第6話 皇帝への約束(後編)
翌朝、フリーダから連絡が来た。
宮廷に出入りしている商人を通じて、皇帝の側近へ打診したところ、「今日の午後、謁見の時間を取れる」という返事が来た。
「早い」とイリーナが言った。
「皇帝陛下の方が、会いたかったのかもしれませんわね」
「どういう意味ですの?」
「皇帝の側近が、昨日から醸造院の周辺で目撃されていましたわ。…こちらが打診する前から、何か動いていたのではないかしら」
「皇帝陛下が、わたくしたちのことを調べていたということですか」
「あるいは、ケッセル侯爵の動きを警戒していたか。どちらかですわよ」
フリーダが言った。
「皇帝は、保守派も革新派も支持していない。どちらかが力を持ちすぎると、バランスを取ろうとする方だよ」
「では、今はどちらが力を持ちすぎていますの?」
「保守派だよ。ケッセル侯爵が動き始めてから、革新派が追い詰められてきている」
レオノーラは扇子を閉じた。
「なるほど。では、皇帝陛下はわたくしたちに会うことで、何かを測ろうとしているのかもしれませんわ」
午後、カイルが迎えの馬車を手配した。
レオノーラとイリーナが醸造院を出る時、ハインリッヒが廊下に立っていた。いつもの監視の立場だが、今日は何も言わなかった。ただ、二人が通り過ぎるのを黙って見ていた。
馬車に乗り込む前に、レオノーラが振り返った。
「ハインリッヒさん、帰りには必ず戻りますわよ」
ハインリッヒは、何も言わなかった。しかし、その目が少し動いた。
帝国の宮廷は、醸造院から馬車で三十分ほどの場所にあった。
石造りの正門をくぐり、広い廊下を通されていく。壁には帝国の歴史を記した大きな絵画が並んでいて、どれも氷と戦いを描いたものだ。帝国が、いかに過酷な自然の中で生き延びてきたかを、その絵が物語っていた。
「帝国は、氷と戦いながら生きてきた国なのですわね」
レオノーラが、絵画を眺めながら言った。
「ええ。だから、氷を制御する技術が、帝国の誇りになったのですわ。氷に負けないために、氷を使いこなすことを学んだ」
「その技術が、醸造に繋がったのですわね」
「帝国の醸造は、生き延びるための知恵から生まれましたわ」
レオノーラは、その言葉を聞いて少し黙った。
エルスベートが「完璧でなければ意味がない」と言い続けてきた理由が、少し分かった気がした。完璧でなければ、氷に負ける。生き延びられない。その緊張感が、何世代もかけて醸造の哲学になった。
謁見の間は、思ったより小さかった。
広大な部屋を想像していたが、実際は小ぢんまりとした応接室に近い。装飾は少なく、中央に椅子が二脚、向かい合って置かれているだけだ。
皇帝は、すでに椅子に座っていた。
六十代の男性で、白髪が多く、どこか疲れた目をしている。宮廷の威圧感とは無縁の、穏やかな雰囲気だ。しかし、その目の奥に、長年物事を見続けてきた者の鋭さが宿っていた。
「グランツェルの令嬢か」
「はい、陛下。レオノーラ・フォン・グランツェルと申します」
「一年越しに約束を果たしに来た、と聞いたぞ」
「遅くなりまして、申し訳ありませんでした」
皇帝が、少し口角を上げた。笑いではなく、何かを確認したような表情だった。
「謝罪は結構。それより、飲ませてもらえるか」
「もちろんですわ」
レオノーラが、持参した革の鞄からアイスボックの瓶を取り出した。
帝国へ来る前に、王都で仕込んでおいたものだ。イリーナが道中ずっと温度を管理し続けた、一年越しの約束の一杯だ。
皇帝の前のテーブルに、グラスが用意されていた。レオノーラが静かに注いだ。
深い琥珀色の液体が、グラスを満たしていく。表面に細かな泡が立ち、アルコールの豊かな香りが部屋に広がった。
皇帝が、グラスを手に取り、香りを確かめた。
「…これが、アイスボックか」
「はい。ビールを部分凍結させて、水分を除き、アルコールと旨味を凝縮させたものですわ」
「凍らせて、美味くなるのか」
「凍らせることで、余分なものが取り除かれますわ。本質だけが、残りますわよ」
