17.夕食会のはじまり
「お待たせいたしました」
椿が部屋に入ると、父親と母親、暁臣、それに暁臣より少し年上――二十代半ばか後半くらいの年頃の見知らぬ男性が席に座っているのが見えた。
(誰だっけ?)
そう思いかけて、椿は思い出す。
そういえば、黒百合家には椿と恵の他に上に利一という兄が一人いたのであった。
恵は嫁に行き、椿は嫁に行く前に亡くなってしまったので、令和に残る黒百合家の人々は利一の子孫ということになる。もちろん凛音もそうだ。
(この人が、私――というか凛音の直接のご先祖様なのね)
そう思うと、椿はなんだか妙な気持ちになった。
恐らく普段は離れて暮らしているものの、今日は大切な夕食会なので特別に招いたのだろう。
椿は少し緊張しながらも恵の手を引っ張った。
「ほら、お姉様、こっちへ」
「は……はい」
おずおずと部屋に入ってきた恵は、若草色の地に白と橙の大輪の花を散らした着物をまとっていた。
光を受けてしっとりと艶めく絹。その上に金のかんざしが揺れ、ひとひらの光を零す。
白く塗られた肌には、紅の色が映えている。
まるで竹久夢二の絵の中から抜け出てきたかのような恵の儚い美しさに、両親も暁臣も利一も皆一様に息を呑んだ。
静寂が流れ、燭台の炎がふるえる。
(やったわ……みんな、お姉様の美しさに驚いてる!)
椿は誇らしい気持ちでいっぱいだった。
自分の姉が、誰よりも美しいと証明されたような気がしたのだ。
やがて母が恵を指さし、悲鳴にも似た声を上げた。
「な、何なのあなた! そんな着物、どこから――」
しかし椿は、一歩前へ出ると、まっすぐ背筋を伸ばし、母親に説明をした。
「私が買った着物ですわ。見ての通り、私は服の趣味が変わりましたのでお姉様にさしあげたの」
凛とした声が、広い食堂の空気を裂く。
「な、なんですって!?」
母の頬が紅潮し、手にしていた扇が床にぱたりと落ちる。
その横で、父は低く咳払いしながら眉をしかめた。
「だが、恵の分の夕食は用意していないはずだ」
父の言葉に、母の顔がぱあっと明るくなる。
「そ、そうよ。ほら……何せこの子ときたら病弱で胃腸が弱いから、他の人と同じ料理を食べられないのよ。だからこの子の分の食事なんて用意していないわ!」
早口にまくし立てる母。
恵はうつむき、両手を膝の上に置いたまま、かすかに指を震わせた。
その姿を見て、椿の胸の奥にじわじわと怒りが広がる。
(病弱ですって? そんなの、全部あなたの作り話でしょうに)
実際のところ、恵は病弱でも何でもなかった。
ただ母の気まぐれと嫉妬で、食卓を共にすることを許されていないだけだ。
黒百合家の令嬢だというのに、椿がいつも残り物のような冷えたお膳を一人で口にしていることを椿は知っていた。
眉をわずかにひそめた椿は、しかしすぐに笑顔を作った。
完璧な令嬢の微笑みを。
そして、母に向かって有無を言わせぬ声で告げた。
「それならご心配いりませんわ。私、婆やにお姉様の分の食事も用意させましたの。――婆や」
椿が指をパチンと鳴らすと、扉の向こうからすぐに返事があった。
「はい、椿お嬢様」
音もなく現れた婆やは、恵の分の料理を隙も無い動きで素早くテーブルへと置いた。
「さ、これでお姉様を夕食会に招かない理由はありませんわよね?」
椿の声には、かすかな挑発が混じっていた。
母の顔色が青ざめ、父の喉がごくりと鳴る。
重苦しい沈黙。張り詰めた空気が部屋を満たす。
その時――。
くくく……と低い笑い声が響いた。
声の主は、煌夜暁臣だった。
椿は驚いて彼の方を振り返る。
燭台の光を受けて、暁臣の黒い瞳が細められ、唇の端が愉快そうに歪んでいる。
「――何がおかしいんですの?」
椿は眉を上げ、問いかけた。
暁臣は片肘をテーブルにつき、頬杖をつきながら、ゆっくりと笑みを深めた。
「いや、失敬。椿さん――君はやはり面白い令嬢だ」
その声音は穏やかだった。
挑発でもなく、嘲りでもない。
ただ純粋な興味の色を帯びた視線が椿を射抜いていた。
椿はというと、少し赤くなって、ふいと横を向いた。
「そんなことありませんわ」
(なっ……何なの、この人。調子が狂うわね)
椿が唇を噛み締めていると、それまでのやり取りを黙って聞いていた利一が口を開いた。
「それより早く食事にしよう。さあ、椿も恵も席について」
どうやら利一は二人の味方のようだ。
椿はほっと息を吐いた。
「ええ、そうしましょう」
こうして、何はともあれ食事会は無事に始まった。




