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第8話:ペアリングの乱 (後半)

 晩餐会の会場は、二つの相反する香りに支配されていた。

 ジャン・リュックが供した「白鳥のパテ」が放つ、森のベリーを思わせる甘酸っぱく高貴な残り香。そして、レオノーラが蓋を開けた瞬間に爆発した、焼きたての豚の脂とスパイスが混ざり合う、野性味溢れる「肉の咆哮」。

 二つの香りは会場の空気の中でせめぎ合い、居並ぶ貴族たちの鼻腔を次々と刺激しながら、静かに開戦を告げていた。テーブルに並ぶ燭台の炎が、どちらの陣営に靡くか迷うように揺れている。

「……ほう。これが、貴殿の言う『ペアリング』か、レオノーラ」

 グスタフ王の眼差しが、黄金色に輝くシュヴァイネハクセへと注がれる。氷魔法を応用した精密な温度管理によって焼き上げられた皮は、フォークの先で軽く突くだけで小気味よい音を立てるほど香ばしく張り詰め、そこから溢れ出した肉汁が皿の上に琥珀色の海を作っていた。傍に添えられたのは、岩塩をあしらった素朴なパンひとつきり。飾り気のない、しかし揺るぎない布陣だ。

「ええ、陛下。……麦酒とは、喉を通り抜けながらすべてを洗い流す『嵐』ですわ。ならばその嵐に正面から立ち向かうのは、か細い小鳥ではなく、大地に根ざした大樹のような重厚さを持つものでなくてはなりませんの」

 レオノーラは涼しい顔でジョッキを手に取り、この日のために用意しておいた『メルツェン』をゆっくりと注いだ。麦芽の風味が豊かで力強い、秋の実りを閉じ込めたようなラガービールだ。琥珀色の液体が、黄金色の細やかな泡を纏いながらジョッキを満たしていく。その芳醇な香りが漂った瞬間、最前列に座っていた老伯爵が思わず生唾を飲み込んだ。

「まずは、ジャン・リュック殿の一皿から試していただきましょうか。……参りますわよ、陛下」


 グスタフ王は、優雅な所作で白鳥のパテを口に運んだ。

 次の瞬間、王の表情が変わった。

 リリアが密かに仕込んでいた「魅惑のスパイス」が、王の舌の上で音もなく炸裂する。脳を直接揺さぶるような甘みと旨味の奔流が、怒涛のように押し寄せた。味覚の扉が強制的に押し開かれ、官能的なまでの快楽が全身を駆け抜ける。眼の焦点が、わずかに揺らいだ。

「おいしい……! なんて、素晴らしい……。これこそが、王宮にふさわしい一皿ですわ!」

 隣でリリアが、花が咲き誇るような笑顔で勝ち誇った。エリックもまた、父王の様子をつぶさに観察し、確信を深めていた。拳をテーブルの下でそっと握り締める。

 一方、ジャン・リュック本人は、厨房側の扉のそばで困惑を隠せずにいた。

(……おかしい。私のレシピに、これほど毒々しいまでの爆発力はなかったはずだ。誰かが、手を加えた……? だが今は——これで、勝てる)

 料理人としての違和感と、勝利への欲望が、彼の胸の中で静かに鬩ぎ合っていた。

 しかし。

 グスタフ王が口直しにレオノーラのメルツェンを一口煽った瞬間、事態は一変した。

「……ッ!? ……っげほぉッ!!」

 王が激しくむせ返った。ジョッキを置く手が震え、顔には苦悶の色が広がっている。会場がざわめく。隣国の外交官がひそひそと耳打ちし合い、招待客たちが椅子の上で身を乗り出した。

「陛下! やはり、レオノーラの麦酒は毒だったのですわ!」

「レオノーラを捕らえろ! 今すぐ!」

 リリアが目に涙を浮かべながら叫び、エリックが立ち上がって近衛騎士に命じようとする。だが、レオノーラは眉ひとつ動かさなかった。

 彼女の冷たい瞳は、ただ静かに、ジャン・リュックの皿を見据えていた。

「いいえ」

 一言。

 しかしその一言が、騒然とした会場の空気を真っ二つに割った。

「……毒が仕込まれているのは、その皿の方ですわ」

 静かな声が、会場の隅々まで染み渡る。

「ジャン・リュック殿、貴方はお気づきでないのかしら? 貴方の料理に含まれる過剰な糖分と不自然な添加物が、麦酒の持つ高潔なホップの苦味を、耐え難い『雑味』へと変えてしまっていることに」

「な……なんだと……!?」

 ジャン・リュックの顔から、血の気が引いていく。

「味覚のバランスを崩壊させるほどの過剰な刺激は、麦酒との共鳴——ペアリングを根本から破壊し、互いを引き立て合うどころか、ただの不快な摩擦へと変質させます。ホップの苦味は、適切な油脂と出会うことで丸みを帯び、深みへと変わる。けれど、過剰な糖と化学的な刺激物がそこに割り込めば、苦味は暴力へと豹変してしまいますのよ」

