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第2話 氷の国境(後編)


 帝国醸造院の三階。


 廊下を歩きながら、イリーナは自分の足音を数えていた。子供の頃から何千回と歩いた廊下だ。石畳の継ぎ目の位置も、壁の額の並び方も、何一つ変わっていない。しかし足音の響き方が、記憶よりも少し重く聞こえた。


 扉の前で、帝国兵が足を止めた。


「こちらです」


 ノックをする。中から、低い声が返ってきた。


「入りなさい」


 扉が開いた。


 白い壁に、帝国の醸造の歴史を記した額が並んでいる。正面の窓から、雪に覆われた帝国の街が広がっている。そして窓を背にして、一人の女性が立っていた。


 白髪交じりの髪を、後ろで厳格に束ねている。背筋は竹のように真っ直ぐで、視線は鋭く、しかしその鋭さの奥に、何か別のものが潜んでいる気がした。


「…お帰り、イリーナ」


 エルスベート・フロストヴァルト。帝国醸造院院長。


 イリーナの母だった。


「…お母様」


 二人は向かい合った。しばらく、どちらも何も言わなかった。窓の外から、かすかに風の音が聞こえてくる。それだけが、この部屋の中で動いているものだった。


「外の女に連れられて、帰ってくるとは思わなかったわ」


「…お母様、レオノーラ様を解放してください。あの方は、約束を果たしに来ただけです」


「約束?」


「アイスボックを、帝国の皇帝陛下へお届けすると。一年前の約束を守るために参りましたわ」


 エルスベートは、しばらく沈黙した。窓の外へ視線を向け、帝国の街を眺めた。


「…一年遅れの約束を、今更守りに来た?」


「ええ。遅くなったことは、あの方も認めていますわ」


「そういう問題ではない」


 エルスベートが、窓から離れた。その歩き方が、イリーナの記憶にある母の歩き方と、全く同じだった。一歩ずつ、迷いなく、正確に。


「イリーナ、一つだけ聞かせなさい」


「…なんですか」


「貴女は、帝国を捨てたのですか」




 イリーナは、その問いを正面から受け止めた。


「捨てていませんわ」


「では、なぜあの女のもとへ行った」


「…学ぶものがあったからですわ」


「帝国に、学ぶべきものが全てあった。なぜ外へ出る必要があった」


 イリーナは答えようとして、止まった。


 この問いには、答え方が二つある。一つは、技術の話として答える。もう一つは、本音を話す。


 どちらにするか、イリーナは一瞬だけ迷った。


「お母様、一つ聞いてもよろしいですか」


「なんですか」


「お母様は、帝国の氷晶ラガーが完成していると思っていますか」


 エルスベートの目が、細くなった。


「完成している。帝国が誇る最高の一杯だ」


「わたくしは、そう思いませんでしたわ」


 部屋の温度が、一段下がったような気がした。


「…どういう意味ですか」


「完璧な静止は、完璧な死と同じ。それを、外で学びましたわ。帝国の氷は美しい。でも、それだけでは届かない喉がある」


「…その考え方が、革新派に利用されている。分かっていますか」


「分かっています。でも」


「でも?」


「お母様、わたくしは帝国の技術を捨てたのではありませんわ。帝国の技術を、さらに高みへ連れていこうとしていますわ」


 長い沈黙が流れた。


 エルスベートは、イリーナを見た。その目が、何かを測っているようだった。


「…その言葉が本当かどうか、見せてもらいましょう」


「どうやってですか」


「貴女が外で学んだとやらのものを、この目で確かめる機会を作りましょう。…ただし、今夜ではない。貴女には、まず帝国の空気を思い出してもらう必要がありますわ」


「…お母様は、わたくしに何かを期待していますの?」


 エルスベートは答えなかった。ただ、窓の外へ視線を戻した。


「今夜は休みなさい。部屋は用意させています」


「レオノーラ様の解放は…」


「あの女の処遇は、明日考えます。今夜は、そこにいてもらいますわ」


 イリーナは、それ以上言えなかった。




 その夜、地下室。


 レオノーラは椅子に座ったまま、天井を眺めていた。


 時間の感覚が、少し曖昧になっている。地下室には窓がなく、灯りの明るさも変わらないから、夜になったかどうかも分からない。しかし体の感覚では、かなりの時間が経っていた。


