて口元を和らげた。
「それなら……」
少しだけ迷ってから、椿は小さく息を吸った。
「鉄太さん、私とお姉様が写った写真なんか持っていたりしないかしら」
おずおずと椿が切り出す。
この時代、写真はまだ高価なものであったが、上流階級の家庭には家族写真も広まりつつあり、黒百合家にも何枚か写真がある。
だがこの家で虐げられて育った恵の写真は写真はほとんどない。
けれどひょっとしたら鉄太の家なら、幼馴染である恵との写真が残っているかもしれない。そう椿は思ったのだ。
「それなら、家を探せば何枚かあるかもしれない。うちの親父が写真好きで、カメラを持ってるから」
「本当?」
ぱっと顔を輝かせた椿に、鉄太は軽く頷いた。
「ああ。そういえば、椿ちゃんは頭を打ってから記憶喪失になってるんだっけ? 昔の写真を見れば何か思い出すかもな。家に帰ったらちょっと探しておくよ」
実を言うと、椿が写真を欲しい本当の理由は、記憶を取り戻すためではない。
煌夜家に戻っても恵の顔を見たいからであった。
煌夜家の皆は優しいけれど、やはり時々恵がいないのが寂しくなる。
暁臣が女性と歩いているのを見た今、つばの心の支えとなるのは恵だけだ。
そんな時、恵の写真があればいいと思ったのだ。
けれどそんなことを鉄太に言うのは恥ずかしいので、椿は黙ってうなずいた。
「ええ、そうしてもらえると助かるわ。ありがとう」
「じゃあまた。恵さんにもよろしく」
手を振って別れると、鉄太の背中は夕闇の中へと溶けていった。
「ただいま」
家に戻ると、玄関に見覚えのある、恵の履き古した靴がそろえて置かれていた。
その小さく慎ましい佇まいに、椿の胸はほっと温かくなる。
「ただいま、恵お姉様」
恵の部屋へ向かうと、恵は読んでいた本を閉じ、控えめな微笑みを浮かべて出迎えてくれた。
「お帰りなさい。暁臣様のご実家はどうでしたか?」
「それがね――」
椿は今日あった出来事を順を追って話した。
ミケたち妖魔の召使いたち、敦子のこと、暁臣やツネのこと。
そのたびに恵は「まあ」と目を丸くし、少女のような好奇心できらきらと瞳を揺らす。
けれど、あの和服の女性の話だけは、どうしても恵に言えなかった。
恵に余計な不安を抱かせたくなかったし、話そうとすると胸が詰まって言葉が出てこなかったからだ。
「良かった。心配したけれど、うまくいっているようね」
恵は胸を撫でおろすように微笑んだ。
「それで、恵お姉様のほうはどうなの? 風祭家とはうまくいっているの?」
「ええ。風祭家のおばさんも旦那様も昔から知った仲だし、とてもよくしてくださるわ」
「それなら良かったわ」
「でも――」
恵が視線を落とす。細い指がハンカチをいじり、不安を物語っていた。
「鉄太さん、昔は親しく遊んでいたはずなのに、最近何だかよそよそしいような気がするの。何かを隠してるというか――」
「えっ!?」
椿の心臓がドキリと飛び跳ねる。
「そ、そんなことないんじゃないかしら。鉄太さんはあなたのことが好きだし、男女の関係になったのだから、そりゃ昔みたいな親しい友達のような感じにはならないわよ!」
「そ、そうよね。でも――」
恵は椿の様子をちらと伺うように見上げた。
「私、見てしまったの。先ほど、鉄太さんと椿が仲良く家に帰ってくるところを」
「ええ!?」
椿は全身から血の気が引いた。
よりによって恵本人に見られていたなんて。
「そ、それはたまたま銀座で買い物していたらばったりと会って、女一人じゃ危ないからって送ってくださったのよ! 何もやましいことなんてないわ」
慌てて説明すると、恵は安堵したように胸に手を当てた。
「そ、そうよね。私ったらてっきり……疑ってごめんなさい
「もう嫌だわ、お姉様ったら! もしかして、私と鉄太さんに嫉妬していたの!? ないない! 私は鉄太さんに興味はないし、鉄太さんも私のような女は好みじゃなくてよ!」
椿はわざと豪快に笑ってみせた。
恵もつられて笑うはず――そう思っていたのに。
恵の白い頬がみるみる赤く染まり、目の端に涙がたまっていく。
「嫌だわ! お姉様、何で泣いているの!?」
「だって、安心したんですもの。私って椿のように美人でも聡明でもないし、何のとりえもないから、鉄太さんに見捨てられたらと思うと――」
涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
椿は思わず恵を強く抱きしめた。恵の細い肩は震えていた。
「何言っているの、恵お姉様は可愛いし、心も清らかだし、謙虚で……良いところがたくさんあるわ」
「そうかしら」
恵は涙をぬぐい、少し照れたように微笑んだ。
その健気な姿を見て、ふと胸がちくりと痛む。
――こんないじらしくて可愛い嫁だったら、暁臣も大切にしてくれたのだろうか。
けれど、すぐにその考えを振り払う。
自分の望みはただひとつ。
恵を幸せにし、破滅する未来を変えること。
そうだ。本来ならば、自分はこの後、呼び出した鬼に喰われて死ぬはずだったのだ。
それ以上を望むなんて、きっと贅沢なのだ。
椿は自分にそう言い聞かせた。




