12.黒百合椿の婚約者
残されたのは、椿と恵、そして謎の制服の男だけだった。
張り詰めていた空気が解け、椿は深く息を吐く。
その瞬間、不意に右手がふわりとしたものに包まれた。
「――血が出ている」
椿が驚いて視線を落とすと、男が自分の手を取っていた。
男は無表情のまま白いハンカチを椿の手に巻いていく。
どうやら鋏を握った女生徒の手を押さえたときに、軽く切ってしまったらしい。
だが傷のヒリヒリとした傷の痛みよりも、むしろ男性に手を触れられていることの方が椿を動揺させた。
「あ……ありがとうございます。でもこれぐらい、何てことありませんわ!」
照れくさくなった椿は、彼の手をとっさに払うと、低い声で礼をした。
(ああ、何やってるんだろう。もっと素直にお礼を言おうと思っていたのに)
――と、椿が指に巻かれたハンカチに目を落とした瞬間、不意にハンカチに金色の糸で刺繍された名前が視界に入ってきた。
そこに刻まれていたのは『Akiomi Khoya』という名。
(あきおみ・こうや……って、煌夜暁臣?)
その名を目にした瞬間、椿の心臓がどくんと大きく跳ねた。
それは椿の現婚約者にして、将来は恵と結婚して近代呪術の祖となる予定の人物の名前だったからだ。
暁臣の顔は呪術の教科書や資料館で何度も見たはずだが、その時の写真は決まって五十代から六十代くらいの時のもの。
写真で見る暁臣はいつも立派なひげを蓄えている姿がほとんどだったので、椿は目の前の若い男が煌夜暁臣だと気が付かなかったのだ。
でも言われてみれば、涼しげな目元や整った鼻筋はまさに令和の時代に残る写真の暁臣そのものだ。
(若いときは美形だっただろうなとは思っていたけど、まさかこんなに整った顔立ちの方だっただなんて……)
「あの……あなたはまさか……煌夜暁臣……さん?」
椿が震える声で尋ねると、暁臣は口の端に笑みを浮かべて右手を上げた。
「ああ。本当は送っていくべきなのだろうが、今日はあいにく用事があってすまない。ではまた、気を付けて。《《婚約者殿》》」
そう言うと、暁臣は黒い外套を翻し、人混みの中へと消えていってしまった。
椿はというと、口をパクパクとさせながらその後ろ姿を見送るしかなかったのだった。
***
「はああ……」
家に帰った椿は、緊張の糸が切れたかのように、自室の畳に身を投げ出した。
窓からは、障子越しに薄く夕陽が差し込んできて、椿の手元の白いハンカチに橙色の影を落とす。
椿はハンカチに刺繍された「AKIOMI KOHYA」の文字をじっと見つめた。
(まさか……あの制服姿の男の人が煌夜暁臣だっただなんて)
椿はハンカチを指先で撫でながら、深いため息をついてそっと目を閉じた。
思い浮かんだのは呪術博資料館で目にした一枚の古びた写真だった。
そこには五十代か六十代ほどに撮られたと思しき煌夜暁臣の姿が写っていた。
涼やかな切れ長の瞳、まっすぐな鼻筋の端正な顔立ちに細身の長身。
その姿と、今日会ったあの紳士の姿を頭の中で重ねてみると、その面影はぴったりと一致した。
若かりし彼が、今二度にわたり椿を助けてくれた人物と同じ人であることは、ほとんど疑いようがなかった。
だがその確信と同時に、椿の頭をよぎったのはかつて本が擦り切れるほどに読んだ伝記の記述だった。
伝記によると、恵が町で暴漢に襲われた時に、それを暁臣が救い、そこから二人は仲を深めたとあった。
けれど、もし今日の出来事こそがその「運命の出会い」だったのだとしたら?
そして自分が先に飛び出して助けてしまったせいで、その流れを断ち切ってしまったとしたら――。
(どうしよう。私のせいで二人の運命が狂ってしまったのかも)
考えれば考えるほど、椿は重く暗い気分となった。
もしも自分のせいで、二人が結ばれるという運命が狂ってしまったら大変だ。
もし恵が暁臣と結ばれなかったなら、彼女はこの屋敷の中で生涯虐げられ続けるかもしれない。
自分のせいで、恵が幸せなヒロインになれないのだとしたら――。
その未来を想像するだけで、椿の背筋をぞわりと恐怖が走った。
けれど、あの場面で黙って恵が傷つけられる姿を見ていることなど、椿にできるはずがなかった。
椿は小さく息を吐き、心を奮い立たせる。
(そうだわ。過ぎたことを悔やんでも仕方がない。これから私が恵お姉様と煌夜暁臣の仲を取り持てばいい。二人が結ばれるように、私が手を貸せばいいんだわ!)
そう決意した瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
(そのためには……まず私と煌夜暁臣の婚約を破棄しなくちゃ)
椿は、自分と暁臣との婚約を破棄し、恵と暁臣の仲を取り持って二人を絶対に結婚させるのだと心に決めた。




