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第2話 氷の国境(前編)


 国境検問所は、帝国の入り口にふさわしい威圧感を持っていた。


 分厚い石造りの門楼が、灰色の空を背景にそびえ立ち、その両脇に帝国の紋章、氷の結晶を模した六角形の意匠が刻まれた柱が立っている。門の前には、完全武装の帝国兵が四人、微動だにせず立っていた。




 検問官が近づいてきて、窓越しに書類の提出を求めた。カイルが用意していた通行証を渡す。検問官が確認を始めレオノーラの名前のところで、手が止まった。


「少々お待ちください」


 検問官が門楼の奥へ引っ込んだ。




「やはり…引っかかりましたわね」とイリーナが静かに言った。「名前でリストに載っているのだと思いますわ」


「リリア様の仕込みが、届いていましたのね」


「おそらく。…お嬢様、今からでも」


「引き返しませんわよ」


 レオノーラは扇子を広げ、窓の外の門楼を眺めていた。その目に、焦りはない。


 


 やがて、門楼から検問官が戻ってきた。しかしその背後には、完全武装の帝国兵が六人、整列していた。


「レオノーラ・フォン・グランツェル様ですね」


「そうですわよ」


「帝国醸造院へのご同行をお願いいたします」


「同行?」


「ご案内です」


 その言葉が「案内」ではなく「連行」であることは、馬車の中の全員が理解していた。




 レオノーラは馬車のドアに手をかけた。


 その瞬間、イリーナが前へ出ようとした。レオノーラが、静かに手で制した。


「…構いませんわよ。参りましょうか」


「お嬢様!」


「カイル」


 レオノーラが振り返った。カイルの目を、真っ直ぐに見た。


「外で、情報を集めてくださいな。帝国の街の中で、革新派がどこにいるか、保守派がどう動いているか。…わたくしが中にいる間に、貴方にしかできないことがありますわよ」


「…令嬢を一人で行かせるわけにはいかない」


「一人ではありませんわ。イリーナがいますわよ」


「しかし…」


「カイル」


 レオノーラの声が、少し低くなった。


「わたくしを信じてくださいな。…三日待ってくださいまし。三日で何も連絡がなければ、その時は貴方の判断に任せますわ」


 カイルは、しばらくレオノーラを見つめていた。それから、短く頷いた。


「…わかった。三日だ」


「ありがとうございます」


 クラリスが、不安そうな顔で言った。


「レオノーラ様…! 本当に大丈夫ですか…?」


「大丈夫ですわよ。…クラリス、あなたにも一つお願いがありますわ」


「なんですか?」


「街の酒場を、覗いてきてくださいな。帝国の人々が、何を飲んでいるか、それを見てきてほしいのですわ」


「え? 今の状況で、お酒の調査ですか?」


「おーほっほっほ! どんな状況でも、喉の渇きは変わりませんわよ。…それに、街の酒場の雰囲気を見れば、帝国の今が分かりますわ。革新派と保守派の対立が、市民の間でどう受け取られているか。それを肌で感じてきてくださいまし」


 クラリスが、その言葉を聞いて背筋を伸ばした。


「…承知しましたわ」


「行ってらっしゃいまし」


「は、はい!」




 レオノーラとイリーナが、帝国兵に連れられて別の馬車へと移った。


 国境から帝国醸造院まで、石畳の道を進んでいく。窓の外に、帝国の街並みが広がった。


 石造りの建物が整然と並んでいる。白い息を吐きながら歩く人々。至る所にある氷の紋章。そして、空気の色そのものが、王都とは違う。もっと澄んでいて、もっと冷たくて、そして静かだ。


