第7話:国王、至高の一杯に平伏す
アスカーニエン王宮の謁見の間に、重苦しい沈黙が満ちていた。
「父上! どうかお聞きください! あのレオノーラは商業ギルドを実力で掌握し、王国の物流を己の手中に収めております! これはまぎれもなき反逆! 即刻、処罰を——!」
王太子エリックが、血走った目で叫ぶ。その隣では、リリアが白い指先を震わせながら、今にも泣き崩れそうな顔で俯いていた。
「そうですわ、陛下…。わたくしが心を込めて醸したお酒を『お子様用』などと蔑み、あのような苦い毒を国中へ広めようとしているのです。レオノーラ様は、もはや、人の心をお持ちではないのかもしれません」
玉座に深く腰を据えているのは、現国王グスタフ・フォン・アスカーニエン「鉄血王」の異名で畏れられる彼は、若き日に幾多の戦場を駆け抜けた歴戦の武人だ。その眼光の鋭さは、「氷の悪役令嬢」と名高いレオノーラをも超えるほどに冷たく、鋭かった。
「…物流を掌握した、だと」静かな声が謁見の間に響く。「騎士団長カイルはどうした。あ奴が抑え込めぬはずがなかろう」
「そ、それがカイルもあの女の『毒』にやられてしまったようで。最近は職務もそこそこに、毎夜のように下町の酒場へ通い詰めているとのことです!」
グスタフ王の太い眉が、わずかに動いた。
「カイルが。あの石仏のような男が、みずから酒場に足を運んでいると」
しばしの沈黙。
「よかろう。余みずから出向き、その『毒』の正体とやらを確かめてくれる」
その夜、下町にある居酒屋「黄金の泡亭」の前には、私服に身を包んだ近衛騎士たちが要所要所を固めていた。しかし店内の空気は、それ以上の緊張に満ちている。
カウンターの奥の席に、老いてなお、全身から圧倒的な覇気を発する「一人の男」が座っていたからだ。
「…貴様が、レオノーラか」
グスタフ王の視線が、カウンターの中の女を射抜く。周囲の客たちは、その重圧に息を詰め、石のように固まっていた。少し離れた席では、カイルとクラリスがそれぞれ固唾を飲んで成り行きを見守っている。
しかし当のレオノーラは涼しい顔で、ジョッキを磨いていた。
「あら、いらっしゃいませ」
彼女はちらりと視線を上げ、品定めするようにグスタフ王を眺めた。
「ん?ずいぶんとお疲れのようですわね。引退間近のお客様? あのような『温い訴え』をわざわざ真に受けて、陛下ともあろう方がご自身で下町まで足を運ばれるなんて。…喉が渇いていらっしゃるのではないかしら」
「抜かせ」グスタフ王は低く唸った。「余は戦場で泥水をすすり、勝利の暁には最高級のワインで祝杯を挙げてきた。貴様のような平民の店が差し出す麦酒ごときで、この余の心が…」
「『ワインで祝杯』」
レオノーラは磨き終えたジョッキをカウンターに置き、静かに遮った。
「…ああ、なんと悲しいことでしょう。陛下、貴方は生涯、本当の意味での『一杯』を、まだ一度も飲んだことがおありでないのですわ」
「…なんだと?」
「戦場という灼熱の『動』。王宮という蕩けるような『停滞』。そのどちらの中にあっても、貴方の喉はずっと、何かを渇き求めていたはずですわ」
レオノーラは、カウンターの奥に鎮座していた特別な樽へと、ゆっくりと手を伸ばした。
「貴方に必要なのは、勝利の余韻を飾る酒でも、王としての格式を示す酒でもない。…ただ一瞬、『鉄血王』という重荷を脱ぎ捨て、一人の男に戻るための——冷徹なる一撃ですわ」
今宵レオノーラが選んだのは、これまでのラガーやIPAとは次元の異なる、ドイツ伝統の超強力ビール——『アイスボック』。製造の過程でビールを部分凍結し、氷となった水分のみを取り除くことで、アルコールと麦の旨味、ホップの苦味を極限まで凝縮した、まさに「液体の鋼鉄」とも呼ぶべき一杯だ。
