第4話 地下の革命家(後編)
カイルへの使いを出したのは、昼過ぎだった。
帝国の街で情報収集しているカイルへ、フリーダが簡単な地図を書いた。北部の森への道順と、採取すべき苔の特徴を記したものだ。使いの若い革新派の醸造師が、それを持って街へ向かった。
「本当に取ってきてくれるかな」とフリーダが言った。
「カイルは、頼んだことを必ずやり遂げますわよ。それが取り柄ですわ」
「取り柄って言い方、失礼じゃない?」
「本人も、そう言っていますわよ。おーほっほっほ!」
イリーナが冷却回路の調整をしながら言った。
「カイルさんなら、明日の朝には持ってきてくれますわ。採取の量さえ間違えなければ」
「地図には書いておいたよ」
「では、明日から並行して仕込めますわね」
フリーダが、まだ少し信じられないという顔をしていた。自分のアイデアが、こんなに自然に動き出したことが、不思議なのだろう。
夕刻、フリーダが言った。
「夜、革新派の集まりがあるんだけど、来る?」
「もちろんですわよ」とレオノーラが即答した。
「お嬢様」とイリーナが静かに言った。「革新派の集まりに外国人が顔を出すのは、少し問題があるのではないですか」
「問題があるからこそ、面白いのですわよ」
「そういう問題ではありませんわ」
「イリーナも来ますわよ」
「え?」
「貴女の幼馴染の集まりですもの。来ない理由がありませんわ」
イリーナは少し渋い顔をしたが、結局頷いた。
夜、三人は醸造院の地下を抜け、街の外れにある倉庫へ向かった。
フリーダが先導し、裏道を通って移動する。帝国の夜は暗く、石畳に月明かりだけが反射していた。レオノーラは、その暗さの中でも特に気にした様子なく、扇子を開きながら歩いていた。
「お嬢様、扇子は閉まっていた方が目立ちませんわよ」とイリーナが言った。
「習慣ですわ」
「外国人が扇子を開いて夜道を歩いていたら、目立ちますわ」
「む…それは確かに」
渋々、扇子を閉じた。
倉庫の扉を、フリーダが特定のリズムでノックした。しばらくして、中から扉が開いた。
中には、二十人ほどの若い醸造師たちが集まっていた。蝋燭の灯りだけが頼りの、薄暗い空間だ。フリーダの姿を見て安堵したような顔をした者もいたが、その後ろのレオノーラとイリーナを見て、場が緊張した。
「フリーダ、この人たちは?」
「イリーナと、グランツェル王国から来た令嬢。今、醸造院で一緒に作業してる」
「外国人を連れてくるのか」
「問題ない。信頼できる人たちだよ」
場の緊張が、完全には解けないまま、集まりが始まった。
レオノーラは、その場の空気を観察していた。
議論が始まった。保守派への批判から始まり、エルスベートの方針への不満、帝国の閉鎖性への怒りと続いた。若い醸造師たちが、次々と言葉を重ねていく。
しかし、レオノーラが気づいたことがあった。
誰も、新しい一杯の話をしていない。
保守派をどう変えるか、エルスベートをどう説得するか、外の技術をどう取り入れるかという話はある。しかし「自分はどんな一杯を造りたいか」という話が、一つも出てこない。
三十分が経った。
レオノーラが、静かに手を挙げた。
「少し、よろしいですか」
場が静まり返った。全員の目が、この場違いな外国人へ向いた。
「今夜、誰か新しいビールの話をしましたの?」
沈黙。
「戦い方の話ばかりで、造りたいものの話をしていませんわよ。…それでは、保守派に勝っても、何も生まれませんわよ」
「あんたに、帝国の事情が分かるのか」
一人の若い醸造師が、反発した。
「分かりませんわよ。だから聞いていますの」
「保守派に材料も場所も制限されて、新しいものが造れない状況で、どうしろというんだ」
「フリーダは造ろうとしていますわよ」
場の目が、フリーダへ向いた。フリーダが少し驚いた顔をした。
「フリーダが、明日から自分の一杯を仕込み始めますわ。帝国の北部の苔を使った、帝国にしかできない一杯ですわよ」
「本当か、フリーダ」
「…まあ、そういう話になったんだけど」
「材料はどうした」
