第6話 皇帝への約束(前編)
三日間の醸造、二日目の朝だった。
レオノーラとイリーナは、夜明け前から地下醸造室にいた。アイスボック・インペリアルの仕込みは、昨日より一段階深いところへ進んでいた。凍結の工程に入る前の、最も繊細な段階だ。イリーナの冷却回路が、精密に温度を制御している。
フリーダも来ていた。彼女の苔を使った試作品の仕込みも、並行して進んでいる。カイルが北部の森から取ってきた苔は、乾燥させた状態でも独特の香りを放っていた。土に近い、深みのある香りだ。
三人が黙々と作業を続けていた時、フリーダが手を止めた。
「昨夜、集まりで聞いたんだけど」
「なんですの」とレオノーラが答えた。
「ケッセル侯爵が、今日醸造院へ来るらしい」
イリーナの手が、わずかに止まった。
「いつ頃ですの?」
「午前中、という話だった。詳しい時間は分からない」
「目的は?」
「院長に会いに来る。…外国人を追い出せ、という話をしに来るのだと思う」
レオノーラは、作業を続けながら言った。
「三日間という約束は、エルスベート院長が出しましたわよ。侯爵が何を言っても、院長が覆さない限り、わたくしたちは動じなくて良いですわ」
「院長が、侯爵の圧力に負けたら?」
「負けないと思いますわよ」
「なぜ?」
「院長は、自分が出した約束を、他人に覆させるような方ではありませんわ」
フリーダが、少し考えてから言った。
「エルスベートのことを、よく知らないのに、なんでそう言えるの?」
「イリーナを見れば分かりますわよ」
イリーナが、扇子を持っていないのに、何か開きかけた仕草をした。
「お嬢様、わたくしを勝手に根拠にしないでくださいまし」
「事実ですわよ。おーほっほっほ!」
午前の半ばを過ぎた頃、醸造室の外が少し騒がしくなった。
廊下を歩く足音が、いつもより多い。硬い靴音が混じっている。侯爵の側近たちだろう。
フリーダが扉の隙間から廊下を確認した。
「来た。侯爵の一行が、三階へ向かっている」
「院長の応接室ですわね」
「うん。衛兵も連れてきてる」
レオノーラは、作業台から目を離さなかった。
「仕込みを続けますわよ。今が一番大切な段階ですわ」
「気にならないの?」とフリーダが言った。
「気になりますわよ。でも、手を止める理由にはなりませんわ」
イリーナが、冷却回路の数値を確認しながら言った。
「フリーダ、廊下の様子を教えてもらえますか。ハインリッヒが動いているようなら、知らせてくださいまし」
「分かった」
三階の応接室では、ケッセル侯爵とエルスベートが向かい合っていた。
ケッセル侯爵は、六十代の大柄な男性だ。帝国宮廷の重鎮として、長年保守派を率いてきた。白髪混じりの眉が太く、声が低く、部屋に入った瞬間から圧力を放っている。
しかしエルスベートは、いつも通りだった。窓を背にして立ち、侯爵を静かに見ていた。
「院長、率直に申し上げます」
「どうぞ」
「外国人の令嬢を、即刻醸造院から追い出すべきです。帝国の醸造院に、外国人が三日間も居座るなど、前例がない。帝国の誇りに関わります」
「前例がないことは、理由になりませんわ」
侯爵が、少し眉を動かした。
「帝国の伝統を守ることが、保守派の使命ではないですか」
「伝統を守ることと、新しいものを排除することは、別の話です」
「院長、あの外国人がここで何をしているか、ご存知ですか。帝国の醸造技術を学んで、それを持ち帰ろうとしているのでは」
「わたしが見た限り、持ち帰ろうとはしていません。造ろうとしています」
「どう違うのですか」
「持ち帰ることは、帝国のものを奪うことです。造ることは、帝国のものを使うことです。…奪われたと感じるか、使われたと感じるかは、何が完成するかを見てから判断します」
侯爵が、少し沈黙した。
「三日間という約束は、院長が出されたのですね」
「ええ」
「なぜそのような約束を」
「わたしが出した条件を満たせるかどうか、確かめたかったからです。…その判断は、三日後にわたしがします」