皇帝が、一口飲んだ。
その瞬間、部屋が静かになった。
皇帝は目を閉じた。グラスを持ったまま、しばらく動かなかった。側近たちが、固唾を飲んで見守っている。
やがて、皇帝が目を開いた。
「なるほど…一年待った甲斐があった」
その一言が、部屋の空気を変えた。側近たちの肩から、力が抜けていくのが分かった。
「恐れ入りますわ、陛下」
「凍らせることで、本質だけが残る、と言ったな」
「はい」
「それは、帝国の哲学に似ている」
レオノーラは、少し驚いた。
「どういう意味ですか、陛下」
「帝国は、氷と戦いながら生きてきた。余分なものを削ぎ落とし、本質だけで生き延びてきた。…このアイスボックも、同じことをしているのではないか」
「…おっしゃる通りですわ」
「だとすれば、これは帝国的なビールだな」
レオノーラは、扇子を取り出しかけて、止めた。謁見の間で扇子を広げるのは、さすがに失礼かもしれない。
「陛下、一つよろしいですか」
「なんだ」
「わたくしは今、帝国の醸造院で別の一杯を造っていますわ。帝国の技術と、わたくしの技術を合わせた一杯ですわよ。…もうすぐ完成しますわ」
「そうか」
「はい。もし陛下がよろしければ、その一杯も飲んでいただけますか」
皇帝が、レオノーラを見た。その目が、疲れた老人のものではなく、何かを見極めようとしている者の目になった。
「その一杯は、何のために造っているのだ」
「帝国の誇りを否定するためではありませんわ。帝国の誇りを、もっと遠くへ連れていくためですわ」
「遠くへ?」
「このアイスボックが、帝国の哲学に似ていると陛下はおっしゃいましたわ。…であれば、帝国の技術と外の技術が出会った一杯は、その哲学をさらに深めるものになるはずですわよ」
皇帝が、しばらく黙っていた。
それから、もう一口アイスボックを飲んだ。
「出来たら、飲ませてもらえるか」
「喜んで、陛下」
「うむ。ケッセル侯爵が何か言うかもしれないが、気にしなくて良い。余が飲むと決めた」
その一言で、全てが決まった。
謁見の間を出る時、皇帝が最後に言った。
「レオノーラ・フォン・グランツェル」
「はい」
「イリーナ・フロストヴァルトのことを、頼む」
レオノーラは、少し驚いた。
「陛下は、イリーナをご存知なのですか」
「帝国の至宝と呼ばれていた女だ。知らぬはずがない。…彼女が外へ出たのは、帝国にとって損失だという声もあった。しかし余は、そうは思わなかった」
「どうお思いでしたの?」
「宝は、動くことで輝く。一か所に留まれば、いつか曇る」
イリーナが、その言葉を聞いて黙った。
「…ありがとうございます、陛下」
皇帝が、小さく頷いた。それだけだった。
宮廷を出て、馬車に乗り込んだ。
しばらく、二人とも黙っていた。
帝国の街が、窓の外を流れていく。石造りの建物、整然とした石畳、白い息を吐きながら歩く人々。
「…イリーナ」
「なんですの」
「皇帝陛下は、貴女のことを『帝国の至宝』と呼びましたわよ」
「聞いていましたわ」
「どう思いましたの?」
イリーナは少し考えてから、答えた。
「…重いですわ」
「重い?」
「至宝と呼ばれることが、重かった。だから帝国を出たかった部分もありましたわ。…でも」
「でも?」
「宝は、動くことで輝く、という言葉で…少し、楽になりましたわ」
レオノーラは、扇子を開いた。今度は開いた。
「おーほっほっほ! それは良かったですわ」
「笑い事ではありませんわよ」
「良いことですから、笑っていますわよ」
イリーナが、窓の外を見た。
帝国の街が、夕暮れに染まり始めていた。
「お嬢様、明日が本番ですわ」
「ええ、知っていますわよ」
「アイスボック・インペリアルを、完成させますわ」
「当然ですわよ。…それから」
「それから?」
「エルスベート院長に、飲んでいただきますわよ」
イリーナが、静かに頷いた。
馬車が、醸造院へ向かって走り続けた。
帝国の夕暮れが、石畳の上に長い影を落としていた。




