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第1話 ポカの代償(後編)

 北へ向かうにつれ、景色が変わっていった。


 王都を出た初日は、まだ見慣れた田園風景が続いていた。二日目には木々の葉が落ち、岩肌が増え始めた。三日目には草が消え、空が低く重くなってきた。そして四日目の朝、馬車の窓を開けた瞬間、空気が刃のように冷え込んでいた。


 レオノーラは、その変化を一つひとつ観察していた。


 しかし今、目を向けているのは窓の外ではなく、向かいの席に座るイリーナだった。


 イリーナは窓の外を眺めている。その横顔が、いつもと少し違う。王都にいる時の鋭さが、わずかに薄れて、何か柔らかいものが滲み出ている。


「…イリーナ、故郷の顔をしていますわよ」


「故郷の顔…ですか」


「いつもより、柔らかいですわ。鋭さが少し薄れていますわよ」


 イリーナは自分の顔を確認するように、一度目を閉じてから開いた。


「…気づいていませんでしたわ」


「帰りたかったのかもしれませんわ、本当は」


「…そうかもしれませんわ。どんな形でも」


 窓の外を流れる景色が、また少し変わった。岩肌に薄っすらと雪が積もり始めている。帝国はまだ遠いが、その気配が、少しずつ押し寄せてきていた。




「お母様は、完璧を求める人ですわ」


 しばらく沈黙が続いた後、イリーナが静かに語り始めた。


「誤差を許さない、揺らぎを許さない。…醸造院の地下で、何度も仕込みを失敗するたびに、『完璧でなければ意味がない』と言われましたわ」


「厳しいお母様ですわね」


「でも、間違ってはいないのですわ。帝国の氷晶ラガーは、その完璧さから生まれていますから。…ただ」


「ただ?」


「レオノーラ様の一杯に出会った時、気づいてしまったのですわ」


「何に?」


「お嬢様の一杯は、完璧ではありませんでしたわ」


 レオノーラが、眉を上げた。


「…それは、どういう意味ですの」


「悪い意味ではありませんわ。…帝国の基準で言えば、温度管理に揺らぎがあった。発酵のタイミングが、教科書通りではなかった。でも」


「でも?」


「わたくしの喉に、届いたのですわ。…完璧ではないのに、届いた。それが不思議で、外へ出たくなりましたわ」


 レオノーラは、その言葉を聞いて扇子を閉じた。


「…お母様に、そう言ったことはありますの?」


「…言えませんでしたわ」


「なぜ?」


「お母様の完璧を、否定するような気がしたから。…お母様は生涯をかけて、帝国の氷を磨いてきた。その誇りを傷つけることが私にはできませんでしたわ」


 馬車が、小さな石橋を渡った。橋の下を流れる川が、すでに薄く凍り始めていた。


「…イリーナ」


「なんですの」


「今回、お母様に言えますの?」


 イリーナは少し間を置いてから、答えた。


「…言えるように、なりたいと思いますわ」




 夕刻、一行は街道沿いの宿場町で馬車を止めた。


 夕食を終えた後、カイルが一人で外へ出て、戻ってきた。


「話がある」


「何か分かりましたの?」


「ああ。…宿の主人と、旅商人から話を聞いてきた」


 カイルが椅子に座り、全員を見渡した。


「帝国との国境付近で、噂が広まっているらしい」


「どんな噂ですの?」


「グランツェル王国の令嬢が、帝国の至宝を買収した。帝国の冷却技術を盗み、帝国の醸造文化を侵略しようとしている。という内容だ」


 イリーナの目が、細くなった。


「…リリア様の書状の影響ですわ」


「書状の内容が分かったのか」


「完全には分かっていませんが、この噂の広がり方は、意図的に流されたものですわ。帝国はそもそも、外部の噂が自然に広まるような開かれた国ではありませんもの。誰かが意図的に流さなければ、ここまで広がらないはずですわ」