「院長の判断を、尊重したいとは思っています。しかし」
侯爵が、一歩前へ出た。
「三日後、その外国人が期待外れなら…院長の判断力を、宮廷として見直す必要があるかもしれませんね」
エルスベートは、その言葉を聞いて黙った。
窓の外の帝国の街が、静かに広がっている。
「ご意見は承りました、侯爵」
「それだけですか」
「それだけです。…三日後に、判断します」
侯爵が去った後、エルスベートは一人で窓の外を眺めていた。
「院長の判断力を見直す」という言葉の意味は、分かっていた。院長の座を失うかもしれない、という脅しだ。
しかしエルスベートは、それを怖いとは思わなかった。
怖いのは、別のことだった。
三日後、イリーナが持ってくる一杯が…本物だった場合のことだ。
本物だった場合、どう答えれば良いのか。帝国の技術を土台にした、外の技術との融合。それを「良い」と認めることが、何を意味するのか。
長年、完璧を守ってきた。変わらないことが、帝国の誇りだと信じてきた。
しかしイリーナが出ていったあの日から、ずっと、小さな疑問が胸の中にあった。
完璧なものが、なぜ娘を引き止められなかったのか。
午後、フリーダが醸造室へ戻ってきた。
「侯爵、帰ったよ。院長と話して、そのまま出ていった」
「院長はどうでしたの?」
「表情は変わらなかった。…でも、侯爵が帰った後、しばらく窓の外を見ていたって、廊下にいた醸造師が言ってた」
レオノーラは、作業を続けながら言った。
「エルスベート院長は、三日間という約束を守りますわ。心配いりませんわよ」
「どうしてそう確信できるの?」
「窓の外を見ていた、という話で分かりますわ」
「どういう意味?」
「答えをすぐに出さずに、考えているということですわ。…考えている人は、まだ動いていないということですわよ」
フリーダが、その言葉を少し考えてから頷いた。
「あなた、人の観察が得意だね」
「ビールを造る人間を、ずっと見てきましたから。喉だけでなく、顔を見る習慣がついていますわ」
「顔と喉が、繋がっているということ?」
「ええ。喉が正直な時、顔も正直ですわよ。おーほっほっほ!」
夕刻、カイルが醸造室を訪ねてきた。
「一つ、情報が入った」
「なんですの?」
「帝国の皇帝が、今日の侯爵の動きを把握しているらしい。皇帝の側近が、醸造院の周辺で目撃されている」
イリーナが、手を止めた。
「皇帝陛下が、この件に関心を持っているということですか」
「そう見て良いかもしれない」
レオノーラが、扇子を取り出した。
「カイル、皇帝陛下への謁見を取り付ける方法は、ありますの?」
「難しいが、不可能ではないかもしれない。皇帝の側近が動いているということは、何らかの接触を望んでいる可能性がある」
「フリーダ、革新派の伝手で、皇帝の側近に繋がれますか」
「皇帝は、革新派でも保守派でもない立場を取っているから、直接の繋がりはない。でも、宮廷に出入りしている商人なら、伝手があるかもしれない」
「当たってみてくださいまし」
「なんで皇帝に会いたいの?」
レオノーラは扇子を開き、口元を隠した。
「一年越しの約束を、果たさなければなりませんわよ。アイスボックを届ける約束、覚えていますわよね、イリーナ」
「覚えていますわ。…今度は、一年も忘れていないですわよね?」
「当然ですわよ。おーほっほっほ!」
フリーダが、呆れた顔をした。
「一年越しの約束って、何?」
「長い話ですわ。…後で教えて差し上げますわよ」
醸造室に、夕刻の冷気が満ちてきた。
明日は三日目だ。アイスボック・インペリアルが完成する日。そして皇帝への約束を果たす日。
レオノーラは、作業台に向かいながら、静かに思った。
この帝国で、一番大切なことは何か。
ケッセル侯爵でも、保守派と革新派の対立でも、エルスベートとイリーナの母娘関係でもない。
ただ、一杯を届けること。
それだけだ。
「さあ、続けますわよ。明日が本番ですわ」
レオノーラの声が、帝国の地下醸造室に響いた。




