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番外編 クラリスの一日

その日の朝、レオノーラが珍しいことを言った。


「クラリス、今日は一日、自由にしていいですわよ」


「え?」


「自由ですわ。どこへ行っても、何をしても構いませんわよ」


 クラリスは、しばらくその言葉の意味を飲み込めなかった。


 黄金の泡亭で働き始めて一年程。その間、「自由にしていい」と言われたことは、一度もなかった。いつも仕込みがあり、客がいて、ジョッキを磨いて、レオノーラの隣で「神の御意志は喉越しにありますわ」と言い続けてきた。


「本当に、良いのですか?」


「ええ。…たまには、ご自身の喉を潤しに行ってきなさいな」


「わたくしの喉を」


「貴女は、いつもわたくしのために動いてくれていますわ。今日くらいは、貴女自身のために使いなさいな」


 クラリスは、しばらく扉の前に立ったまま動けなかった。


「…どこへ行けば良いのかしら」


「それを自分で決めるのが、自由というものですわよ。おーほっほっほ!」




 王都の石畳の上に出ると、秋の朝の光が眩しかった。


 クラリスは、とりあえず歩き始めた。方向は決めていない。足の向くままに、王都の路地を歩いていく。


 黄金の泡亭がある下町を抜け、市場の方へ向かった。朝の市場は賑やかだ。野菜を売る声、魚を売る声、布を売る声が混ざり合っている。その中に、どこからか麦芽の香りが混じってきた。


 鼻が反応した。


 香りを辿っていくと、市場の端に小さな屋台があった。年配の女性が一人で切り盛りしている、こぢんまりとした屋台だ。木の樽が一つと、ジョッキが数個。それだけの、素朴な一杯売りだ。


「いらっしゃい。一杯どうぞ」


 女性が、クラリスに声をかけた。


「あの、これは何ですの?」


「うちの亭主が造った麦酒だよ。もう亡くなったけど、レシピだけ残してくれたから、わたしが毎日造ってる」


 クラリスは、そのジョッキを受け取った。


 一口飲んだ。


 素朴な味だった。レオノーラが造るものとは比べるべくもない。技術的には粗い部分もある。しかし、何か温かいものが含まれていた。


「…美味しいですわ」


「そう言ってもらえると、嬉しいね」


「ご主人のレシピを、ずっと守っていらっしゃるのですか」


「ええ。亭主がいなくなってから、これだけが繋がりみたいなものでさ。毎日造って、毎日売って。それだけだけど」


 クラリスは、もう一口飲んだ。


 ふと、黄金の泡亭で働いている自分が頭の中で蘇った。


「神の御意志を、手で渡すのはわたくし」


 この女性も、毎日一杯を手で渡し続けている。亡くなった夫のレシピを守りながら、誰かの喉へ届け続けている。


「神の御意志は、ここにも宿っておりますわね」


 思わず、声に出して言った。


「え?」と女性が首を傾けた。


「あ、いいえ、独り言ですわ。…ありがとうございました」


 代金を払い、クラリスはまた歩き始めた。




 市場を抜けると、職人街に出た。


 鍛冶屋、木工屋、革職人。様々な工房が並ぶ通りだ。その中に、一軒の小さな醸造所があった。看板もない、目立たない建物だ。しかし扉の隙間から、仕込みの香りが漏れていた。


