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番外編 イリーナの帰郷(後編)

 夜になった。


 イリーナは一人で、帝国の街へ出た。用件は済んでいる。明日の朝、馬車で王都へ戻れば良い。しかし今夜は、もう少しだけここにいたかった。


 理由は、うまく言葉にできなかった。


 ただ、帝国の夜の空気を、もう少し吸っていたかった。それだけだ。


 石畳の路地を歩きながら、イリーナは街の様子を観察した。王都の夜とは違う。賑やかさがない。人々が少なく、声が小さく、足音が速い。皆、どこかへ急いでいるように見える。


 


 路地の角を曲がると、小さな明かりが見えた。酒場だ。


 扉を押し開けると、煙草の煙と、麦芽の香りが混ざり合った空気が流れてきた。




 帝国の酒場は、王都の黄金の泡亭とは全然違う。


 静かで、客が少なく、皆が黙って飲んでいる。カウンターには、年老いた店主が一人立っていた。壁には帝国の紋章が飾られ、棚には氷晶ラガーの樽が並んでいる。


 イリーナはカウンターに座った。


「一杯、いただけますか」


 店主が、イリーナを一瞥した。帝国語で答えた。


「珍しい顔だな。どこから来た」


「南から、少し」


「旅人か」


「まあ、そうですわ」


 店主が、黙って氷晶ラガーを注いだ。


 イリーナはそのジョッキを受け取り、一口飲んだ。


 冷たい。鋭い。そして、完璧に整った苦み。


 帝国の味だ、とイリーナは思った。懐かしい味だった。しかし同時に、以前と少し違う感覚もあった。


 以前は、この完璧さが当然だと思っていた。しかし今は、その完璧さの向こうに、何かが足りない気がする。


 何が足りないのかは、分からない。ただ、足りない。それだけだ。




 隣に、老いた男性が座っていた。


 白髪で、ごつごつした手をしている。醸造師の手だ。長年、木樽を扱ってきた者特有の、乾いた手だ。


 老人が、ジョッキを傾けながら、独り言のように言った。


「最近、若い醸造師たちが騒がしい」


 イリーナは答えなかった。老人もまた返事を求めていないようだった。ただ、声に出したかっただけのように見えた。


「外の技術を取り入れろだの、帝国の醸造を変えろだの。…毎日、そんな話ばかり聞こえてくる」


「…革新派のことですか」


 老人が、初めてイリーナを見た。


「知っているのか」


「少しだけ」


「旅人が、なぜそんなことを知っている」


「耳に入ってきましたわ」


 老人は、しばらくイリーナを値踏みするように見てから、視線をジョッキへ戻した。


「わしは、変える必要はないと思っている。帝国の氷晶ラガーは完璧だ。何百年もかけて磨いてきた、本物の一杯だ」


「そうですわね」


「ただ」


 老人が、ジョッキを傾けた。


「完璧なものが、なぜ若者に届かないのかは、分からん」


 イリーナは、その言葉を聞いて、手の中のジョッキを見た。


「届かない、とはどういう意味ですか」


「若い連中が、この一杯を飲んでも、目を輝かせないんだよ。わしが若い頃は、氷晶ラガーを初めて飲んだ時、震えるほど美味かった。…今の若い連中には、それがない」


「なぜだと思いますの?」


「分からん」と老人は言った。「それが分かれば、苦労しない」


 イリーナは黙った。


 分かる気がした。しかし、言葉にするのが難しかった。


「…その答え、わたくしも探しているところですわ」


 老人が、少し驚いた顔をした。


「旅人が?」


「ええ。外から帝国を見て、また中に入って。…ずっと考えていますわ」


「どういう旅人だ、あんたは」


「少し変わった旅人ですわ」


 老人が、小さく笑った。帝国の人間が笑うのは珍しい、とイリーナは思った。


「変わった旅人か。答えを見つけたら…教えてくれ」


