番外編 イリーナの帰郷(前編)
18話、19話あたりのお話です。
馬車が王都を出たのは、夜明け前だった。
見送りはなかった。レオノーラには「帝国へ行ってきますわ」と一言だけ告げて、そのまま出発した。レオノーラは扇子を開いたまま「気をつけてくださいまし」と言い、すぐに設計図へ視線を戻した。それで十分だった。
馬車の中に、イリーナ一人。
賑やかな馬車に慣れてしまっていたせいか、一人の静寂が、最初は少し落ち着かなかった。
しかし北へ向かうにつれ、その静寂が自然なものになっていった。
空気が変わり始めた。緑が薄くなり、岩肌が増え、風が鋭くなる。馬車の窓から入ってくる冷気が、王都のものとは質が違う。
体が、覚えていた。
この冷気を。この乾いた空気を。この、喉の奥まで届くような鋭さを。
「…帰りますわ」
独り言のように呟いた。
帝国へ向かう理由は、一つだけのはずだった。
帝国の醸造院に宛てた書状が届いているという情報が、グランツェル王国側で把握されていた。その内容と、帝国への影響を確かめること。それだけのはずだった。
しかし馬車が進むにつれ、別の感情が滲んでくる。
醸造院の地下醸造室のことを思い出す。院長が今も同じように、あの部屋で温度計を確認しているだろうか。
イリーナは、窓の外の景色を眺めながら、幼い頃のことを思い出していた。
醸造室で失敗するたびに、院長が言った言葉。
「完璧でなければ、意味がない」
あの言葉は、叱責ではなかった。今なら分かる。院長なりの「貴女ならできる」という期待だった。しかし当時のイリーナには、ただ重かった。
何度試みても、完璧に届かない。その距離が、埋まらなかった。
そして、レオノーラと出会った。
完璧ではないのに、届く一杯。揺らぎがあるのに、本物の一杯。
その矛盾が、イリーナを外へ引っ張り出した。
「…正しい選択でしたかしら」
自分に問いかけたが、答えは出なかった。
帝国の国境を越えたのは、翌日の昼前だった。
検問所の検問官が、イリーナの名前を確認して目を丸くした。
「イリーナ・フロストヴァルト様ですか。…お帰りなさいませ」
「ありがとうございます」
「院長には、ご連絡されますか」
「いいえ、結構です」
検問官が、少し困惑した顔をした。院長の娘が帰国して、院長に連絡しないというのは、どう受け取れば良いのか分からないのだろう。
イリーナは、それ以上説明しなかった。
国境を越えた瞬間、空気の質が変わった。鋭い冷気が、全身を包んだ。地下水脈の匂いが、かすかに漂ってくる。
体の奥で、何かが動いた。
帰ってきた、という感覚が、静かに広がった。
帝国醸造院の後任者、ヴェルナーに会ったのは、その日の夕刻だった。
ヴェルナーは三十代前半の、真面目そうな男性醸造師だ。イリーナが帝国を離れた後、冷却部門の主任として任命された。几帳面な性格で、書類の整理が得意だと聞いていた。
会議室で向かい合った瞬間、ヴェルナーが少し緊張した顔をした。
「お久しぶりです、イリーナさん。突然のご連絡で、驚きました」
「申し訳ありません。急ぎの用件がありましたので」
「グランツェル王国から、何か?」
「一つだけ確認したいことがあります。帝国の醸造院宛てに、外部から書状が届いたことはありますか。ここ最近で」
ヴェルナーの表情が、わずかに固まった。
その反応で、イリーナは分かった。知っている、と。
「…どこからそれを」
「グランツェル王国側で、把握しています。届いたこと自体は確かですか」
「…はい。届きました」
「内容は?」
ヴェルナーが、視線を机の上に落とした。しばらく黙っていた。
「…内容については、わたしの立場では申し上げられません。ただ」
「ただ?」
「その書状が届いてから、院長が変わりました」
「どう変わりましたの」
「外部との接触を、より厳しく制限するようになりました。以前から慎重な方でしたが、それ以来、外のものを全て遠ざけようとしている。…まるで、何かを守ろうとしているように見えます」
イリーナは、その言葉を静かに受け止めた。
書状の内容は分からない。しかし院長が変わった。それだけは確かだ。
「…院長は、今も醸造室にいますの?」
「毎朝、必ず。一日も欠かさず。それだけは変わっていません」
「そうですか」
ヴェルナーが、少し間を置いてから続けた。
「イリーナさん、一つだけ伝えておきたいことがあります」
「なんですか」
「帝国は今、少し揺れています」
「揺れている?」
「はい。若い醸造師たちが、声を上げ始めているんです。帝国の醸造のあり方について、色々と意見を言うようになってきて。院長がそれを押さえようとしていて。…全体的に、空気が重くなっています」
「どんな意見を言っていますの、若い醸造師たちは」
「外の技術に目を向けるべきだという声や、帝国の醸造を変えていくべきだという声が多いですわ。…詳しくは、わたしには」
ヴェルナーが、少し言葉を濁した。
「関わりたくない、ということですわね」
「立場上、難しくて」
「分かりましたわ。無理は言いません」
イリーナは立ち上がりかけて、ふと止まった。
「ヴェルナー、もう一つだけ」
「はい」
「その若い醸造師たち、新しい一杯を造りたいと言っていますの? それとも、帝国の現状を変えたいと言っていますの?」
ヴェルナーが、少し考えてから答えた。
「…後者の方が、多いような気がします」
イリーナは、静かに頷いた。
「分かりましたわ。ありがとうございます、ヴェルナー」
「イリーナさん、また戻ってくるつもりはありますか、帝国に」
「…いつか、必ず」
ヴェルナーが、少し安堵したような顔をした。
「そうですか。…待っている人間が、います。わたしを含めて」
会議室を出て、イリーナは一人で廊下を歩いた。
夕暮れの光が、石畳の床に長い影を作っている。この廊下も、幼い頃から歩いてきた場所だ。
書状が届いたことは確認できた。それ以来、院長が変わったことも。しかし内容は分からないままだ。
それよりも今、頭の中にあるのは別のことだった。
ヴェルナーの言葉。
「帝国は今、少し揺れています」
イリーナは廊下の窓から、帝国の街を眺めた。石造りの建物が整然と並び、白い息を吐きながら歩く人々が、いつも通りの夕暮れを過ごしている。
しかしその下では、何かが起こっているのであろう。
廊下の奥に、地下への階段があった。あの階段を下りれば、醸造室だ。院長が、今も同じ温度計を確認しているだろう醸造室が。
イリーナは、その階段を眺めた。
今は…会いに行かない。
しかし、いつか、必ず向き合わなければならない。
その確信が、静かに、胸の中に根を張り始めていた。