 クラリスは、その扉の前で足を止めた。


 中から、話し声が聞こえてくる。


「だからさ、もう少し仕込みの温度を下げれば良いんじゃないか」


「それをやると、発酵が遅くなるだろう」


「でも香りが変わる。試してみる価値はある」


「試してみて失敗したら、どう責任を取るんだ」


「失敗してから考えればいい」


 クラリスは、その会話を扉の外で聞いていた。


 醸造の話だ。レオノーラとイリーナが、いつも似たような会話をしている。しかしこちらの声は、もっと荒削りで、もっと直接的だ。


 扉が開いた。


 若い男性が二人、出てきた。クラリスを見て、一瞬驚いた顔をした。


「あんた、聞いてたの?」


「すみません、香りに引き寄せられてしまって」


「醸造に興味があるの?」


「はい。わたくし、黄金の泡亭で働いていますわ」


 二人の顔が、同時に変わった。


「黄金の泡亭!? レオノーラ総監の?」


「ええ」


「すごい。…じゃあ、見ていく?」




 中に通してもらった。


 小さな醸造所だった。設備は簡素で、レオノーラの醸造所とは比べものにならない。しかし、二人の男性が丁寧に管理している様子が伝わってくる。


「俺たちは兄弟で、半年前から始めたんだよ」と兄の方が言った。


「レオノーラ総監が王都に麦酒の文化を根付かせてから、自分たちでも造ってみたくなって」


「そうでしたの」


「でも、なかなかうまくいかなくて。仕込みの温度とか、発酵のタイミングとか、難しくて」


「さっき、温度を下げる話をしていましたわね」


「聞こえてたんだ」弟の方が言った。「うちのは、もう少し香りが前に出てほしいんだよ。でも、どうすれば良いか分からなくて」


 クラリスは、少し考えた。


 自分は醸造師ではない。レオノーラほどの知識もない。それでもレオノーラとイリーナの会話を聞いてきた。だから、少しだけなら分かることがある。


「一つだけ聞いていいですか。ホップは、いつ入れていますの?」


「煮沸の最初から最後まで、ずっと」


「それだと、苦みが前に出すぎますわよ。香りが苦みに隠れてしまう。…後半だけにしてみると、香りが残りやすくなるかもしれませんわ」


 二人が、顔を見合わせた。


「そんな簡単なことで?」


「試してみないと分かりませんが、黄金の泡亭では、そういう調整をよくしていますわ」


「試してみよう」と兄が言った。「ありがとう」


「お役に立てたなら、神の御意志が…」


 クラリスは途中で止まった。


「神の御意志が?」と弟が首を傾けた。


「…なんでもありません。頑張ってくださいまし」




 職人街を出て、川沿いの道を歩いた。


 秋の川面が、陽光を受けてきらきらと光っている。川沿いのベンチに、老人が一人座っていた。手にジョッキを持ち、川を眺めながら、ゆっくりと飲んでいる。


 クラリスは、その隣のベンチに腰を下ろした。


 しばらく、二人とも黙って川を眺めていた。


「良い天気だな」と老人が言った。


「ええ、本当に」


「今日は仕事がないのか」


「お休みをいただきましたわ」


「どこで働いているんだ」


「黄金の泡亭ですわ」


 老人が、少し目を丸くした。


「あの有名な店か。レオノーラ総監の」


「はい」


「あそこの麦酒、飲んだことがあるよ。半年前に、初めて飲んだ」


「どうでしたか?」


「驚いた」と老人は言った。「こんなに美味い麦酒があるとは思わなかった。それまでは、酒なんてどれも同じだと思っていたから」


「同じ、ですか」


「ああ。飲めれば良い、酔えれば良い、くらいにしか思っていなかった。でもあの一杯を飲んで、初めて思ったよ。…酒って、こんなに違うのかって」


 クラリスは、その言葉を聞きながら、手を膝の上で重ねた。


「その一杯を、誰かが注いでくれましたの?」


「若い娘さんだった。ニコニコしながら、丁寧に渡してくれた」


 クラリスは、少し考えた。半年前の黄金の泡亭。若い娘。


「…もしかして、わたくしかもしれませんわ」


「そうか?」


「はっきりとは分かりませんが、その頃からわたくしが担当していましたわ」


「そうか」と老人は言った。「じゃあ、ありがとう。あの一杯のおかげで、酒が好きになったよ」


 クラリスは、少し胸が温かくなった。


「…こちらこそ、ありがとうございます」


「なんで礼を言うんだ」


「教えていただきましたから」


「何を?」


「一杯が、誰かの喉へ届いた時のことを、改めて教えていただきましたわ」


 老人が、少し不思議そうな顔をした。しかしそれ以上は聞かなかった。ただ、川を眺めながらジョッキを傾けた。


 クラリスも、川を眺めた。


 水が流れていく。どこまでも、止まらずに。




 夕刻、黄金の泡亭へ戻った。


 レオノーラが、カウンターでジョッキを磨いていた。いつも通りの光景だ。


「おかえりなさいまし、クラリス。どうでしたの?」


「色々ありましたわ」


「良いことがありましたの?」


「はい。三つ」


「三つ?」


 クラリスは、エプロンをつけながら答えた。


「一つ目は、亡くなったご主人のレシピを守り続けている女性に会いましたわ。毎日、誰かの喉へ届けている方でしたわ」


「それは素敵ですわね」


「二つ目は、半年前から醸造を始めた兄弟に会いましたわ。少しだけ、お役に立てましたわ」


「クラリスが、醸造のアドバイスを?」


「少しだけですわ。レオノーラ様とイリーナさんの話を聞いてきたおかげですわよ」


「おーほっほっほ! それは良かったですわ」


「三つ目は、半年前に黄金の泡亭でわたくしが注いだ一杯で、酒が好きになったという老人に会いましたわ」


 レオノーラが、ジョッキを磨く手を止めた。


「…それは」


「神の御意志は、喉越しにありますわ。でも」


 クラリスは、カウンターの中へ入り、ジョッキを手に取った。


「その御意志を届けるのは、この手ですわ。…今日、改めて分かりました」


 レオノーラは、クラリスを見た。


「クラリス」


「はい」


「今日、一杯飲みましたの?」


「市場の屋台で一杯いただきましたわ。素朴な味でしたが、温かい一杯でしたわよ」


「それは良かったですわ。…自分のために飲む一杯も、大切ですわよ」


「ええ。…分かりましたわ、レオノーラ様」


 二人は並んで、ジョッキを磨き始めた。


 夕暮れの光が、磨き上げられたジョッキを赤く染めていた。


 クラリスは、その光を眺めながら思った。


 今日という一日が、どこかの誰かの喉へ届いた一杯と同じように、自分の中に残っている。


「神の御意志は、今日という日にも宿っておりましたわ」


 レオノーラが、扇子を広げた。


「おーほっほっほ! そうかもしれませんわね」


 笑い声が、夕暮れの黄金の泡亭に響いた。

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