第5話 カイルの仕事(後編)
カイルが北部の森へ向かった後、クラリスは一人で街に残った。
広場のベンチに座り、しばらく帝国の街を眺めていた。
王都の街とは、全然違う。建物の色が違う。人の歩き方が違う。空気の冷たさが違う。しかし一つだけ、同じものがある。
人が、歩いている。
疲れた顔で歩いている人がいる。急ぎ足で歩いている人がいる。子供の手を引いて歩いている人がいる。それは、王都と全く同じだった。
クラリスは立ち上がった。
何かしなければならない、という感覚があった。カイルは情報収集をしている。レオノーラとイリーナは醸造室で作業をしている。では、自分は何ができるか。
答えは、分かっている。
私は…一杯を、手で渡すことができる。
街を歩きながら、クラリスは酒場を探した。
しばらく歩くと、石畳の路地の角に、小さな酒場があった。看板が出ていて、昼間から開いている。扉が少し開いていて、中から話し声が聞こえてくる。
クラリスは、扉を押し開けた。
中に入った瞬間、数人の客が振り返った。外国人の若い女が一人で入ってきたことに、驚いている様子だ。クラリスは気にせず、カウンターに向かった。
カウンターの奥に、中年の女性店主がいた。
「いらっしゃい」
帝国語だった。クラリスには分からない。しかし、声のトーンで「いらっしゃい」だということは分かった。
「あの、一杯いただけますか?」
帝国語で何と言えば良いか分からないから、グランツェル語で言いながら、ジョッキを持つ仕草をした。
店主が理解して、頷いた。
氷晶ラガーが注がれたジョッキが、カウンターに置かれた。
クラリスは受け取り、一口飲んだ。
冷たい。鋭い。完璧に整った苦み。
イリーナが作る冷気に似ているが、もっと古い。何百年もの時間が染み込んでいるような、深みがあった。
「美味しいですわ」
グランツェル語で言ったが、店主には伝わらないだろう。しかしクラリスの顔を見て、店主が少し笑った。顔は、言葉よりも正直だ。
カウンターの隣に、二人の客が座っていた。
一人は年配の男性で、保守派らしい雰囲気がある。頑固そうな顔をして、黙ってジョッキを傾けている。もう一人は若い男性で、革新派らしい雰囲気がある。腕を組んで、前を向いたまま飲んでいる。
二人は互いを無視していた。しかし無視の仕方が、ただの他人同士とは違う。意識的に、相手を避けている。
クラリスには、帝国語が分からない。しかし、その空気だけは分かった。
カイルが言っていた通りだ。この街は、二つに割れている。
クラリスは鞄の中を確認した。
今朝、黄金の泡亭から持参したものがある。レオノーラが醸造した麦酒の小瓶だ。帝国へ来る前に、レオノーラが「何かの時のために」と持たせてくれたものだった。
クラリスは小瓶を取り出し、店主に向かって差し出した。
「これを、二人に注いでいただけますか?」
グランツェル語で言いながら、年配の男性と若い男性を交互に指差した。
店主が、小瓶を受け取り、中の匂いを嗅いだ。目が少し丸くなった。
「これは、グランツェルの麦酒か?」
帝国語だったが、「グランツェル」という単語だけは分かった。クラリスは頷いた。
店主が、少し考えてから、二つのジョッキに注いだ。
クラリスが、年配の男性の前にそっと置いた。
「どうぞ」
帝国語では言えないから、グランツェル語で言いながら、ジョッキを指差した。
年配の男性が、クラリスを見た。警戒した目だった。しかしクラリスが笑顔で頷くと、渋々ジョッキを手に取った。
次に、若い男性の前にもう一つを置いた。
「どうぞ」
若い男性も、戸惑いながら受け取った。
二人が、ほぼ同時に一口飲んだ。
その瞬間、二人の表情が変わった。
年配の男性が目を閉じた。眉間の皺が、少し緩んだ。若い男性は、飲み込んだ後にジョッキを見つめた。何かを確かめるように、もう一口飲んだ。
クラリスは、その様子を見ていた。
二人の表情が、同じだった。立場も、年齢も、考え方も違う二人が、同じ顔をしていた。
「神の御意志は、言葉を越えますわ」
クラリスは、小声で呟いた。
年配の男性が、クラリスを見た。帝国語で何か言った。
「すみません、帝国語は分からないのですが」
クラリスがグランツェル語で答えると、店主が通訳してくれた。
「美味い、と言っている」
「ありがとうございます、と伝えていただけますか?」
店主が通訳した。年配の男性が、少し照れくさそうに頷いた。
若い男性も、何か言った。店主が通訳した。
「どこの麦酒か、と聞いている」
