第3話 母と娘(後編)
フリーダが地下室の扉を開けたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
「起きてる?」
「起きていますわよ。昨夜からずっと」
レオノーラが椅子から立ち上がった。一晩中、地下室の冷気を研究していたらしく、石壁のあちこちに指で書いた跡が残っている。
「何してたの、それ」
「温度の分布を調べていましたわ。北の壁が一番冷たくて、南の壁に近づくほど少し上がる。地下水脈が北から流れているのかしら」
「…囚人がやることじゃないね」
「おーほっほっほ! そうかもしれませんわね」
フリーダが、呆れた顔で廊下を確認した。
「院長が、あなたを醸造室に連れていくことを許可したよ。今のうちに移動しよう」
「まあ、エルスベートが」
「直接言ったわけじゃないけど。今朝、私が打診したら止められなかった。黙認ってやつ」
レオノーラは扇子を手に取り、静かに開いた。
「…なるほど。イリーナに似ていますわね」
「何が?」
「直接言わない、というところが」
醸造室に入ると、イリーナがすでに設計図を広げて作業を始めていた。
レオノーラの姿を見た瞬間、イリーナが固まった。
「お嬢様、なぜここに」
「フリーダが連れてきてくれましたわ」
「フリーダ、貴女なぜレオノーラ様を」
「昨夜、話してたから。面白い人だと思って」
「何を話しましたの」
「色々」
イリーナが額に手を当てた。
「お母様に何か言われませんでしたか。地下室の囚人が醸造室にいたら」
「黙認されたそうですわよ」
「黙認…」
イリーナは天井を見上げた。エルスベートが黙認した。それは、レオノーラの存在を認識した上で、あえて止めなかったということだ。
「…お母様らしいですわ」
「貴女と同じことを言いましたわよ、わたくしも」
「そうですか」
イリーナが、少し複雑な顔をした。しかし、それ以上は言わなかった。
レオノーラは醸造室を見渡した。一晩中、地下室の冷気を研究していたせいか、醸造室の設備を見た瞬間に、様々なことが頭の中で繋がり始めた。
「イリーナ、三日間使えますの?」
「ええ。お母様から許可をいただきましたわ」
「では、始めますわよ。フリーダ、手伝っていただけますか」
「手伝うけど、何を造るの?」
レオノーラが扇子を閉じた。
「アイスボック・インペリアルですわ」
レオノーラが構想を話し始めた。
アイスボックは、ビールを部分凍結させて水分を除き、アルコールと旨味を凝縮させたものだ。その製法の核心にあるのは、「氷の技術」だ。
「帝国の氷晶ラガーを土台に使いますわ。帝国が数百年かけて磨いてきた精度の高い冷却技術で、凍結の工程を制御する。そこにわたくしの温度の対流技術を加えることで、これまで誰も到達できなかった一杯が生まれますわ」
「それは」とフリーダが言った。「帝国の技術を、否定しない一杯だ」
「ええ。帝国の技術なくして、この一杯は生まれませんわよ」
フリーダが、レオノーラを見た。
革新派として、ずっと「帝国の醸造文化を変えなければならない」と戦ってきた。しかしこの一杯の構想は、変えることを求めていない。帝国のものを土台として、その上に積み上げる。
「…保守派への答えにもなるね、これは」
「そうですわ。帝国の誇りを壊すのではなく、帝国の誇りをもっと遠くへ連れていく一杯ですわよ」
フリーダは少し黙ってから、言った。
「分かった。手伝う」
「ありがとうございますわ」
「ただし」
「なんですの?」
「私も、一杯飲ませてね。完成したら」
「当然ですわよ。おーほっほっほ!」
三人が作業を分担し始めた。
イリーナが冷却回路の設置を担当し、フリーダが材料の調達と下準備を担当し、レオノーラが全体の設計を指揮する。
