28.花嫁修業
「はあ、疲れた」
椿は頬を机に押しつけながら、深く息を吐いた。
(週に数日、花嫁修業をするだけのはずだったのに)
それがまさか、暁臣と同じ屋敷で暮らすことになるだなんて。
しかも屋敷には、あの敦子夫人まで一緒にいるときた。
……だがよく考えると、敦子夫人には嫌がらせを受けているわけではない。
むしろ、敦子は礼儀正しく、椿にも丁寧に接してくれる。
部屋は階が違ってかなり離れているし、ずっと一緒というわけでもない。
ミケや犬介だって可愛い。
けれど姑と近くに住んでいるというだけで何となく椿にはプレッシャーに感じられるのだった。
(お姉様に会いたいな)
ふと椿はそんなことを思った。
よく考えたら、昨日も今朝も恵とろくに会話もできなかった。
きっと椿が急に煌夜家に住むことになり驚いたに違いない。きちんと説明しないと。
そう考えた椿は、授業が終わると同時に、教科書を鞄に押し込んだ。
廊下を足早に歩き、目指すは恵の教室。
「お姉様、一緒に帰りましょう」
教室の戸口で声をかけると、恵は少し目を丸くしてから穏やかに微笑んだ。
「え……ええ」
その優しい笑顔に、椿の胸は心の底からじんと温かくなる。
二人で廊下を並んで歩きながら、椿はそっと尋ねた。
「お姉様もびっくりしたでしょう。急にこんなことになって。お家のほうは大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。お父様もお母さまも少しピリピリはしているけれど……」
恵の声には、どこか疲れの色が混じっていた。
話によると、どうやら両親は
『こうなったのは姉のお前が早く嫁に行かないからだ』
『椿は姉より先に妹が嫁に行くことを気にしているに違いない』
『それで籍も入れていないのに同居の話になってしまったのだ』
と言い出し、恵の嫁入り話を急ピッチで進めているらしい。
「向こうの――鉄太さんのご両親とはもうお会いしたの?」
椿が問うと、恵は小さくうなずいた。
「ええ。幼いころから知った仲だし、鉄太さんのご両親はとても温厚な方たちよ。私たちの結婚も祝福してくださっているの」
「そう、それは良かったわ」
椿はほっと胸を撫で下ろした。
恵が無理をしていないと分かるだけで、肩にのしかかっていた重荷が少し軽くなる。
「椿のほうのはどう? 花嫁修行は辛くない?」
今度は恵が椿に尋ねてくる。
「それがね――」
と、椿が昨日の出来事をおもしろおかしく話そうとしたその時、突然周囲がざわめきに包まれた。
廊下を行き交う生徒たちの視線が一斉に校門の方へ向かう。
「見て、あんなところに車が」
「黒塗りの外国車……誰のかしら?」
「あれは……理事長の煌夜敦子様ではなくて!?」
へ?
敦子夫人!?
恵と椿は同時に顔を見合わせた。
敦子はこの学校を経営する理事長ではあるが、式典以外の日に学校に来ることなど滅多にない。
一体なぜ?
椿が目を白黒させていると、恵が腕を引く。
「敦子様って、暁臣さんのお母様よね? 椿のこと、待ってるんじゃない?」
恵が囁きながらちらりと椿の顔を見る。
「……そうかも」
椿は渋々うなずいた。
どうやらゆっくり恵と下校しながら話ができると思っていた椿のあては外れたようだ。
椿と恵は急いで敦子の待つ校門前まで走った。
(一体、どうなってるの!?)
椿は急いで校門へと駆け寄った。
校門の前に黒い外国製の車が停まっており、その傍らには敦子がモデルさながらのポーズで堂々と立っている。
「あ……敦子夫人、どうなさったのですか?」
椿の視線に気づいたのか、敦子は軽く右手を上げて微笑んだ。
「あらあ、椿ちゃん、迎えに来たわよぉ!」
敦子がぶんぶんと手を振る。
椿は、ざわめく生徒たちの好奇の視線が、一斉にこちらに注がれるのを感じた。
「あ……ありがとうございます」
椿は苦笑いを浮かべつつもお礼を言った。
どうせなら恵も送ってもらえば――と後ろを振り返ったが、恵はいつの間にやら群衆に紛れ、姿を消していた。
(お姉様……何て素早いの)
椿があっけに取られていると、敦子が強引に椿の腕を引っ張り、あれよあれよという間に車に乗せられてしまった。
「それじゃあ、車を出すわね」
敦子が合図を出すと、運転手がエンジンを動かした。
車が滑るように動き出し、女学校の門とざわめきが次第に遠ざかっていく。
椿はほっと息を吐いた。
だが、進む方向が煌夜家とは違うのに気づいて、椿は眉をひそめた。
「どこかへ寄られるのですか?」
問いかけると、助手席の敦子は笑みを浮かべる。
「言ったでしょう、今日は煌夜家の花嫁修業の日よ」
(そういえば、週に二、三度花嫁修業をするって言っていたけれど……)
椿は窓の外に視線を移す。
花嫁修業ということは、ひょっとしてお茶やお華の稽古に連れていかれるのだろうか。
しかし――車はやがて郊外へと抜け、人気の少ない道を進み始める。
やがて車は古びた洋館の前で静かに停まった。
「ここって……」
椿は思わず息をのんだ。
外壁には蔦が絡みつき、窓には大きな蜘蛛の巣がこびりついている。
人の気配はなく、とても何かの手習いをやっている屋敷には見えない。それに――。
ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。
「まさか……ここ、何か出ます?」
椿はごくりと喉を鳴らした。
「そう。分かっちゃった?」
敦子はおちゃめな仕草でウインクをした。
一方椿はというと、さあっと血の気が引くような気持ちになった。
「もしかして花嫁修業って、妖魔退治のことなのですか?」
椿が恐る恐る尋ねると、敦子は無邪気な笑みを浮かべたままうなずいた。
「ええ、そうなの。明治になって、警察内部に特呪って妖魔専門の組織はできたけど、警察沙汰にならないような呪術や妖魔がらみの小さな依頼は、昔みたいに私たち呪術師の一族が受けているの」
「そ、そうなんですか」
椿は後ずさりをしながら答えた。
どうやら煌夜家の嫁というのは思った以上に特殊なようだ。




