表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/45

番外編 レオノーラとビール

 その夜の晩餐会は、いつも通りつまらなかった。


 王宮の大広間に並ぶ蝋燭の炎、給仕が運ぶ高価な料理、各国から取り寄せた最高級のワイン。そして媚びた笑顔で近づいてくる貴族たちと、その全てを当然のように受け取るエリック王太子。隣ではリリアが儚げに微笑み、場の空気を巧みに操っている。


 レオノーラは、そのワインを一口飲んだ。


 美味かった。確かに美味かった。しかしそれは「美味いと言わなければならない場で飲む美味さ」だった。


「…つまらない夜ですわ」


 誰にも聞こえない声で呟き、扇子で口元を隠した。


 晩餐会の帰り道、突然の豪雨が馬車を叩いた。


 雨音が激しくなった頃、車体が大きく揺れて止まった。従者が外へ出て確認し、戻ってきた顔が険しい。


「申し訳ございません、令嬢様。車軸が壊れてしまいました。修理に一時間ほどかかるかと」


「…一時間」


 レオノーラは窓の外を見た。雨は強まる一方だ。馬車の中で待ち続けるのも、と思っていると、従者が傘を差し出した。


「近くに建物がございます。雨宿りされてはいかがでしょうか」


 連れていかれた先は、石畳の路地の奥にある小さな建物だった。


 扉を押し開けた瞬間、温かい空気と、見知らぬ香りが流れ込んできた。麦の焦げたような甘み、草のような爽やかさ、そして何か発酵したものの、深くて複雑な匂い。


 店の中には、仕事終わりの職人や労働者たちがいた。レオノーラが入ってきた瞬間、全員が振り返った。場違いな令嬢の登場に、一瞬静まり返った。


 しかしカウンターの奥にいた店主が、何事もなかったように言った。


「いらっしゃい。雨宿りですか? どうぞ」


 威圧もなく、媚びもなく、ただ普通の歓迎だった。


 レオノーラは隅のテーブルに座った。


 従者は扉の外で待機している。店内の客たちは最初こそ珍しそうに見ていたが、やがてそれぞれの会話に戻っていった。


 何も頼まないつもりだった。しかし店主が、何も聞かずに一杯を持ってきた。


「濡れたでしょう。温まりなさい」


「わたくし、麦酒は…平民の飲み物でしょう…あ」


 言ってから、自分の言葉が棘のある響きを持っていたことに気づいた。しかし店主は気分を害した様子もなく、テーブルにジョッキを置いた。


「飲まなくても構いませんよ。ただ、持っているだけで温かくなりますから」


 レオノーラは、そのジョッキを手に取った。


 次の瞬間、香りが鼻腔に飛び込んできた。


 麦芽の香ばしさ、ホップの爽やかな苦み、発酵が生み出す、複雑で豊かな何か。これまで嗅いだことのない香りだった。高価なワインとも、蒸留酒とも、全く違う。もっと、土に近い。もっと、生き物に近い。