帝国の醸造室は、設備が充実していた。精密な温度計、品質の高い木樽、そして地下水脈から引いた水。レオノーラが一晩かけて研究した「北の壁の冷気」を活用するため、イリーナが回路をその方向へ向けて設置した。
「この冷気、本当に特殊ですわね」とイリーナが言った。「地下水脈の影響で、温度が非常に安定していますわ。わたくしの回路と組み合わせれば、凍結の精度が今まで以上に上がるはずですわ」
「それが、帝国でしかできない理由ですわ」とレオノーラが答えた。「この地下水脈の冷気は、王都では再現できませんわよ」
フリーダが、材料を並べながら言った。
「帝国の麦芽は、寒冷地仕様で乾燥させてある。糖分が濃くて、凝縮した時に旨味が強く出るはずだよ」
「なるほど。それがアイスボックに向いている理由ですわね。凍結で水分を除いた後に、その旨味がさらに際立つ」
「レオノーラ、帝国の麦芽を使ったビール、飲んだことある?」
「ありませんわ。それが楽しみですわよ」
フリーダが、少し驚いた顔をした。
「楽しみ? 捕まって、地下室に一晩いて、今から三日間の作業があるのに?」
「ええ、楽しみですわ。知らない素材と出会えることは、いつでも楽しいですわよ」
フリーダが、また「変な人だ」という顔をした。しかし今度は、悪い意味ではなかった。
作業が本格的に始まった頃、醸造室の扉が開いた。
入ってきたのは、四十代ほどの男性醸造師だった。保守派の制服を着ている。顔つきが険しく、レオノーラを見た瞬間に表情が固まった。
「何の騒ぎだ。地下室の囚人が脱走したと聞いたが」
イリーナが前へ出た。
「この方は、わたくしが招いた客ですわ。院長の許可を得て、三日間この醸造室を使います」
「院長が、外国人に醸造室を使わせるなど信じられない」
「信じられないなら、院長に直接確認してくださいまし」
男性醸造師がフリーダを見た。
「フリーダ、貴女も革新派の肩を持つつもりか」
「革新派とか保守派とか関係ない。院長が許可した作業を手伝っているだけだよ」
男性醸造師は、もう一度レオノーラを見た。
「外国人が帝国の醸造室で何をするつもりだ」
「一杯、造りますわよ。帝国の技術と、わたくしの技術を合わせた一杯ですわ。…ご覧になりますか?」
「ふん。見る必要はない」
男性醸造師が踵を返した。しかし扉の前で足を止め、振り返らずに言った。
「院長に報告する。三日間、監視させてもらう」
扉が閉まった。
フリーダが小声で言った。
「あいつ、院長に報告しに行ったよ。三日間、監視される」
「それで構いませんわよ」
「なんで平気なの? 監視されたら作業がやりにくくなるよ」
「監視されているということは、見てもらえるということですわ。わたくしの仕事を、全部見せて差し上げますわよ」
「見せたら、邪魔してくるんじゃない?」
「邪魔してこなければ、良いのですわ。…そして、一杯が完成した時に、その醸造師の目がどう変わるか…それが楽しみですわよ」
フリーダが、レオノーラを見た。
「あなた、本当に変わってるね」
「よく言われますわ」
「褒めてるんだよ」
「知っていますわよ。おーほっほっほ!」
イリーナが、二人のやり取りを眺めながら、静かに言った。
「…フリーダ、お嬢様と仲良くなるのが早すぎますわよ」
「だって、昨夜一晩話してたんだもん」
「昨夜一晩、何を話していましたの」
「色々」
「だから…色々とは何ですの」
「帝国のこと、ビールのこと、あとイリーナのこと」
「わたくしのことを!?」
「良いことだけ話したよ」
「ラァ…信用できませんわ」
レオノーラが、その会話を背中で聞きながら、材料の確認を始めた。
三日間。帝国の地下水脈の冷気と、最高の設備と、イリーナとフリーダという二人の醸造師がいる。
足りないものは、何もなかった。
「さあ、始めますわよ」
レオノーラの声が、醸造室に響いた。
帝国の冷気が、三人を包んでいた。




