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第8話:ペアリングの乱(前半)

 王都の空気は、今やホップの香りと心地よい炭酸の刺激に満たされていた。

国王グスタフがレオノーラの醸造所を「国家公認」としたことで、麦酒は単なる「労働者の安酒」から「王国の魂」へと昇華した。人々は競うように冷えたジョッキを掲げ、レオノーラが提唱する「氷魔法による徹底した温度管理」という教義を熱狂的に受け入れていた。

だが、完璧を追求するレオノーラの耳に、ある「不穏な噂」が届くようになる。

「…麦酒は最高だが、どうも王宮の料理が喉に引っかかる」

「ああ、あの繊細で上品なクリームソースや、香草をふんだんに使った淡白な魚料理……。ワインには合うんだろうが、レオノーラ様の『黄金』と一緒に流し込むと、どうにも味が喧嘩する気がしてならんのだ」

王宮の晩餐会。そこでは、騎士団長カイルが、困惑した顔で自らの皿を見つめていた。

目の前には、王宮料理界の権威たちが腕を振るった「白身魚の白ワイン蒸し・トリュフの泡添え」が鎮座している。かつてなら「至高」と称賛されたであろうその一皿を、カイルは一口食べてから、傍らのキンキンに冷えたジョッキを煽った。

「合わん。全く、合わん」

カイルが小さく吐き捨てた。

「騎士団長殿、何を不満そうに。それは王宮料理長ジャン・リュックが三日三晩かけて仕込んだソースですぞ」

隣に座る文官が嗜めるが、カイルは首を振った。

「料理単体は素晴らしい。だが、この麦酒の『峻烈な苦味』と『弾ける炭酸』。これを受け止めるには、このソースはあまりに軟弱で、あまりに優雅すぎる。……口の中が、混乱しているのだ。麦酒がソースの脂を流しきれず、ソースが麦酒の香りを殺している。これは、不幸な結婚だ」

この「味覚の不一致」は、瞬く間に王宮全体、そして王都中の飲食店に広がる深刻な問題となっていた。

王宮の巨大な厨房。

そこでは、「王宮の舌」を自負する宮廷料理長ジャン・リュックが、かつてない怒りに震えていた。

「何が『合わない』だ! 何が『不幸な結婚』だ! カイルの奴め、あの公爵令嬢の毒にやられて、ついに味覚まで野蛮人に成り下がったか!」

ジャン・リュックは、代々王家に仕えてきた名門の料理人である。彼の作る料理は「芸術品」と称され、そのソースの一滴は金貨に等しいと言われてきた。しかし、レオノーラが麦酒革命を起こして以来、彼の料理は「温い」「物足りない」「酒の邪魔」という、耳を疑うような不評を買うようになっていたのだ。

「いいか、料理とは繊細な調和だ。あんな炭酸の弾ける無作法な飲み物に、私の芸術を合わせろだと? 冗談ではない! あれは舌を麻痺させ、繊細な香りを破壊する、料理の敵だ!」

ジャン・リュックが調理台を叩いたその時、厨房の重厚な扉が、蹴破らんばかりの勢いで開け放たれた。

「あら。随分と景気の良い『遠吠え』が聞こえてきますわね」

現れたのは、プラチナブロンドの髪を誇り高く靡かせたレオノーラ。

その背後には、まるで護法神のようにカイルとクラリスが控えている。

「レ、レオノーラ・フォン・グランツェル……! 国家醸造総監になったからとて、ここは大神聖なる王宮の聖域、厨房だぞ!」

「聖域? お笑いぐさですわ。わたくしには、ここは『味覚の墓場』に見えますことよ」

レオノーラは優雅に歩み寄り、ジャン・リュックが自慢げに用意していた「子鴨のロースト・オレンジ香るデミグラス添え」を一瞥した。

「料理長。貴方の料理は確かに美しい。ですが、それは『止まった時間』の中での美しさ。……貴方は気づいていないのかしら? この国が今、求めているのは、喉越しと共に駆け抜ける『動的な喜び』。つまり——ペアリングという名の共鳴であることを!」

「ペア…リングだと? 貴様、私の料理にケチをつけるつもりか!」

「ケチ? いいえ、矯正ですわ。カイル様、先ほどの晩餐会、いかがでした?」

レオノーラに振られたカイルは、一歩前に出ると、沈痛な面持ちで語り出した。

「料理長、すまないが事実だ。お前の料理を食べた後、麦酒を飲むと…口の中がボヤけるのだ。麦酒が求める『塩気』と『油』。そして、苦味を増幅させる『刺激』。お前の料理には、それらが決定的に欠けている」

「な…っ!? 塩気と油!? 騎士団長ともあろう者が、そのような下俗な味を王宮で求めるというのか!」

ジャン・リュックが叫ぶ。だが、その後ろから聖女クラリスが静かに、しかし断定的な声で追撃した。

「料理長様。麦酒の泡は天の雲、液体は太陽。そしてその苦味は神の試練。……その『試練』を乗り越え、魂に歓喜をもたらすためには、地上さらの上にも、それ相応の『救済』が必要なのです。貴方の料理は……あまりに天に遠く、胃に物足りない」

