24.敦子夫人
「ふふふ、突然の話に驚いているようね」
艶やかな唇に微笑みを浮かべながら、敦子夫人はティーカップを持ち上げた。
「ど……どういうことでしょうか? 娘は週に二、三度こちらで花嫁修業させていただく予定では――」
椿の母親が、声を震わせながら恐る恐る切り出す。
敦子夫人は、ゆったりと椅子の背にもたれかかり、紅い唇の端を上げた。
「ええ、椿さんには週に二、三度こちらで花嫁修業していただきますわ。ただ――」
カップをテーブルに戻すと、夫人は一呼吸おいて言葉を続けた。
「花嫁修業は二度だけれど、彼女には週五日ここで寝泊まりして暁臣との仲を深めていただきたいの」
ぴしゃりと言ってのける敦子に、椿は息を飲んだ。
「そ、それは、婚姻前なのに一緒に住むということですか?」
父親が椅子を軋ませて立ち上がる。
それもそのはず。 労働者階級ならいざ知らず、この時代に上流階級の男女が婚姻もしていないのに同棲するというのはありえないことだからだ。
だが敦子夫人はそんな反応を待っていたかのように、まるで舞台女優のような笑みを浮かべた。
「ええ。婚姻届けに判を押したり結納を交わすのは女学校卒業後で良いけれど、それまでに心変わりしたら困りますし、うちでの生活に慣れていただきたいので是非ともうちで暮らしていただきたいの」
その言葉には、一片の迷いもなかった。
椿は信じられないという顔で暁臣のほうを見た。
だが暁臣はわずかに眉を寄せ、視線を落としただけだった。
(どういうことなの!?)
敦子夫人はさらに続ける。
「それとも、黒百合家はこちらの条件が飲めないとでもいうのかしら? では、この縁談はなかったことに――」
父親の顔から血の気が引き、唇が震える。
「いえ、滅相もありません! 椿をよろしくお願いいたします!」
ガバリと音を立てて頭を下げる父親。
母親も続いて深々と頭を下げた。
「は、はい、分かりました。至らないところもある娘ですが、どうぞ厳しくしつけてくださいまし!」
(え……ええーっ!?)
椿は思わず目をぱちくりさせる。
しかし父親の低く鋭い声が飛んできた。
「こら椿、お前も頭を下げんか!」
その声に、椿は慌てて頭を下げた。
「よ、よろしくお願いいたします」
小さく頭を下げながらも、椿の胸の奥はざわついていた。
椿はもちろん納得できない気持ちであったが、目の前にいる敦子夫人の眼圧が恐ろしく、逆らうことなど到底できなかった。
それに、もし暁臣との縁談が破談になれば、次にどんな相手をあてがわれるのか分からない。
椿は唇を噛み、無理やり納得するしかなかった。
「それでは、ご両親にはあとでこちらに必要なものを持ってきてもらうということで、椿さん、さっそく屋敷を案内するのでこちらへいらっしゃいな」
ぐいっと椿の腕をつかむ敦子夫人。
「さ、こちらへ!」
敦子夫人は赤い絨毯の廊下を早足で進んでいく。
(あ、歩くのが速い~!)
息を整える暇もなく、夫人は突き当たりの扉の前で立ち止まった。
「さあ、ここよ、あなたのお部屋!」
ドアを開けると、ふわりと薔薇の香りが鼻をくする。
「わあ……」
敦子夫人が案内してくれた部屋を見て、椿は思わず声を漏らした。
天蓋のある大きなベッドに、繊細なレースのカーテン。
薔薇の彫刻が施されたドレッサーや机、舶来の椅子。
どれも椿が見たことがないほど煌びやかで、まるで異国の貴族の部屋のようだ。
「どう? 素晴らしいでしょ? 見て、このレースのカーテン。薔薇の刺繍になっているのよ。窓の外にも薔薇を植えてあるの」
敦子夫人の声には誇りが滲んでいた。
この空間そのものが、彼女の趣味と支配力の象徴なのだろう。
「は、はい。私も薔薇は好きです。とても可愛いお部屋ですね」
「でしょう!? 可愛いわよね!」
満足げに笑った夫人は、再び椿の手を引いた。
「あ、そうだわ。ドレスもたくさん買ってあるの。あなたに似合うと思って。今度夜会に一緒に来ていきましょうよ」
隣の部屋の扉を開くと、赤に青に黄色――色とりどりのドレスがずらりと並んでいた。
どれも上質な布を使っている高級品だとドレスのことなど何も知らない椿でも一目見ただけで分かった。
「わあ、素敵!」
思わず目を輝かせる椿に、敦子夫人は満足げに頷く。
「でしょう? あなたに合いそうなドレスを選んだの」
ドレスを椿に当てがいながら、夫人は少女のように無邪気に笑う。
「うわあ、すごく可愛いわよォ! まるで西洋のビスクドールみたい! この短い髪もモダンでいいわぁ。私ももうちょっと若かったらこういう髪形をしたのに!」
「あら、敦子夫人にもきっと似合うと思いますよ。一緒に髪を切ったらいかがです?」
「いいわね! おそろいの髪形にしちゃいましょ。ねっ!」
敦子夫人はまるで少女に戻ったかのように笑い、くるりとスカートを揺らした。
「あ、それと、私のことは敦子夫人じゃなくてお母様って呼んでね。あなたの義理のお母さんになるんだから」
「はい」
笑顔で答えながらも、椿の胸の奥ではひとつの疑問が渦を巻いていた。
伝記の中では、敦子は恵のことを気に入らずいびり倒す怖い姑で、恵は母屋に住む大奥様に泣きついて敦子は横浜の別邸に追放されるという流れだったはず。
(一体どういうことなのかしら……)
目の前の敦子夫人は、クセは強いもののそこまで悪い人には見えなかった。