 腹も減った。しかし、それよりもこの冷気の研究の方が、気になっていた。


「地下水脈の冷気と、人工的な冷却魔法の違いは、温度の均一性にありますわね」


 独り言のように呟きながら、壁の異なる場所に触れて、温度の差を確かめていた。


「北の壁が、一番冷たい。地下水脈が北から流れているのかしら。…とすれば、樽を北の壁沿いに置けば」


 扉の向こうで、足音がした。


 レオノーラは椅子に戻り、扇子を開いた。


 鉄格子の覗き窓が、静かにスライドした。暗い廊下に、二つの目が見えた。若い目だ。警戒しているが、好奇心の方が勝っている。


「…起きてる?」


 誰かが小声で話しかけてきた。


「起きていますわよ」


「良かった。…ちょっと待ってて」


 しばらく物音がして、扉の鍵が回る音がした。扉が、静かに開いた。


 入ってきたのは、赤みがかった髪の若い女性だった。革のエプロンをつけ、手に二つのジョッキを持っている。


「レオノーラ・フォン・グランツェル?」


「そうですわよ。貴女は?」


「フリーダ。イリーナの幼馴染」


 レオノーラは、その名前に反応した。


「…革新派の」


「そう。…あなたに会いたかった。ずっと」


 フリーダがジョッキを差し出した。


「飲む? 保守派に見つかったら怒られるけど、今夜は当直が手薄だから」


 レオノーラは扇子を広げ、口元を隠した。


「おーほっほっほ! 喜んでいただきますわ」




 一口飲んだ瞬間、レオノーラの目が細くなった。


 苦みが先に来る。荒削りな苦みだ。しかしその奥に、確かに何かがある。麦芽の甘みが、ほんの少しだけ顔を出している。


「…これは、貴女が造りましたの?」


「そう。こっそり造ってる。材料も場所も制限されてるから、満足な環境じゃないけど」


「情熱がありますわ」


「ほんと?」


「ええ。…ただ」


「ただ?」


「粗いですわ。技術が、情熱に追いついていませんわね」


 フリーダが、むっとした顔をした。


「そんなに簡単に言わないでよ。保守派に材料も場所も制限されて、隠れながら造ってるんだから」


「それは分かりますわよ。でも、粗いのは条件のせいだけではありませんわ」


「じゃあ、何のせい?」


「方向性のせいですわよ」


 フリーダは黙った。


「保守派を否定することに、エネルギーを使いすぎていますわ。造りたいものを造るのではなく、壊したいものを壊そうとしている。…その怒りが、この味に出ていますわ」


「…」


「怒りのビールは、飲む者を疲れさせますわ。…本当に届けたいものは、別のところにあるのではないかしら」


 フリーダは、しばらく黙っていた。レオノーラの言葉を、咀嚼するように。


「…鋭いね。イリーナが惚れ込むわけだ」


「惚れ込む?」


「イリーナ、あなたのことをよく話してたよ。手紙で」


「手紙を送っていたのですか、イリーナが」


「こっそりね。保守派に見つかると面倒だから。あなたの話を読むたびに、会ってみたいと思ってた。本当にそんな人間がいるのかって」


「どんなことを書いていましたの?」


「温度で、人の心を動かす女がいるって。冷やすことだけが全てだと思っていた自分の世界を、一杯で覆された、って」


 レオノーラは、扇子を少し止めた。


「…イリーナが、そう書きましたの?」


「ああ。あとね」フリーダが少し笑った。「ポカが多いけど、なんか憎めない、とも書いてた」


「おーほっほっほ! 失礼なことを書きますわね、あの子は」




 二人は、しばらく話し続けた。


 フリーダが帝国の現状を話した。エルスベートが院長になってから、革新派がどれだけ追い詰められてきたか。醸造の実験が制限され、新しい素材の使用が禁じられ、外部との交流が断たれた。