「もし見つかったら、喜んで」




 二杯目を頼んだ。


 老人は、しばらくして席を立って帰っていった。「また来る」とだけ言い残して。


 カウンターに、イリーナだけが残った。


 店主が、グラスを拭きながら言った。


「あの爺さん、毎晩来るんだよ。ここ数ヶ月、ずっとあんな調子で」


「どんな調子ですの?」


「愚痴を言いながら飲む。でも、革新派を憎んでいるわけでも、保守派を支持しているわけでもない。ただ、何かを惜しんでいる感じがする」


「何を惜しんでいるのでしょう」


「さあ」と店主は言った。「帝国の昔、かもしれないな。あの頃は良かった、みたいな」


 イリーナは、その言葉を聞きながら、ジョッキを眺めた。


 保守派と革新派。どちらも、何かを守ろうとしている。しかしその守り方が、全く違う。保守派は、今あるものを変えないことで守ろうとする。革新派は、変えることで守ろうとする。


 どちらも、帝国を愛しているのだ。


 ただ、その愛し方が、かみ合っていない。


「…難しいですわね」


 独り言のように呟いた。


「なんだ?」と店主が聞いた。


「いいえ、独り言ですわ。…もう一つ聞いてもよろしいですか」


「なんだ」


「この酒場に来る人たちは、保守派と革新派、どちらが多いですの?」


「そんなこと、考えたことないな」と店主は言った。「うちに来る客は、みんな喉が渇いているから来るだけだよ。立場は関係ない」


 イリーナは、その言葉を聞いて少し笑った。


「それは、正しいですわね」


「当たり前のことを言っただけだよ」


「当たり前のことが、一番大切なのかもしれませんわ」



 酒場を出たのは、夜が深まった頃だった。


 石畳の上に、月明かりが落ちている。帝国の夜は静かで、遠くで風が鳴っているだけだ。


 イリーナは、帝国醸造院の方向を眺めた。


 院長は、今頃何をしているだろう。醸造室で温度計を確認しているだろうか。それとも、院長室で書類を見ているだろうか。


 書状が届いてから、院長が変わったとヴェルナーは言った。外のものを全て遠ざけようとしている、と。


 しかしイリーナには、それが単純な頑固さとは思えなかった。


 「何かを守ろうとしている」


 ヴェルナーの言葉が、もう一度頭の中で響いた。


 何を守ろうとしているのか。帝国の醸造文化か。帝国の誇りか。それとも…


「…はぁ、分かりませんわ」


 呟いた。


 帰ろう、と思った。今夜は、ここまでで十分だ。


 馬車に戻りながら、イリーナは老人の言葉を思い返していた。


「完璧なものが、なぜ若者に届かないのか」


 その問いの答えを、イリーナはまだ持っていなかった。しかし、どこかに答えがある気がした。


 レオノーラと一緒に造った一杯の中に。




 翌朝、帰路の馬車に乗り込んだ。


 窓の外に、帝国の街が広がっている。石造りの建物、整然とした石畳、白い息を吐きながら歩く人々。


 見慣れた景色のはずなのに、今回は少し違って見えた。


 揺れている、とヴェルナーは言った。しかし外から眺めると、何も変わっていないように見える。変化は、表面ではなく、内側で起きている。


 馬車が動き出した。


 帝国が、少しずつ遠ざかっていく。


 イリーナは窓から帝国を眺め続けた。城壁が見えなくなるまで。


 それから前を向いた。


 南へ。王都へ。レオノーラのもとへ。


「…お嬢様」


 誰にも聞こえない声で呟いた。


「帝国は、変わろうとしていますわ。ただ、どう変わるかは…まだ誰にも分かっていませんわ」


 馬車が、南への道を走り始めた。


 帝国の冷気が、窓の隙間から入ってきた。


 イリーナは、その冷気を最後にもう一度、深く吸い込んだ。


 故郷の匂いが、した。

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