第5話 カイルの仕事(前編)
帝国の街は、静かだった。
静かすぎた。
カイルは、クラリスと並んで石畳の通りを歩きながら、その静けさの質を測っていた。王都アスカーニエンも、朝は静かだ。しかしあちらの静けさは、賑わいが始まる前の「準備中の静けさ」だ。帝国の静けさは、違う。賑わいを避けているような、どこか息を詰めた静けさだった。
「カイルさん、帝国の街って、こんなに静かなのですか?」
クラリスが、小声で聞いた。自然と声が小さくなってしまうような空気が、街全体に漂っていた。
「いつもこうなのか、今だけこうなのか、まだ分からない」
「今だけ、ということはありますの?」
「ある」
カイルは、道行く人々の顔を一人ずつ確認していた。目が合うと、すぐに逸らされる。不審に思っているのか、それとも外国人を警戒しているのか。どちらでもなく、ただ誰とも目を合わせたくないのか。
「この街は二つに割れている」
「二つ、ですか?」
「保守派と革新派だ。同じ街の中で、互いを避けながら生活している」
クラリスが、辺りを見渡した。
「見た目では分かりませんわ」
「酒場を見ろ」
通りに面した酒場が、左右に一軒ずつある。右の酒場は老舗らしく、重厚な石造りだ。左の酒場は新しく、入り口が開け放たれて明るい雰囲気だ。右の酒場には年配の客が多く、左には若い客が多い。
「右が保守派、左が革新派だ。おそらく」
「お酒を飲む場所まで、分かれているのですか」
「意識してそうしているわけではないだろう。ただ、自然にそうなっている」
クラリスが、その光景を見ながら黙った。
昼前、カイルは一人で動いた。
クラリスを街の広場のベンチに待たせ、路地の奥へと向かった。フリーダから事前に教えてもらっていた場所だ。革新派の連絡役が、昼前に必ずここを通るという。
路地の突き当たりに、小さな雑貨屋があった。
カイルは、店先に並んだ木箱を眺めるふりをしながら、フリーダに教わった合言葉を店主に告げた。
「北の苔は、まだ青いか」
店主が、一瞬だけ目を細めた。それから、何事もなかったように答えた。
「もう少し待てば、青くなる」
店主が「少し待て」と目で示した。カイルは木箱を眺め続けた。
五分ほどして、店の奥から若い男が出てきた。二十代前半で、醸造師の革のエプロンをつけている。
「外国の騎士か」
「ああ」
「フリーダの紹介か」
「そうだ」
若い男が、周囲を素早く確認してから、カイルの隣に並んだ。木箱を眺めるふりをしながら、小声で話した。
「保守派が、外国人の動きを監視している。醸造院の中で何かが起きていることは、街にも伝わっている」
「どんな話が広まっている?」
「外国人の令嬢が、帝国の醸造院に乗り込んで、院長と対峙しているという話だ。院長が三日間、醸造室を開放したという話も」
「それは、保守派の耳にも入っているか」
「当然だ。ケッセル侯爵の動きが、昨日から活発になっている」
「ケッセル侯爵?」
「保守派の中心人物だ。帝国宮廷の重鎮で、院長の方針を支持している。…その侯爵が、昨日から側近を街に出して、情報を集めている」
カイルは、その情報を頭に刻んだ。
「院長に直接働きかける可能性はあるか」
「ある。というより、すでに動いているかもしれない」
「醸造院の中への連絡手段はあるか。フリーダへ伝えたい」
「夜の集まりを使う方法があるが、日中は難しい」
「夜で構わない。今夜、集まりに参加できるか」
「外国の騎士が来れば、目立つが」
「俺ではなく、あの女が行く」
若い男が、少し驚いた顔をした。
「あの、小さな女か。何もできないように見えるが」
「できる」
カイルは、それだけ言った。
広場に戻ると、クラリスがベンチに座ったまま、辺りを観察していた。その目が、思ったより鋭かった。
「カイルさん、どうでしたか?」
「ケッセル侯爵という人物が動き始めている。レオノーラたちに伝える必要がある」
「ど…どうやって伝えますの?」
「今夜の革新派の集まりを使う。お前に行ってもらいたい」
「わたくしが?」
「フリーダと繋がっている。外国人の女が来ても、あの集まりなら受け入れてもらえる」
クラリスが、少し考えてから頷いた。
「分かりましたわ。…カイルさんは?」
「北部の森へ行く。フリーダが頼んでいた苔を取ってくる」
「一人で大丈夫ですか?」
「俺のことは心配するな」
「でも」
「お前こそ、一人で大丈夫か」
クラリスが、背筋を伸ばした。
「お任せください。私だってやれば出来るのですから!」
カイルは、その言葉を聞いて少し黙った。
そして、クラリスを見た。
王都を出た頃と、少し顔が違う。自信とまでは言えないが、根拠のある落ち着きが、その顔に滲んでいた。
「分かった。何かあれば、夜の集まりの場所で落ち合う」
「はい」
「無理はするな」
「カイルさんこそ」
カイルが北部の森へ向かう前に、もう一か所立ち寄った。
街の外れにある、小さな食堂だ。革新派の連絡役が、昼食をここで取ると言っていた。情報をもう一つだけ確認したかった。
食堂に入ると、革新派の若い男がすでにいた。カイルが向かいに座った。
「ケッセル侯爵の動きについて、もう少し教えてくれ」
「昨日、侯爵の側近が醸造院を訪問したという話が出ている。院長と会ったかどうかは分からないが」
「目的は何だと思う?」
「外国人を追い出すことだろう。侯爵は、院長が外国人に醸造室を開放したことを、快く思っていない」
「院長自身は、どう思っているんだ」
「それは誰にも分からない。…院長は、自分の考えを外に出さない人だから」
カイルは、料理を頼みながら考えた。
ケッセル侯爵が動いている。三日間という期限の中で、外から圧力がかかる可能性がある。レオノーラたちが醸造室で作業をしている間に、状況が変わるかもしれない。
「最後に一つだけ聞く。革新派は、外国人の令嬢を信頼しているか」
若い男が、少し間を置いてから答えた。
「昨夜の集まりで話を聞いてから、変わってきている。…あの令嬢が言ったことが、頭に残っている者が多い」
「何を言ったんだ」
「戦い方の話ばかりで、造りたいものの話をしていない、と言われた。…図星だったから、言い返せなかった」
「それで、信頼するようになったか」
「正確には、信頼するかどうかを考えるようになった。…それだけでも、昨日の朝とは違う」
カイルは、料理を一口食べた。
帝国の食事は、王都より素朴で塩辛かった。しかし悪くはなかった。
「分かった。ありがとう」
「外国の騎士は、令嬢の護衛か?」
「まあ、そういうものだ」
「令嬢を信頼しているか?」
カイルは少し考えてから、答えた。
「している」
「なぜ?」
「あの人は、ジョッキを持った時に一番良い顔をする。…それだけで、十分だ」
若い男が、その言葉の意味を少し考えてから、小さく頷いた。
「…そうか」
食堂を出て、カイルは北部の森へ向かう道へ足を向けた。
馬で半日の距離だ。往復すれば、夜には戻ってこられる。
馬に跨りながら、カイルは帝国の街を振り返った。
石造りの建物が整然と並んでいる。白い息を吐きながら歩く人々。そして、どこか息を詰めた空気。
その街の中で、レオノーラが動いている。捕まっていながら、醸造室で一杯を造っている。フリーダと革新派の若者たちを巻き込みながら、帝国という巨大な頑固さに、一杯で向き合おうとしている。
「…相変わらずだな」
独り言のように呟いた。