「…美しい街ですわね」


 レオノーラが、窓の外を眺めながら言った。


「ええ」


 イリーナの声に、複雑な響きがあった。


「好きでしたの? この街が」


「…ええ。好きでしたわ。完璧に整った石畳、いつも同じ温度に保たれた醸造室、お母様が作る氷晶ラガーの香り。…全部、好きでしたわ」


「今は?」


「今も、好きですわ。…だからこそ」


イリーナは窓の外を見たまま、続けた。


「変わってほしいと、思っていますわ」


 馬車が、大きな石橋を渡った。橋の下を流れる川が、両岸から凍り始めていた。真冬ではないのに、もうこれだけ凍っている。帝国の冷気の、本物の深さがそこにあった。


「…イリーナ、この川の水を使って仕込んだら、どんなビールになりますかしら」


「…お嬢様、今それを考えていますの?」


「気になりますわ」


「連行されている最中ですわよ」


「だからこそ、気になりますわ。…不安を感じている暇がありませんもの」


 イリーナは、その言葉を聞いて少し笑った。


「…お嬢様らしいですわ」


「当然ですわよ。…ところで、この川の水は」


「雪解け水が主ですわ。ミネラルが豊富で、硬度が高いですわ。…ホップの苦みが際立つ水ですわよ」


「なるほど。それはさぞ、いいビールが造られるのでしょうね」





 帝国醸造院の正門が、目の前に現れた。


 巨大な石造りの建物。正面には帝国の紋章が刻まれ、その両脇に衛兵が立っている。建物の高さは、王都の王宮に匹敵する。しかしその威圧感の質が、王宮とは違った。王宮は「権威」を示している。醸造院は「信念」を示しているようだった。


「…圧倒的ですわね」


「帝国の誇りですわ。…わたくしが育った場所ですわよ」


 建物の中へ通された。


 廊下は石造りで、歩くたびに足音が響く。壁には帝国の醸造の歴史を記した額が並んでいる。そして、冷気が、壁から、床から、天井から、じわりと染み出してくる。王都の黄金の泡亭のイリーナが作る冷気とは、質が違う。人工的な冷却ではなく、建物そのものが何百年もかけて蓄えてきた冷気だ。


 レオノーラは、その冷気を指先で感じながら歩いた。


「…この冷気、イリーナの魔導回路とは全然違いますわね」


「当然ですわ。この建物は、帝国の地下水脈の上に建てられていますから。地中から常に冷気が湧いてきますのよ」


「地下水脈から…。ということは、地下はさらに冷えていますのね」


「ええ、そうですわ。地下の醸造室は…」


 イリーナが、そこで言葉を切った。


 先導する帝国兵が、地下への階段の前で足を止めていた。


「こちらへどうぞ」


「…地下ですの?」


「院長命令でして」


「客室ではないということですわね」


「申し訳ありません」


 レオノーラは、その言葉に怒りを見せなかった。ただ、静かに階段を下り始めた。


「お嬢様!」


 イリーナが声を上げた。しかしレオノーラは振り返らず、階段を下りていく。


「イリーナ様は、こちらへ」


 別の帝国兵が、イリーナを別の方向へ促した。


 二人の目が、一瞬だけ合った。


 レオノーラが、小さく頷いた。


 大丈夫ですわ。その目が、そう言っていた。




 地下室の扉が、重い音を立てて閉まった。


 石の壁。鉄格子の扉。最小限の灯り。角に、粗末な椅子が一脚。


 レオノーラは部屋を一周見渡してから、その椅子に腰を下ろした。


 荷物は取り上げられた。しかし扇子だけは、手元にある。


「…さて」


 扇子を開いた。


 焦りはない。怒りもない。ただ、状況を整理している。


 カイルとクラリスは外にいる。イリーナは別の場所へ連れていかれた。自分は地下室にいる。帝国醸造院の、おそらく最も深い部分に。


 しかし。


 レオノーラは、指先を石壁に当てた。


 冷たい。しかし、ただ冷たいだけではない。この冷気には深さがある。何百年もの時間が、ここに積み重なっている。


「…この冷気で仕込んだら、どんな一杯になるかしら」


 独り言のように呟いた。


 地下水脈の上に建てられた建物。その地下の冷気。帝国の氷晶ラガーが、この冷気の中で生まれてきた。


 イリーナの技術の原点が、この冷気の中にある。


「…なるほど。イリーナがあれだけ精密な冷却ができるのは、ここで育ったからですわね」


 レオノーラは扇子を閉じ、椅子の背に深く寄りかかった。


 天井を見上げた。石の天井に、長年の水気が作った模様が広がっている。


 面白い場所に来た、と思った。


 捕まった、という感覚よりも初めて帝国の醸造の核心に触れた、という感覚の方が強かった。


 この冷気と、地下水と、何百年もの時間。


 これで作る一杯が——浮かんでくる気がした。


「…急ぐことはありませんわ。この場所で、考えておきましょう」


 レオノーラは再び扇子を開き、地下室の冷気の中で、静かに次の一手を考え始めた。


 地下室は再び静寂に包まれた。


 その静寂が…レオノーラには、決して不快ではなかった。

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