「リリアが、帝国内の誰かを通じて流した、ということか」


「おそらくは」


 レオノーラは、その会話を聞きながら扇子を開いていた。


「…丁寧に仕込んでいましたのね、リリア様は」


「どうしますか。引き返すこともできますわよ」


「引き返しませんわ」


「お嬢様!」


「約束を果たしに行くのですもの。噂があろうと、罠があろうと、関係ありませんわ。…それに」


レオノーラは扇子を閉じた。


「リリア様が仕込んでいたということは、わたくしが帝国へ行くことを、最初から予測していたということですわよ。…一年前から」


「一年前から?」


「アイスボックの約束を、わたくしが必ず果たしに行くと分かっていた。…あるいは、わたくしが忘れていることも計算に入れて、帝国側の準備を整えていたのかもしれませんわ」


 カイルが、静かに言った。


「…つまり、今回の件は最初からリリアの手の中だということか」


「そうかもしれませんわ。…ただ」


「ただ?」


「リリア様が予測できていないことが、一つありますわよ」


「何だ」


「わたくしが、一杯を持っていることですわ」




 クラリスが、その夜、珍しく不安そうな顔をしていた。


 宿の窓辺に座り、外の暗い景色を眺めながら、膝の上で手を握り合わせている。


「…クラリス、どうしましたの?」


 レオノーラが声をかけた。


「あの…レオノーラ様。わたくし、帝国へ行って役に立てるでしょうか」


「どうしてそんなことを?」


「イリーナさんの故郷で、イリーナさんのお母様が相手で、リリア様の罠まであって…。わたくしには、何もできないのではないかと思いまして」


 レオノーラは少し考えてから、クラリスの隣に座った。


「クラリスは泡亭で働いて、気づいたことを覚えていますの?」


「…神の御意志を、手で渡すのはわたくし、ということですわ」


「ええ。…帝国でも、それは変わりませんわよ」


「でも、わたくしは魔法も使えないし、醸造の知識も浅いし、戦いもできませんわ」


「一杯を、丁寧に渡せますでしょう?」


「…はい」


「それで十分ですわ。…帝国でも、喉が渇いている人間はいますわよ。どんな場所でも、本物の一杯を必要としている喉はある。…貴女にしかできないことが、必ずありますわよ」


 クラリスが、少し顔を上げた。


「神の御意志は、帝国にも宿っておりますわね…!」


「おーほっほっほ! そうですわよ」


 




 翌日の夕刻、馬車が高い丘を越えた。


 眼下に、帝国が広がった。


 白銀の平原。遠くにそびえる石造りの城壁。そして、窓を閉めていても伝わってくる、鋭い冷気。


 イリーナが窓から身を乗り出した。


 懐かしさと、緊張と、そして覚悟が混ざり合っている。幼い頃から見てきた景色が、今は全く違う意味を持って目に映っている。


「…帝国ですわ」


 誰にともなく、呟いた。


「ええ」


 レオノーラが答えた。


「お嬢様、最後にもう一度だけ聞かせてくださいまし」


「なんですの」


「本当に、引き返さなくて良いのですか。帝国にはお母様がいて、保守派が待ち構えているかもしれなくて、それでも」


 レオノーラは、窓から帝国を眺めた。


 白銀の大地が、夕暮れの光を受けてわずかに赤く染まっている。


「引き返しませんわ」


「理由は?」


「あの大地の冷気で作るアイスボックが、どんな味になるか、知りたいですわもの」


 イリーナが、呆れたような、しかしどこか安心したような顔をした。


「…お嬢様らしいですわ」


「当然ですわよ。…さあ、参りましょうか」


 馬車が丘を下り始めた。帝国の国境検問所が、夕暮れの中に姿を現してくる。


 カイルが静かに言った。


「…気をつけろ。ここからは、勝手が違う」


「ええ」


 レオノーラは扇子を広げ、口元を隠した。


 その目だけが、いつもより少しだけ、真剣な光を帯びていた。



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