「ご覧なさい、陛下。この深い琥珀の色を」
レオノーラは氷魔法をジョッキに集中させた。表面にみるみる白霜が結ぶ。注がれる液体は光を透かして宝石のように輝き、とろりとした粘度さえ感じさせるほどに濃厚だった。
「そして、お飲みなさい。…貴方が背負ってきた『鉄血』という名の重荷を、この一杯で洗い流して差し上げますわ」
グスタフ王は無言でジョッキを掴んだ。
指から伝わってくるのは、痛いほどの冷気。しかしその奥には、閉じ込められた熱のようなものが、確かに宿っていた。
彼は迷わず、一気に飲み干した。
刹那。
グスタフ王の脳裏に、かつて馬を駆けた銀世界の戦場が広がった。だが、そこに漂うのは血煙の匂いではない。五臓六腑を貫くほどの強烈なアルコールの熱。それを包み込む、ホップの峻烈な苦味。そして、遅れて追いかけてくる、干し葡萄やキャラメルを思わせる濃密な麦の甘み——。
「っ……! ぐ……っ、おおおッ——!!!」
ジョッキがカウンターに叩きつけられ、店内の魔石灯が大きく揺れた。
「…なんだ、これは。この凄まじい密度は」
グスタフ王の声が、かすかに震えていた。
「余がこれまで口にしてきたものは……ただの、着色された水だったというのか」
「お気づきになりましたか、陛下」
レオノーラは、からになったジョッキを一瞥し、静かに微笑んだ。
「王という椅子に縛られ、甘い献上品ばかりを口にし続けた貴方の喉は、いつの間にか錆びついていたのですわ。……この苦味こそが、現世の真実。この冷たさこそが、真の覇者にふさわしい休息です」
彼女は細い首をわずかに傾け、続けた。
「…それで陛下、まだわたくしを『反逆者』として処刑なさるおつもりかしら?」
しばしの沈黙の後、グスタフ王は、腹の底から大きな笑い声を轟かせた。
「わははははッ! 見事だ、レオノーラ! 貴様はこの余をこの国の王をたった一杯の麦酒で征服したぞ!!」
「征服だなんて、おおげさですわ。わたくしはただ、最高の状態でお出ししただけのこと」
「よかろう! 商業ギルドの占拠? 反逆? 笑わせるな! このような至高の一杯を私物化しようとしたエリックの料簡の狭さこそ、王家の恥辱というものだ!」
グスタフ王は立ち上がり、割れるような声で宣言した。
「全土に通達せよ! 本日より『黄金の泡亭』を王室公認醸造所とし、レオノーラ・フォン・グランツェルを国家醸造総監に任命する! 異論のある者は、この余の前に、この麦酒を超える『説得力』を携えて参れ!!」
店内に、割れんばかりの歓声が湧き起こった。
カイルは深く息をつきながら無言でジョッキを掲げ、クラリスは「神の御意志は、やはり喉越しにこそ宿っておりましたわ…!」と、涙をぼろぼろとこぼしながら天を仰いでいる。
店の外では、宣言を聞いたエリックとリリアが、その場にへたり込んでいた。
「な……なぜだ……。なぜ、みんなあの苦い泥水に…」
「エリック様わたくし、もう、お砂糖の在庫がありませんの……」
かくして王宮の権威は、静かに、しかし確実に「ジョッキの中」へと移り変わった。
レオノーラは、自らも小さなグラスにアイスボックを満たし、夜空に浮かぶ月へとそっと掲げた。その横顔には、珍しく、穏やかな満足の色が滲んでいる。
「おーほっほっほ! さあ、王都を制した次はどの国の喉を鳴らして差し上げましょうかしら?」
悪役令嬢レオノーラの麦酒革命は、一国を飲み込み、さらなる未知の喉越しを求めて今夜も、静かに加速していく。