 レオノーラは王へと向き直り、静かに続けた。

「陛下、まず口の中を水でお清めくださいませ。わたくしの料理が、その『呪い』を解いて差し上げますわ」

 王が水を含み、口の中を静めるのを確認してから、レオノーラはナイフを取り上げた。

 シュヴァイネハクセの焼き固まった皮に、静かに刃を当てる。

 ザクッ、と。

 小気味よい、胸のすく音とともに皮が割れ、中から現れたのは、長時間かけて低温で丁寧に火入れされた、ほろほろと解けるほど柔らかいピンク色の肉だった。閉じ込められていた湯気が、ふわりと立ち上る。使われているのは岩塩と黒胡椒、そして少量のハーブのみ。飾り気のない、驚くほどシンプルな構成。しかし、その潔さこそが自信の証だった。

「陛下。……どうぞ。これが、麦酒のために生まれた『伴侶』ですわ」


 グスタフ王は、半信半疑のまま肉の塊をフォークで口に運んだ。

 ——衝撃。

 最初に来たのは、皮の香ばしさと、暴力的なまでの脂の甘みだった。しかしその脂は、不思議なほどしつこくない。噛むたびにスパイスが口の中で弾け、層を成すように複雑な余韻が広がっていく。岩塩が、肉の旨味を真っ直ぐに立ち上らせる。

 王は、何かに引き寄せられるようにジョッキを掴んだ。

 メルツェンを、一口。

「……っはぁぁぁぁぁッ!!!」

 グスタフ王の咆哮が、晩餐会の会場中に響き渡った。

 燭台の炎が揺れる。貴族たちが一斉に肩をすくめ、外交官たちが目を見張る。しかし王は、そんな周囲の反応など一切意に介さなかった。

「これだ……! これこそが、余が長年探し求めていた『完成形』だ!!」

 王はジョッキを空にするや、再び肉に食らいついた。その目には、かつて戦場を駆け抜けていた若き日の光が、確かに戻っていた。

「肉の脂が麦酒の苦味を包み込み、麦酒の炭酸が肉の重さを一瞬で洗い流す! そして残るのは、麦の香ばしさと、次の一口を渇望する強烈な期待感のみ! 脂を流し、塩を求め、また流す……。終わりのない、黄金の円舞曲ワルツではないか!!」

 フォークが止まらない。一口ごとに、王の肌に艶が戻り、瞳に力が漲り、背筋が伸びていく。

「ジャン・リュックよ。貴殿の腕は本物だ。……だが、その料理は孤高すぎた。酒と手を取り合うことを拒み、己の主張だけを押しつける——それは美食ではなく、傲慢というものだ。そしてこの不自然な甘みはなんだ。食べ進めるほどに喉がべたつき、麦酒が泥水のように感じられる。……これは料理ではない。味覚を壊す『罠』だ!」

「そ、そんな……。陛下、わたしは——わたしは、ただ最高の一皿を……!」

 ジャン・リュックが蒼白な顔で呻く。しかしその言葉は、王の耳には届いていなかった。


 青ざめるジャン・リュックの傍らで、リリアが静かに後ずさりを始めていた。

 レオノーラは、ゆっくりと歩み寄り、その前に立った。扇をゆったりと広げ、口元を隠しながら、静かに、しかし確実に届く声で告げる。

「リリア様。……貴女が今回のパテに持ち込まれた『魅惑のスパイス』の件、王の侍医がご覧になれば、すぐにお分かりになるでしょうね。わたくしの氷魔法で極限まで引き締めた麦酒の前では、いかなる不純物も、ただ浮き彫りになるだけですわ。……残念でしたわね」

「ひっ……! な、何のことだか、わたくしには——!」

 リリアが震える声で否定するが、すでに王の側近たちが厳しい表情でジャン・リュックの厨房へと向かって動き出していた。ジャン・リュックが引き留めようとするが、その足はすでに震えている。

 エリックは椅子に座ったまま、動けなかった。父王が、あの黄金色の液体を前に目を輝かせている——その光景が、現実のものとして飲み込めなかった。

「……勝負あり、ですわね」

 レオノーラは静かにカーテシーを決め、グスタフ王へと向き直った。

「陛下。……約束通り、王宮および王都全土の食卓監修権、頂戴いたしますわ。……まずは、その気取った白鳥のパテをすべて下げて。代わりに、巨大なソーセージと、塩のきいたプレッツェルを並べなさいな。本日の晩餐は、ここから出直しですわ」

「わはははは! 良いぞ、レオノーラ! これぞ、建国以来最大の食卓革命だ!!」

 グスタフ王はシュヴァイネハクセの骨を無作法に掴みながら、晩餐会の格式など歯牙にもかけず豪快に笑い飛ばした。居並ぶ貴族たちがざわめき、やがて一人、また一人と、恐る恐るレオノーラの皿へと手を伸ばし始める。そして一口運んだ者から順番に、目が見開かれ、ジョッキが掲げられ、歓声が湧き上がっていった。


 こうして王都から「繊細すぎる気取り」が消え、街のあちこちで肉の焼ける香ばしい煙と、麦酒の弾ける音が響くようになった。

 人々はようやく、気づいたのだ。

 最高の酒には——最高に、欲望に忠実な「友」が必要であることを。

 そして、真の美食とは、己を高く掲げることではなく、隣に立つ者と手を取り合い、互いを高め合うことであるのだと。

 レオノーラ・フォン・グランツェル。彼女はいまや、王国の「喉」だけでなく、その「胃袋」までをも、しっかりとその手の中に収めたのである。

シュヴァイネハクセ…かっこいい名前ですよね。乱用したい

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