29.邪悪な魂
敦子は家のドアベルを鳴らした。
――かとおもうと、返事が来る前にがらりと戸を開けた。
「やっほぉ。椿ちゃん、連れて来たわよぉ」
引き戸の向こうに現れたのは、白髪をぴっちりと結い上げた老婆だった。
「何やってるんだい、遅かったね」
彼女は手に持った錫杖を地面に打ち付けながら、じろりと鋭い目で敦子と椿を睨んだ。
「そうは言っても、椿ちゃんにだって学校があるし」
敦子が答えると、老婆はフンと鼻を鳴らす。
「ふん、女に学をつけて何になるのやら」
椿は思わず背筋をこわばらせた。
「あの……もしかしてこの方は」
おそるおそる尋ねた椿に、敦子がすぐに答えた。
「あら、紹介しそびれたね。こちらは煌夜ツネさん。私の義理のお母さんで、暁臣の祖母よ」
(暁臣さんの……お祖母様!?)
椿はごくりと唾を飲みこんだ。
椿は慌てて頭を深く下げた。
「は、初めまして! 黒百合椿と申します」
だがツネは、眉間に皺を寄せてピシャリと声を上げた。
「敦子、あんた暁臣の母親なのに私に嫁の一人も紹介しないってどういう了見だい! おまけにまだ籍も入れていないのに一緒に暮らさせるだなんて!」
敦子は腕を組み、フンと鼻を鳴らしてツネを睨みつけた。
「うるさいわねえ。言ったら反対されるからに決まってるじゃん」
「それにね、私が嫁に連れてこいと言ったのは黒百合恵だよ。何だいこの短髪のはすっぱ娘は! モダンガールだか何だか知らないけど、恥知らずな!」
ツネの声がさらに高まる。
椿はその場で小さくなりながらも、二人の言い合いにおろおろとするしかなかった。
敦子が腰に手を当ててやれやれと首を振る。
「そういうけどね、聞いたところによると恵さんには何の能力もないというじゃないのよ。そんな娘を煌夜家に嫁がせてどうするの? 我が家に足手まといはいらないわよ」
「それでも、こんな恥知らずな恰好の女よりはましさね!」
二人の間にピリッとした火花が走った……ように見えた。
どうやらこの二人の嫁姑関係は思った以上に深刻らしい。
椿がどうしていいか分からず視線を泳がせていると、パキンとどこかでガラスが割れるような音がした。
「……今のは?」
椿がとまどっていると、ツネが低く舌打ちする。
「ま、とりあえず今はそれどころじゃないよ。早く手伝っておくれ」
「は、はい」
ツネの視線が部屋の奥へと向く。
椿もその視線を追い、部屋の奥の暗がりをじっと見つめた。
(あそこ……何かいる?)
椿は思わず眉を寄せた。
部屋の一角に、黒く妖しい影がある。あれは――妖魔!?
よくよく目をこらして見ると、尖った耳の狐のような妖魔がこちらへ牙をむいている。
(学校で習ったけれど、狐の妖魔って呪力が強くてかなり位が高いのよね……大丈夫かしら)
椿が緊張しながら一歩下がると、ツネはニヤリと口の端を歪ませて笑った。
「さてと、新しいお嫁さんはどこまでやれるやら」
(これは……私の力を試されているのかしら)
そう考えた椿は、素早く口の中で呪文を唱えた。
(それなら私も、最大限の力を見せるのみ!)
「――炎!」
椿が唱えると、手のひらから炎が噴き出す。
すると黒い動物霊は、瞬く間に消し炭になり霧散した。
(なんだ、意外と弱いのね)
椿がほっと息を吐いていると、敦子はキョトンと目を丸くした。
「嘘っ!?」
「へっ……?」
椿は目を見開いて首を傾げた。
(私、そんなに変なことしたかしら……)
実のところ、特段椿が変なことをしたわけではない。
敦子とツネしては、もともと椿と三人がかりで妖魔を倒す予定だった。
それを未来の嫁候補が一撃で倒してしまったため、二人は驚いていたのだ。
むしろ椿の力がツネと敦子の想像以上に強くて驚いていただけなのだが、そんなことなど知る由もない椿は戸惑ってしまった。
(もしかして私の呪術が自己流だから変……とか?)
椿がわけも分からずオロオロしていると、ツネは厳しく眉根を寄せた。
「……ふん、どうやら力はそれなりにあるようだね。だが私は騙されないよ。その子には邪悪な魂が宿っている。そんな娘を嫁にしたら、いずれ煌夜家を乗っ取られるよ!」
***
「椿ちゃん、あんなクソババアの言うことなんて気にしなくていいわよ!」
煌夜家の屋敷に帰るなり、敦子は声を荒げてこう言った。
広々とした玄関ホールに敦子の声が反響し、椿は思わず立ちすくんだ。
「は、はあ」
苦笑いを浮かべながら靴を脱ぎ手を洗った椿は深くため息をつき、洋館のリビングのソファーに腰かけた
「あの人はね、私のすることは何でも気に入らないの。だから私が連れて来たお嫁さんのあなたも気に入らないのね。こんなに素晴らしい術師は滅多にいないのに!」
敦子は腰に手を当て、苛立ちを隠そうともせずに続ける。
椿はただ微笑みを浮かべるしかなかった。
「でも大丈夫。私はあんな姑にならないわ。あなたの味方になりたいの」
少し声の調子を落として、敦子は柔らかく言葉を続けた。
その瞳には真っすぐな優しさが宿っていて、椿は思わず息をのむ。
「お義母様……」
「だから嫌なことがあったら何でも言ってね。一緒に住むのが堅苦しくて嫌だっていうのなら、ここにはまだまだ敷地もあるから、もう一戸家を建ててそこに住んだっていいのだし」
さらりととんでもない提案をする敦子に、椿は慌てて首を振った。
「そんな! このお屋敷でも十分広いですし、そこまでしていただかなくても大丈夫です!」
その言葉に、敦子はふっと表情を緩めた。
厳しい印象を与える整った顔が、母のような柔らかさで満ちていく。
「あなたは優しいわね。大丈夫、貴女はうちの大切なお嫁さんよ。私が守ってあげるわ」
そう言って、敦子は椿をそっと抱きしめた。
淡い香水の匂いと、包み込むような温もりが椿の胸に広がる。
その温かさに、椿は遠い昔に亡くなった凛音の母親を思い出した。
「……ありがとうございます」
椿はそのぬくもりに甘えるように目を閉じた。けれど、その奥底で――胸がズキリと痛む。
ツネに言われた言葉が、耳の奥でよみがえる。
『その子には邪悪な魂が宿っている。そんな娘を嫁にしたら、いずれ煌夜家を乗っ取られるよ!』
(……邪悪な魂、かあ)
心の中で椿は自嘲気味に笑った。
確かに、この身体には“椿”ではない――“凛音”の魂が宿っている。
暁臣にはそれは告げてあるが、敦子もツネも恵も、他の誰もこのことは知らない。
そして真実を明かした瞬間、きっとこの温もりも、微笑みも、全て失ってしまうのだろう。