「グランツェル王国の、黄金の泡亭という店ですわ。レオノーラ・フォン・グランツェル総監が造った一杯ですわよ」
店主が通訳した。二人が、その名前を聞いて顔を見合わせた。初めて、二人が互いを見た瞬間だった。
年配の男性が、また何か言った。
「帝国でも、噂を聞いたことがある、と言っている」
「そうですか。嬉しいですわ」
若い男性も何か言い、店主が通訳した。
「帝国の醸造院にいる、と聞いた。本当か、と聞いている」
「ええ、今そちらにいますわよ」
また、二人が顔を見合わせた。今度は、少し違う表情だった。警戒でもなく、敵意でもなく、ただ驚いている顔だ。
しばらく、奇妙な会話が続いた。
クラリスがグランツェル語で話し、店主が帝国語に訳す。年配の男性か若い男性が帝国語で答え、また店主が訳す。
話の内容は、たわいないものだった。
グランツェル王国の冬は寒いか。帝国の夏は短いか。王都の市場には何が売っているか。
しかし話しながら、クラリスは気づいた。
年配の男性と若い男性が、自然に会話に加わっていた。最初は互いを無視していた二人が、クラリスを介して、同じ話題を共有していた。
ジョッキが、その場の空気を変えていた。
クラリスは思った。
本物の一杯は、人を引き寄せる。立場も言葉も関係なく。
クラリスは、自分のジョッキを眺めた。
自分が渡したのは、レオノーラが造った一杯だ。自分が造ったわけではない。しかし、渡したのは自分だ。
「神の御意志を、手で渡すのはわたくしですわ」
酒場を出たのは、昼過ぎだった。
街の様子が、午前中と少し変わっていた。
保守派らしい人間が、いつもより多く街を歩いている。二人組、三人組で、何かを確認しながら動いている。そして「ケッセル侯爵」という単語が聞こえた。
クラリスは、急いでフリーダへ連絡を取る方法を考えた。
しかし醸造院の中へ直接連絡を取る手段がない。夜の集まりまで待つしかないが、状況が変わりつつある今、それでは遅いかもしれない。
クラリスは、街を早足で歩きながら、頭を使った。
フリーダは醸造院の中にいる。革新派の連絡役は、雑貨屋の店主を通じて動いている。ならば、雑貨屋へ行けば良い。
路地を抜けて、雑貨屋へ向かった。
店先に、朝とは別の若い醸造師がいた。クラリスが近づき、フリーダから教わっていた合言葉を告げた。
「北の苔は、まだ青いか」
若い醸造師が、驚いた顔をした。それから周囲を確認して、小声で答えた。
「もう少し待てば、青くなる」
「醸造院の中にいるフリーダへ、伝えていただけますか。「ケッセル侯爵が動き出すかもしれない」今夜の集まりより前に、醸造院の中へ伝えてほしい」
グランツェル語だったが、「ケッセル侯爵」という名前だけで、若い醸造師の顔が変わった。
「通訳を呼ぶ」
少し待つと、帝国語とグランツェル語が分かる革新派の醸造師が来た。クラリスが改めて伝えると、若い醸造師が頷いた。
「分かった。今すぐフリーダへ伝える」
「お願いしますわ」
夜になって、カイルが戻ってきた。
約束の場所で落ち合うと、カイルが革の袋を持っていた。中に、青みがかった苔が入っている。
「取ってきた。フリーダが言っていた通りの場所にあった」
「お疲れ様でしたわ、カイルさん」
「お前こそ。何かあったか」
クラリスが、午後の出来事を話した。酒場での二人の客のこと、ケッセル侯爵の側近が街で動いていること、革新派の連絡役を通じてフリーダへ伝えたこと。
カイルが、黙って聞いていた。
「酒場で、二人に一杯渡したのか」
「はい。レオノーラ様が持たせてくれた小瓶を使いましたわ」
「それで、二人が話すようになったか」
「正確には、わたくしを介して、ですわ。でも、同じジョッキを飲んでいる間は、二人の表情が同じでしたわ」
カイルは少し考えてから、言った。
「…よくやった」
「ふふ。わたくしも、少し成長しましたわよ」
カイルが、珍しく小さく笑った。
「そうだな。今夜の集まりで、フリーダに伝える」
「はい。…あと、苔も渡さなければなりませんわね」
「ああ。フリーダが喜ぶだろう」
二人は並んで、夜の帝国の街を歩き始めた。
石畳の上に月明かりが落ちて、どこか遠くで風が鳴っている。
クラリスは、鞄の中の空になった小瓶を確認した。レオノーラが持たせてくれた一杯は、今日、帝国の二人の喉へ届いた。
「神の御意志は、帝国にも宿っておりましたわね」
小声で呟いた。
カイルが「何か言ったか?」と聞いた。
「いいえ、独り言ですわ」
二人の足音が、帝国の夜の静寂に、規則正しく響いていた。




