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第9話 北方・氷結帝国の使節と「温度の魔術」(前半)

 王都アスカーニエンは、今や常夏のような熱気に包まれていた。

 レオノーラ・フォン・グランツェルが監修した「シュヴァイネハクセと麦酒のペアリング」は市民の胃袋を完全に掌握し、王都中の酒場からは昼夜を問わずジョッキの触れ合う快音が響いている。肉の焼ける香ばしい煙が路地に満ち、笑い声が石畳を転がり、飲み干したジョッキが景気よくカウンターに叩きつけられる——それが、今のアスカーニエンの日常だった。

 だがその熱気を、一陣の刃のような風が切り裂いた。

 北門から「冬」が来たのだ。

 白銀の毛皮を纏い、吐く息さえ白く凍らせる一団。北方の極寒を統べる「氷結帝国・フロストヴァルト」からの親善使節団である。彼らが通る道では、真夏であるはずの石畳が薄っすらと霜を纏い、道端の水たまりが音もなく凍りついた。市民たちは思わず上着を抱き寄せ、呆気に取られたまま一団を見送った。

 その中心に立つのは、帝国王立醸造院の主席、イリーナ・フロストヴァルト。

 レオノーラと同じく氷魔法の使い手でありながら、彼女が背負うのは「極寒ラガー」という北方固有の醸造文化だ。マイナス二度の環境で三ヶ月間、一瞬の揺らぎも許さずに熟成された「氷晶ラガー」は、帝国の誇りであり、彼女の生涯をかけた芸術だった。


 王宮の謁見の間。

 グスタフ王の前に立ったイリーナは、礼を失わぬ程度に、しかし明らかな品定めを込めて周囲を見渡した。蒼い瞳が、天井の装飾を、貴族たちの顔を、そして漂い込んでくる肉の香りを、一つひとつ値踏みするように舐め回す。

「グランツェル王国の麦酒が変わったと聞き、遠路はるばる参りました。……ですが、これは期待外れですね。街に漂うこの肉の脂の匂い、そして無秩序な笑い声。これでは、麦酒が泣いておりますわ」

 氷柱が触れ合うような硬質な声が、謁見の間に響き渡る。

「イリーナ殿。わが国の麦酒は、レオノーラ・フォン・グランツェルの手によって、神の領域へと進化を遂げたのだぞ」

 グスタフ王が不敵に笑うが、イリーナは眉一つ動かさなかった。

「レオノーラ・フォン・グランツェル。……下町で氷魔法を弄んで麦酒を冷やしている、追放された公爵令嬢のことですね。……陛下、本物の冷たさを知らぬこの国が、氷を語り麦酒を語るのは、少々滑稽に思えますわ」

 イリーナは懐から小さな魔法瓶を取り出した。瓶の表面に、見る間に霜が花を咲かせる。

「我ら氷結帝国にとって、氷は命。麦酒は、その氷の結晶を喉で愛でるための芸術。……貴殿たちが飲んでいるものは、ただの『冷やされた液体』に過ぎません。……その女に、伝えていただけますか。帝国が、真の極寒を教えに行く、と」


 その日の夕刻。下町「黄金の泡亭」。

「……あら。お客様かしら? それとも、店の冷蔵設備を点検しにきた業者の方?」

 レオノーラは、カウンターの奥で優雅にジョッキを磨きながら、店に入ってきたイリーナの一団を迎えた。

 イリーナが足を踏み入れた瞬間、店内の客たちのジョッキに薄い霜が降り、陽気だった会話が静止する。常連客のカイルでさえも、漂ってきた冷気に思わず肩をすくめた。

「貴女が、レオノーラね。……ずいぶんと温い環境で商売をしているのね。これでは麦芽の繊細な息吹が聞こえない」

 イリーナはカウンターに歩み寄り、レオノーラの磨き上げたジョッキを一瞥した。

「私たちは、一年中氷に閉ざされた帝国の民。私たちは麦酒を『冷やす』のではなく、氷の中に閉じ込め、その極限の状態から解放される一瞬の輝きを尊ぶ。……貴女の魔法を少し調べさせていただいたけれど——甘いわね。ただの冷却。そこに、何の哲学も感じられないわ」

「哲学、ですって?」

 レオノーラは扇子で口元を隠し、喉の奥で笑った。

「おーほっほっほ! 面白いことをおっしゃるのね。……イリーナ様、貴女は温度を『絶対的な数値』だと思っていらっしゃるのかしら? 冷たければ冷たいほど良い——それは、雪だるまを作る子供の発想ですわよ」

「な……っ!? 子供だと!?」

 イリーナの瞳に、鋭い冷気の魔力が宿った。周囲の空気が軋み、カウンターの木目に霜が走る。

「麦酒には、それぞれが最も美しく輝く『魂の温度』があるのですわ。……貴女のように何でもかんでも凍らせて感覚を麻痺させるのは、素材に対する虐待に過ぎません。……わたくしに言わせれば、貴女の氷は、味の粗を隠すための『目隠し』ですわよ」

「……言うわね」

 イリーナの声が、一段低く、そして鋭く落ちた。

「ならば証明していただきましょうか。……明日の正午、王宮広場で、この国の全ての貴族と民の前で。帝国の極寒の芸術と、貴女の温い喉越し——どちらが真の至高か、温度決闘を申し込みますわ」

「受けて立ちますわ」

 レオノーラは扇子をぱちんと閉じ、冷たく微笑んだ。

「ただし、負けた方には相応の代償をいただきますわよ。……イリーナ様が負けた場合、帝国最高級のホップを十年分、わが王国の醸造所に献納していただきますわ」

「いいわ。その代わり、私が勝てば——貴女はそのジョッキを捨て、帝国の醸造院で氷魔法の基礎から学び直してもらうわ」

 二人の視線がぶつかった。その狭間に生じた火花さえも、空中で瞬時に凍りついて床に落ち、音もなく砕けた。


 その夜、客を送り出し一人になった店内で、レオノーラはカウンターにジョッキを置いたまま、静かに考えていた。

 指先で液体の表面を軽く撫でると、波紋が広がり、やがて静止する。

「……冷やすだけ、ね」

 独り言のように呟く。

「確かに、彼女の魔力制御は精密ですわ。マイナス数十度を誤差なしで維持する技術——それは本物。……けれど」

 レオノーラは、指先に微かな魔力を灯した。液体の中に、目に見えないほど小さな対流が生まれ、渦を描き、消えていく。

「……イリーナ様。貴女はまだ知らない。冷たさの中に潜む情熱を。そして、温度の変化がもたらす味のグラデーションを。……わたくしが明日お見せするのは、北国の冬ではなく、冬を越えて芽吹く、春の大地ですわ」

 一方、王宮の一室では、エリックとリリアがひそひそと声を潜めていた。

「……リリア、見たか。あのイリーナという女、レオノーラを遥かに凌駕する魔力を持っていた。明日の決闘でレオノーラが負ければ、醸造総監の座も剥奪できる。今度こそ、あの女を王都から追い出せるぞ」

「うふふ……。帝国の冷たさで、あの苦い麦酒ごとレオノーラ様をカチコチに凍らせてしまえばよいんですわ!」

 二人の期待が、夜の王宮の一室に渦巻く。

 しかし、その頃すでにレオノーラの手の中では、ただの冷却をはるかに超えた「何か」が、静かに、確かに、産声を上げようとしていた。

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