第1話 ポカの代償(前編)
秋も深まった黄金の泡亭の朝は、穏やかだった。
常連客が帰り、仕込みが一段落した静かな時間。レオノーラはカウンターの中で、いつものようにジョッキを磨いていた。イリーナは向かいのテーブルで新しい冷却回路の設計図を広げ、クラリスが厨房で翌日の仕込み準備をしている。
窓の外では、王都の秋風が落ち葉を転がしていた。
誰も何も言わない、穏やかな午後だ。
その静寂を、イリーナが破った。
「…そういえば、お嬢様」
「なんですの」
「帝国へのアイスボックの件、どうなりましたかしら」
レオノーラの手が、止まった。
「アイス…ボック?」
「ええ。わたくしをグランツェル王国へ連れてくる時の条件に含まれていましたわ。帝国の皇帝陛下に、アイスボックを直接お届けすると、お嬢様が約束なさいましたのよ」
「…」
「覚えていらっしゃいますか?」
レオノーラは、磨いていたジョッキをゆっくりとカウンターに置いた。扇子を取り出し、開いた。その動作が、いつもより少しだけゆっくりだった。
「…覚えていますわよ、もちろん」
「では、お届けになりましたか?」
「…」
「お嬢様?」
「…忘れていましたわ」
イリーナが設計図から顔を上げた。厨房からクラリスが顔を出した。壁際でカイルが腕を組んだまま、天井を見上げた。
「忘れて…いた」
イリーナが、一語ずつ確かめるように繰り返した。
「ええ」
「…どのくらい、忘れていましたの?」
「い…一年ほどですわ」
「一年!!」
イリーナが立ち上がった。設計図が床に落ちたが、拾う余裕もない。
「おおお…お嬢様! 一年ですよ!? 帝国の皇帝陛下との約束を、一年も放置していたんですか!?」
「リリア様の件やらで色々ありましたもので」
「言い訳になっていませんわ!!」
クラリスが、おずおずと口を挟んだ。
「あの…。帝国の皇帝陛下は、怒っていらっしゃいますかしら…」
「怒っているどころの話ではないかもしれませんわ」
イリーナが額に手を当てた。
「お嬢様、帝国がどういう状況か、ご存知ですか」
「…詳しくは、存じませんわ」
「ならば、教えて差し上げますわ」
イリーナが椅子に座り直した。その顔が、いつもの呆れ顔から、少し別の色に変わっていた。
「帝国では今、醸造の方針をめぐって対立が起きていますわ」
「ビール革新派と保守派の件ですわね。以前、少し聞きましたわ」
「ええ。わたくしが帝国を離れてから、その対立が激しくなっていますの。…保守派は、わたくしのことを『帝国の技術を外敵に売り渡した裏切り者』と呼んでいますわ」
「外敵というわけですわね」
レオノーラは、その言葉を聞いて扇子を閉じた。
「それは、つまり、わたくしのことですわね」
「ええ。…そして、帝国との約束を一年間放置していたということは帝国側から見れば、グランツェル王国が約束を無視したということになりますわ」
「それは、保守派に利用されますわね」
「利用されているどころか、もう利用されているかもしれませんわ」
「…帝国の内部事情を、もう少し話してくれ。現在、保守派と革新派の力関係はどうなっている」
いつの間にかジョッキを片手にカイルが、壁際から静かに言った。
「保守派が優勢ですわ。特に、帝国醸造院を掌握してからは」
「帝国醸造院の院長は誰だ」
イリーナが、少し間を置いた。
「…わたくしの母ですわ。エルスベート・フロストヴァルト」
今度は全員が黙った。
「…イリーナのお母様が」とクラリスが呟いた。
「ええ。わたくしが帝国を離れた後、母が院長になりましたわ。そして保守派の中心として革新派の弾圧を進めていますわ」
「貴女のお母様が、貴女を裏切り者と呼んでいるということか」
カイルの問いに、イリーナは答えなかった。しかしその沈黙が、答えだった。
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レオノーラは、しばらくカウンターに両手をついて、考えていた。
「…行きますわよ、帝国へ」
「今更ですか!?」
「今更でも、行かないよりましですわよ。…約束を果たしに行きますわ」
「捕まるかもしれませんわよ」
「捕まったとしても、話はできますわ」
「楽観的すぎますわ!」
「おーほっほっほ! イリーナ、わたくしはこれまで、どんな状況でも一杯で乗り越えてきましたわよ。帝国も同じですわ」
イリーナは深いため息をついた。
「…お嬢様は、帝国がどれほど頑固な国か、ご存知ですか」
「ええ、知っていますわよ」
「本当に?」
「貴女のお母様を育てた国でしょう。…貴女があれだけ頑固なのですから、帝国全体の頑固さは、相当なものですわね」
イリーナが、むっとした顔をした。
「…わたくしは、頑固ではありませんわ」
「設計図の一本線の誤差を、三時間かけて直していたのは誰でしたっけ」
「あれは、誤差ではなく精度の問題ですわ」
「おーほっほっほ!」
レオノーラの笑い声が、店内に響いた。
その夜、レオノーラは一人でカウンターに残り、帝国への準備を考えていた。
アイスボックは作れる。それは問題ない。しかし届ける相手が、どんな状況にいるか…それが問題だ。
一年間、約束を放置していた。その間に、帝国の状況は動いていた。保守派が力を持ち、革新派が押されている。そしてイリーナの母親が、その中心にいる。
「…そういえば、リリア様の書状が、帝国に届いていましたわね」
独り言のように呟いた。
一年前、リリアが帝国へ書状を送っていたことは分かっていた。しかしその内容が、帝国の内部対立とどう絡んでいるかまだ見えていない。
「…面白くなってきましたわね」
レオノーラは、手元のジョッキを磨きながら、窓の外の夜空を眺めた。
星が、冷たく光っている。帝国の夜は、もっと冷たいのだろう。
しかし、そんな冷たい場所にこそ美味いビールがある。
翌朝。
出発の準備をしながら、イリーナが複雑な顔をしていた。
革のトランクに、冷却回路の部材を詰め込みながら、手が何度か止まった。
「…イリーナ、故郷へ帰ることが嫌ですの?」
レオノーラが、静かに聞いた。
「嫌ではありませんわ。…ただ」
「ただ?」
「こんな形でまた帰るとは思っていませんでしたわ。…お嬢様のポカのせいで」
「ポカとはひどいですわよ」
「事実ですわ」
レオノーラは少し笑ってから、真面目な顔になった。
「…帰りたかったのではありませんの、本当は」
イリーナは手を止めた。
「…どうして、そう思いますの?」
「昨夜、設計図を眺めていましたわよ。帝国の醸造設備の設計図を。…あれは、新しく設計したものではなく、昔の記憶を描き直したものでしょう」
イリーナは、しばらく黙っていた。
「…帰りたかったのかもしれませんわ。どんな形でも」
「そうですわね」
「でも、帰り方が…こんなに気まずい形になるとは」
「気まずい帰り方でも、帰れるのは良いことですわよ」
イリーナが、レオノーラを見た。
「…お嬢様には、帰れる場所がありますの?」
レオノーラは少し考えてから、答えた。
「…黄金の泡亭ですわよ。どこへ行っても、あそこへ帰れますわ」
イリーナは、その言葉を聞いて静かに頷いた。
馬車の準備が整った。
レオノーラ、イリーナ、カイル、クラリスの四人が乗り込んだ。
馬車が動き出し、黄金の泡亭が遠ざかっていく。
北へ。さらに北へ。
氷の国へ向かって、馬車は走り始めた。




