第4話 地下の革命家(前編)
醸造作業の二日目が始まった。
地下醸造室には、朝から三人がいた。イリーナが冷却回路の調整を続け、フリーダが材料の下準備をし、レオノーラが全体の工程を管理している。昨日より動きが滑らかだ。三人の役割分担が、自然に定まってきていた。
廊下には、約束通りハインリッヒが立っていた。保守派の醸造師で、昨日「監視する」と言い残して去った男だ。今朝から醸造室の扉の外に陣取り、中の様子を時折覗いている。
レオノーラは、その視線を背中で感じながら、麦芽の状態を確認していた。
「…ハインリッヒさん、中に入って見ていただいても構いませんわよ」
廊下から、返事はなかった。
「おーほっほっほ! 遠慮しなくていいのに」
「お嬢様、刺激しないでくださいまし」とイリーナが言った。
「刺激ではなく、招待していますわよ」
「結果は同じですわ」
昼前、仕込みの工程が一段落した。
フリーダがお茶を三人分持ってきた。帝国では、醸造師が仕込みの合間に飲む習慣があるらしい。ハーブを乾燥させたものを、熱い湯に浸した素朴な飲み物だ。
三人が作業台の端に並んで座った。
「フリーダ、一つ聞いてもよろしいですか」
レオノーラが、お茶を一口飲みながら言った。
「なに?」
「貴女は、なぜ革新派に入りましたの?」
フリーダの手が、カップの上で止まった。
「イリーナがいなくなったから、って昨夜言ったじゃない」
「それは、きっかけですわ。本当の理由を聞いていますわよ」
フリーダは少し黙った。窓のない地下醸造室で、三人の間に静寂が流れた。冷却回路の微かな稼働音だけが、その静寂を満たしていた。
「…昔、提案したことがあったんだ」
フリーダが、ゆっくりと話し始めた。
「帝国の北部に、特別な苔が生えている場所があってさ。春先に採れる苔で、乾燥させると独特の香りがするんだよ。ホップとは全然違う、もっと土に近い、深い香りで」
「苔を、醸造に使うのですか?」
「使えると思ったんだよ。帝国の素材だけで、帝国にしかできない一杯が造れると思って。…それで、エルスベート院長に提案したんだ」
「どうなりましたの?」
「一言で却下された」
フリーダが、お茶を一口飲んだ。その表情が、少し遠くなった。
「『帝国の醸造に、実験は必要ない』って言われた。それだけ。理由も、代替案も、何もなし。…その一言で終わりだった」
イリーナが、視線を落とした。
「…お母様らしいですわ」
「イリーナは知ってたの?」
「知りませんでしたわ。でも、その反応は想像できますわ」
「そうだよね」
フリーダが、苦笑いした。
「その日から、革新派に近づいていったんだ。自分のアイデアを試せる場所を探してさ。…でも」
「でも?」
「革新派は、そういう場所じゃなかった」
「どういう意味ですの?」
レオノーラが、静かに聞いた。
「革新派って、名前は革新だけど、やってることは保守派への反発ばかりなんだよ。エルスベートを批判して、帝国の伝統を否定して、外の技術を取り入れろって叫んで。…でも、新しい一杯を造ろうって話は、ほとんどしないんだ」
「なぜですの?」
「保守派に弾圧されて、材料も場所も制限されてるから、実際には造れないんだよ。だから自然と、議論が批判に向かっていく。…わたくし、それに気づいた時、少し幻滅したんだ」
レオノーラは、フリーダの顔を見た。
幻滅、という言葉を使いながら、しかしフリーダはまだ革新派にいる。それはなぜか。
「それでも、革新派にいるのはなぜですの?」
「他に、行ける場所がなかったから」
フリーダが、素直に答えた。
「保守派には戻れない。でも、革新派の中でも浮いてる。…どこにも居場所がない感じ、ずっとしてた」
「今は?」
「今は、まあ…」
フリーダが、醸造室を見渡した。
「ここにいるから、良いかな、って」
レオノーラは少し考えてから、言った。
「で、フリーダ。貴女のやりたいことは何ですの?」
「ん?さっき言ったじゃない。帝国の素材だけで、帝国にしかできない一杯を造りたい」
「その苔の一杯、まだ試したいと思っていますの?」
「思ってるよ。…でも、材料も場所も」
「三日間、この醸造室が使えますわよ」
フリーダが、目を丸くした。
「それは、アイスボック・インペリアルの作業があるから」
「並行してできますわよ」
「無理だよ、二つ同時には」
「わたくしとイリーナがアイスボックを担当しますわ。フリーダは、その苔の一杯を試してみなさいな」
「でも材料が…」
「苔は、どこで手に入りますの?」
「帝国の北部の森だけど、ここから馬で半日かかる」
「カイルに頼めば、取ってきてくれますわよ」
「カイルって、あの外の騎士?」
「ええ。今頃、街で情報収集していますわ。使いを出せば、足を延ばしてくれますわよ」
フリーダは、しばらく黙っていた。
自分のアイデアを、誰かに「試してみなさい」と言われたのは、初めてだった。エルスベートには却下された。革新派の仲間たちには、そういう話をする余裕がなかった。
「…本当に、良いの?」
「良いですわよ。…ただし」
「ただし?」
「完成したら、わたくしにも一杯くださいまし」
フリーダが、少し笑った。
「それだけ?」
「それだけですわよ。おーほっほっほ!」
イリーナが、二人のやり取りを聞きながら、静かに言った。
「フリーダ、一つ聞いても良いですか」
「なに、イリーナ」
「その苔の提案を却下された時、わたくしに話してくれれば良かったのに」
「…言えなかったよ」
「なぜ?」
「イリーナは天才だから。天才に、こんな素朴なアイデアを話したら、笑われると思って」
イリーナは、少し黙った。
「笑いませんわよ」
「今だから言えるんじゃない?」
「…そうかもしれませんわ」
イリーナが、認めた。
「帝国にいた頃のわたくしは、外のものを低く見ていましたわ。フリーダのアイデアも、きちんと聞かなかったかもしれませんわ」
「自覚はあったんだ」
「今だから、ありますわよ」
二人が、少し笑った。
レオノーラは、その様子を眺めながら、扇子を開いた。
「二人とも、長い付き合いですのね」
「幼馴染だから」とフリーダが言った。
「ずっと一緒にいたのに、話せなかったことがあったのですわね」
「そういうもんだよ、幼馴染って。近すぎて、言えないことがある」
「なるほど」
レオノーラは扇子を閉じ、立ち上がった。
「では、カイルへの使いを出しますわ。苔を取ってきてもらいましょう」
「本当にやるの?」
「当然ですわよ。…フリーダ、貴女の一杯も、わたくしは楽しみにしていますわよ」
フリーダが、少し照れくさそうに頭を掻いた。
「…変な人だよ、あなたは本当に」
「よく言われますわ」
醸造室に、小さな笑いが広がった。
廊下では、ハインリッヒが相変わらず立っていた。しかしその表情が、朝より少しだけ、和らいでいた。




