26.煌夜家の夜
「はあ、気持ち良いお風呂だった」
晩餐会が終わり、湯浴みを終えると、椿はようやく自分の部屋で一息ついた。
檜の香るお風呂はそれだけでも黒百合家のお風呂より広くてとても立派だった。
けれど、敦子が言うには他にもう一つ洋風のお風呂と露天風呂もあるらしい。
お金持ちの家というのはこうも違うのかと椿は驚くばかりだ。
すると不意にドアが控えめにノックされた。
「はい?」
ひょっとしてミケだろうか。
椿が返事をして戸を開けると、扉の向こうには暁臣が立っていた。
「暁臣さん……!」
胸がどきりと大きな音を立てる。
目の前に立つ暁臣は、いつもの洋装とは違い、紺の着流しを身に纏っていた。
風呂上がりのせいか首筋が少し赤らんでおり、白い肌に細い黒髪が張り付いている。
(暁臣さんっていつもは制服やスーツを着てるし、なんだか別人みたいでちょっと落ち着かないわ)
椿は、少しそわそわと落ち着かない気持ちで暁臣を部屋の中へと招き入れた。
テーブルの上では橙色のランプがやわらかく光を放っている。
暁臣は臙脂のソファーに腰かけると、指を組んで申し訳なさそうに椿を見つめた。
「色々とすまない。びっくりしただろう」
「本当にね」
椿は腕を組み、精一杯の嫌味を込めて言い返した。
今日一日の出来事は「びっくりした」だなんてそんな一言で言い表せるものではない。
暁臣はそんな椿の姿を見ると、困った顔をして少しうつむいた。
「見ての通り母さんは強引だし、俺に相談せずに物事を決めてしまうから……本当に申し訳ない」
こんなに困った顔の彼を見るのは初めてだった。
彼もまた、あの母親に振り回されて参っているに違いない。
そう考えると、椿の気持ちも少し緩んだ。
「確かにあのお母さんは手ごわそうね」
椿が軽く笑うと、暁臣は遠い目をしてうなずいた。
「ああ。父と一緒に暮らしていた時はそうでもなかったのだけれど、今は父がいないのをいいことにこの家で自分の思い通りに振る舞っているから、余計にそうなんだ」
暁臣の言葉に、椿は軽く首を傾げた。
「そういえば、暁臣さんのお父様はどこにいらっしゃるの? 今日いなかったみたいだけれど……」
思えば晩餐会の時もその後もこの屋敷にいるのは敦子と暁臣、それから椿の三人だけで他の家族の姿はなかった。暁臣の父親はどこにいるのだろう。
椿が疑問に思っていると、暁臣が教えてくれる。
「ああ、父は妖魔退治に全国を飛び回っているから、ここへは滅多に帰らないんだ。戻るのは、年に一、二度くらいかな。今は九州のほうにいる」
「そうなんですね。」
椿が驚いていると、暁臣はうなずく。
「だから母も寂しいみたいで……でも君のことは気に入ってくれているみたいで、よかった」
「それはありがたいけれど、でももし想像と違ったと失望されたら怖いわ」
椿は部屋のランプに視線を落とし、ぽつりとつぶやく。
敦子夫人も暁臣も今は味方でいてくれているが、その好意が永遠に続く保証などない。
特に敦子夫人は本来ならば恵をいびり倒す姑のはずだ。
ひとたび敵と見なされれば、どれほどの冷遇が待っていることか。そう思うと胸が重くなる。
すると、ふと会話が途切れた。
椿が顔を上げると、柔らかなランプの光に照らされた暁臣の顔が見えた。
その瞳は、淡い明かりのせいか、いつもより熱っぽく潤んでいるように見える。
なんだか気まずくなって椿がうつむいたその瞬間、そっと温もりが指先を包んだ。
暁臣が、いつの間にか椿の隣に立ち、彼女の手を取っていたのだ。
「椿さん」
握りしめられた手から伝わる体温に、椿の心臓がどくりと跳ねた。
頬が熱に浮かされたように熱くなる。
椿は慌てて視線を逸らした。
「あ、暁臣さ……」
椿の声が震える。
(そういえば私たち、寝間着のまま二人で寝室にいるのよね……)
その事実を意識した瞬間、敦子夫人の言葉が脳裏をかすめた。
“結婚までに、もう少し仲を深めてほしいの”
仲を深めるって――ま、まさか、《《そういう》》意味だったり!?
頭の中で警鐘が鳴る。
椿は反射的に一歩下がった。
「そ、そろそろ私、寝なくちゃ! その……明日は学校もあるし!」
椿が必死で笑顔を作りドアを閉めようとすると、暁臣は一歩前へ出て、静かに微笑んだ。
「な……えっと……!」
椿が戸惑っていると、暁臣は何のためらいもなく椿の額に唇を落とした。
そうして、暁臣は椿の額にそっと口づけを落とした。
触れたのは一瞬なのに、全身がびりっと震える。
「っ……!」
椿が口をパクパクさせていると、暁臣は愛おしそうな目で椿を見つめる。
「これ以上したら、困るかな?」
困るに決まっている。
椿は身をよじった。
だけど――嫌じゃなかった。
けれど言葉にするのは恥ずかしすぎて、椿はただぎゅっと暁臣の服を握りしめた。
暁臣はその指先を優しく包み込みながら、そっと囁く。
「焦らないよ。君が俺に触れたくなるまで、ちゃんと待つ」
その声は、溶けるように甘かった。
「あ……暁臣さ……」
椿が口をパクパクさせていると、暁臣はふっと柔らかく微笑む。
「疲れただろうし、もう休んだ方がいい――おやすみ」
暁臣はやかな微笑を浮かべ、手を振って自分の部屋へと戻って行った。
扉が静かに閉まる。
その音を聞いた瞬間、椿はようやく息を吐いた。
指先にはまだ、彼のぬくもりが残っている。
胸の奥がふわりと温かく、そしてくすぐったい。
暁臣の背中を見送ったときの橙色の残光が、いつまでも瞼の裏に焼きついて離れなかった