「今、取りに行ってもらってる」
場がざわめいた。
「どこで仕込むんだ」
「醸造院の地下醸造室を、三日間使える」
「醸造院を? エルスベートが許可したのか」
「黙認された」
ざわめきが、さらに大きくなった。
レオノーラが、続けた。
「皆さん、一つだけ言わせてくださいまし」
場が静まった。
「保守派を変えることと、新しいものを造ることは、別の話ですわよ。…保守派が変わらなくても、造りたい一杯は造れますわ。制限の中でも、フリーダは造ろうとしている」
「それは、あんたが醸造院の設備を使えるからだろう」
「ええ、今回はそうですわ。でも」
レオノーラは場を見渡した。
「皆さんの中に、造りたい一杯がある人は、どのくらいいますの?」
手は上がらなかった。しかし、目が動いた。何人かが、互いの顔を見合わせた。
「造りたいものがあるなら、話してくださいまし。戦い方の話よりも、ずっと面白いと思いますわよ」
また沈黙が流れた。
やがて、一人の若い醸造師が、ためらいがちに口を開いた。
「…わたしは、帝国の雪解け水だけを使った、極限まで澄んだビールを造りたい」
「面白いですわね」
レオノーラが、扇子を開いた。
「雪解け水は、ミネラルが少なくて軟水に近い。ホップの苦みよりも、麦芽の繊細な甘みが前に出てきますわよ。帝国の冬が長いからこそ、造れる一杯ですわ」
若い醸造師が、目を輝かせた。
「そういう話をすると、面白くなりますわ」
別の醸造師が、躊躇いながら言った。
「わたしは、帝国の古い木樽を再利用して、長期熟成のエールを試したかった」
「それも良いですわ。古い木樽には、長年の発酵の記憶が染み込んでいますわよ。帝国にしかない風味が出るはずですわ」
一人が話すと、また一人が話す。話が出てくるたびに、場の空気が変わっていった。批判の熱量ではなく、別の種類の熱量が、倉庫の中に満ちてきた。
その時、倉庫の扉が開いた。
ハインリッヒだった。
場が、一瞬で凍りついた。保守派の醸造師が、革新派の集まりに乗り込んできた。
「革新派の集会か。院長に報告する」
誰も動かなかった。フリーダが立ち上がりかけた。しかしレオノーラが先に動いた。
「ハインリッヒさん、せっかくですから一杯飲んでいきませんか」
「外国人の酒など飲まない」
「帝国の素材で造った試作品ですわよ。昨日から仕込み始めたものですが、少しだけあります」
ハインリッヒが、その言葉で足を止めた。
「帝国の素材で?」
「ええ。帝国の麦芽と、地下水脈の水だけで仕込みましたわ。外の素材は一切使っていませんわよ」
ハインリッヒの目が、レオノーラを見た。それから、彼女が取り出した小さな瓶を見た。
「…一口だけだ」
ハインリッヒが、渋々グラスを受け取った。
一口、飲んだ。
その場の全員が、固唾を飲んで見ていた。
ハインリッヒは何も言わなかった。グラスをレオノーラへ返した。そして踵を返した。
扉の前で、一度だけ足を止めた。
「…今夜のことは、院長に報告しない」
それだけ言って、扉が閉まった。
倉庫の中が、ざわめいた。
「なんで?」フリーダが呆然としていた。「ハインリッヒが、報告しないなんて」
「わたくしの一杯が、少し届きましたのよ」
「あの頑固な保守派に?」
「どんな立場の人間でも、喉は正直ですわ。…ハインリッヒさん、帝国の素材で造ったと聞いた時、目が変わりましたわよ」
「どういう意味?」
「保守派の人間は、帝国の醸造文化を愛しているから保守派なのですわ。外の文化に侵略されることが、嫌なのですわよ。…でも、帝国の素材だけで造った一杯なら、話は別ですわ」
イリーナが、静かに言った。
「お嬢様は、最初からそれを分かって、帝国の素材だけで仕込みましたの?」
「分かっていましたわよ。…帝国でやるなら、帝国のものを使わなければ意味がありませんわ」
フリーダが、しばらく黙ってから言った。
「あなた、すごいね」
「当然ですわよ。おーほっほっほ!」
倉庫の中に、笑いが広がった。
初めて、批判ではなく笑いが、その場を満たした夜だった。