「イリーナがいなくなってから、もっとひどくなった。院長が変わったんだよ」


「変わった?」


「より頑固になった。外のものを全部、敵として見るようになった。…革新派の若い醸造師が、一人アイデアを提案しただけで、三ヶ月醸造室への出入り禁止になった」


「…それは、娘が出ていったことへの怒りではなくて?」


 フリーダが、少し考えてから答えた。


「怒りかどうかは分からない。でも院長、イリーナが出ていった日から、変わったのは確かだよ」


「それは、書状の件ですわね」


「書状?」


「帝国の宮廷の一部へ、外から書状が届いたのではないですか。半年ほど前に」


 フリーダの目が、少し鋭くなった。


「…なんで知ってるの?」


「心当たりがありますわよ。内容は分かりましたの?」


「完全には。でも、届いてから院長が外国人への対応を一気に厳しくしたのは確かだよ。…あなたたちが来た時も、すぐに動けたのは、事前に情報があったからじゃないかって思ってた」


「ええ、そうだと思いますわ。…一年前からの仕掛けが、今日ここで発動した、ということですわね」


「一年前? それって…」


「説明すると長くなりますわ。…また今度、ゆっくり話しましょう」


 フリーダが、ジョッキを傾けながら言った。


「あなた、捕まってるのに、随分落ち着いてるね」


「考えることが山ほどありますもの。落ち着く暇はありますわよ」


「普通、逆じゃない?」


「おーほっほっほ! 逆かもしれませんわね」


 フリーダが、その笑い声を聞いて小さく吹き出した。


「…変な人だね、あなた」


「よく言われますわよ」


「本当に、イリーナの手紙に書いてあった通りだ」


 少し間があった。外の廊下が、静かだった。


「フリーダ、一つお願いがありますわ」


「なに?」


「イリーナに、会わせてくださいな」


「難しいよ。イリーナは三階に部屋をもらってる。ここは地下だし、当直の目もある」


「難しいからこそ、お願いしていますわよ」


 フリーダは少し考えてから、言った。


「…明日の夜、試してみる」


「ありがとうございますわ」


「あとね、一つ聞いていい?」


「なんですの?」


「あなた、本当に帝国の醸造文化を侵略しに来たの? 噂だとそう言われてるけど」


 レオノーラは扇子を閉じた。


「侵略しに来たのではありませんわよ。…一杯、届けに来ましたの」


「どんな一杯?」


「帝国の氷が、外の技術と出会う一杯ですわ。…帝国の誇りを壊すのではなく、帝国の誇りを、もっと遠くへ連れていく一杯ですわよ」


 フリーダは、その言葉を聞いて黙った。


 それから、空になった自分のジョッキを見つめた。


「…それが本当なら、見てみたいな」


「ええ、見せて差し上げますわよ。…ただし、まずここから出なければなりませんわね」


「それは、明日考えよう」


「頼りにしていますわよ、フリーダ」


 フリーダが立ち上がりかけて、ふと振り返った。


「そのビール、もう一杯要る?」


「いただきますわ。…粗いですけど、情熱の味がして、なかなか悪くありませんのよ」


 フリーダが、またふっと笑った。


「…変な人」


「当然ですわ」


 扉が閉まった。地下室に、静寂が戻ってきた。


 レオノーラは二杯目のジョッキを手に取り、その温度を確かめた。


 フリーダのビールは、まだ温かかった。地下室の冷気の中でも、その情熱だけは冷めていなかった。


「…面白い素材ですわね」


 独り言のように呟いた。


 フリーダのことを言っているのか、ビールのことを言っているのか…地下室の冷気だけが、それを聞いていた。

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