「き、貴様らまで……! 揃いも揃ってあの女に洗脳されおって……!」

ジャン・リュックは顔を真っ赤にしてレオノーラを指差した。

「いいだろう! 貴様がそこまで言うなら、証明してみせろ! 麦酒に『合う』とやらいう、その野蛮な料理をな!」

「おーほっほっほ! 望むところですわ!」

レオノーラは、扇子を翻して高笑いした。

「よろしい。では、三日後の晩餐。陛下をお招きし、わたくしの麦酒に最もふさわしい一皿はどちらか、勝負いたしましょう。もしわたくしが勝てば、王宮、そして王都全土の公式メニューの監修権は、わたくしがいただきますわ」

「もし私が勝てば、麦酒の提供を王宮の裏庭だけに制限し、食卓には再び高貴なるワインを戻してもらう!」

「契約成立ですわね。……ジャン・リュック、貴方のその気取ったエプロン、今のうちに綺麗に洗っておくことですわ。三日後には、脂と塩の香りに、敗北の味を混ぜて差し上げますから」

レオノーラは踵を返すと、優雅に厨房を去っていった。

その後ろ姿を見送りながら、ジャン・リュックは怒りと、そしてどこか得体の知れない不安に駆られていた。

その夜。レオノーラは「黄金の泡亭」の地下室にこもっていた。

机の上には、王都中の食材が並べられている。

「…麦酒単体で完成された美しさを、さらに一歩、その先へ進めるための『共犯者』。…必要なのは、繊細さではなく、調和。そして、欲望の肯定」

レオノーラは自らジョッキに麦酒を注ぎ、その泡の立ち方を見つめながら独り言を漏らした。

「ジャン・リュック。貴方は『料理が主役、酒は引き立て役』だと信じている。けれど、それは間違い。真のペアリングとは、一足す一が、爆発的な三になる体験ですの」

彼女の手が、一つの大きな肉の塊——塩漬けにされ、絶妙なバランスで熟成された「豚の脛肉」へ伸びた。

「……塩味ソルトファット、そして、焦げ(スモーク)。……これらを、わたくしの氷魔法で極限まで引き出した『炭酸の刺激』とぶつけ合う……」

レオノーラは包丁を握り、瞳を妖しく光らせた。

「おーほっほっほ! 王宮の連中、覚悟なさい。今度の一杯は、一口食べれば、もうジョッキを離すことができなくなりますわよ……!」

一方、王宮の片隅。

エリックとリリアは、この「勝負」の噂を聞きつけ、暗い部屋で密談していた。

「リリア……。チャンスだ。ジャン・リュックが勝てば、あの女の麦酒は王宮から追放される。そうすれば、父上も正気に戻り、再びわたくしたちの時代が来る」

「ええ、エリック様。…でも、もしあのレオノーラ様が勝ってしまったら……王宮の食卓まで、あのような苦い毒の仲間にされてしまいますわ……。ねえ、エリック様。ジャン・リュックさんに、『特別なスパイス』を渡しておきませんか?」

リリアが取り出したのは、かつて神殿から盗み出し、闇市場で加工させた「魅惑の粉」。それは、一時的に味覚を異常に鋭敏にさせ、強い甘みと依存性を植え付ける、禁断の調味料だった。

「……ふ。いいだろう。レオノーラの『苦味』を、暴力的なまでの『快楽』で上書きしてやるのだ」

三日後。

王宮の「ペアリング対決」の夜。

グスタフ王を筆頭に、王国の重鎮たちが席につく。

テーブルの中央には、二つの異なる調理場から運ばれてくる「運命の一皿」を待つ、空の皿。

そして、その横には、レオノーラがこの日のために特別に用意した、これ以上ないほどに磨き上げられたクリスタルジョッキ。

「…始めよ」

国王の短い一言が、静寂を破った。

まず運ばれてきたのは、王宮料理長ジャン・リュックの「至高の一皿」。

それは、銀のドームを外した瞬間、華やかなバラと最高級のブドウの香りが舞い上がる、「白鳥のパテ・森のベリーソース仕立て」だった。

「陛下。麦酒の無礼な苦味を、極上の甘みと気品で中和し、再び高貴なる舌を取り戻していただくための傑作です」

ジャン・リュックは、勝ち誇ったようにレオノーラを睨みつけた。

しかし、レオノーラは動じない。

彼女は、自らの調理場から運ばれてきた、銀のドームに覆われた「何か」を前に、不敵に微笑んだ。

「料理長。……貴方の料理からは、まだ『逃げ』の匂いがしますわね」

レオノーラの手が、ドームにかけられた。

「さあ、ご覧なさい。これこそが、麦酒という『王』に従い、共に戦場を駆ける最強の騎士。名は、『至高のシュヴァイネハクセ(豚の脛肉のロースト)』ですわ!」

ドームが開かれた瞬間、晩餐会の会場に、それまでの気取った香りをすべて一掃する、圧倒的な「暴力的なまでの肉の焼ける匂い」が充満した。

「なっ、この匂いは……!?」

国王グスタフの鼻孔が、かつてないほど激しく動いた。

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