 レオノーラは、気づいたら一口飲んでいた。


 苦かった。


 確かに苦かった。しかし、その苦みの奥から、何かが追いかけてきた。麦芽の甘み。発酵の深み。そして、喉を通り抜けた後に残る、言葉にならない満足感。


 レオノーラは、ジョッキを持ったまま、動けなかった。


「…なんですの、これは」


「麦酒ですよ。平民の飲み物です」


 店主が、からかうでもなく、ただ事実として言った。


「…なぜ、こんなに」


「美味いでしょう?」


「…ええ」


 認めたくなかった。しかし、認めずにはいられなかった。


 これは…本物だ。


 晩餐会で飲んでいたワインも美味かった。しかしそれは、場に求められる美味さだった。格式を示すための美味さだった。誰かに認められるための美味さだった。


 この一杯は、違う。


 誰かに認められるためでも、場を取り繕うためでも、格式を示すためでもない。ただ、自分の喉が「美味い」と言っている。


 レオノーラは、しばらくジョッキを見つめた。


「…貴方は、なぜこのビールを造っているのですか」


「好きだからですよ」


「それだけですか」


「それだけです。…お客さんが美味そうに飲んでくれると、嬉しくなる。だから、明日も造る。それだけですよ」


 レオノーラは、その言葉を聞いて黙った。


 好きだから。それだけ。


 自分は何が好きだろう。王宮での振る舞いも、晩餐会のワインも、貴族たちとの会話も好きだと思ったことが、あっただろうか。


「…このビールは、どうやって造るのですか」


「令嬢が知ってどうするんですか」


「知りたいのですわ」


 店主は少し驚いた顔をした。しかし、嬉しそうに話し始めた。


「まず、麦芽を仕込んで、麦を水に浸して、発芽させてから乾燥させます。それを砕いて、お湯に溶かして、甘い汁を作る。…それをホップと一緒に煮て、冷ましてから酵母を入れると、発酵が始まる。それを待てば、麦酒ができますよ」


「酵母というのは?」


「生き物ですよ。目には見えないけど、糖分を食べてアルコールと炭酸を出す。…麦酒を造るのは、実はこの酵母なんです。わたしは、ただ環境を整えるだけで」


「環境を整える」


 レオノーラは、その言葉を繰り返した。


「…造り手は、生き物を支える役割ということですわね」


「そういう言い方は、したことはなかったけどそうかもしれませんね」


 店主が、少し驚いた顔をした。


 レオノーラは二杯目を頼んだ。


 従者が駆け込んできたのは、それからしばらく後だった。


「令嬢様、馬車の修理が終わりました」


 レオノーラは立ち上がった。


「…いくらですの、この二杯は」


「今夜は雨宿りのお礼ですよ。お代は結構です」


「そういうわけにはいきませんわ」


 レオノーラは財布を取り出し、銀貨を数枚置いた。店主が「多すぎます」と言ったが、レオノーラは首を振った。


「…また、来てもよろしいですか」


 店主が、目を丸くした。


「もちろんですよ。いつでも」


「…貴方のお名前は?」


「ヴィルヘルムです。この店の主で、醸造もしています」


「ヴィルヘルム。…覚えておきますわ」


 レオノーラは店を出た。


 雨が上がっていた。夜の石畳が、月明かりを反射して光っている。


 レオノーラは空を見上げ、手の中にまだ残るジョッキの温かさの記憶を、確かめるように指を握った。そして…


「…好きだから、か」


 レオノーラはそう呟いた。


 


それから数ヶ月、レオノーラは密かにヴィルヘルムの酒場へ通い続けた。


 従者を連れずに、一人で。貴族の装いを少し落として。


 ヴィルヘルムから醸造の基礎を教わり、本を読み、自分でも仕込みを試みた。最初は失敗続きだった。酸っぱくなったり、苦みが出すぎたり、発酵が途中で止まったり。


 しかしその失敗が…楽しかった。


 王宮での完璧な振る舞いには、失敗が許されなかった。しかし醸造には、失敗があって当然だった。失敗するたびに、次はどうすれば良いかを考えた。考えることが、楽しかった。


「ヴィルヘルム、また酸っぱくなりましたわ」


「仕込みの温度が高すぎたんじゃないですか。酵母は繊細ですよ」


「温度」


「ええ。酵母が一番活きる温度があって、それを外すと」


「発酵が乱れる」


「そうです。令嬢、飲み込みが早いですね」


「好きなことは、すぐに覚えますわよ」


 その言葉が、口から自然に出てきた瞬間、レオノーラは少し驚いた。


 好きなこと。


 自分で言ってから、気づいた。


 ああ…これが、好きということなんだと。


 やがてエリックとの婚約が破棄され、王都から追放されることになる夜、レオノーラは最後にヴィルヘルムの酒場を訪れた。


「明日から、しばらく来られなくなりますわ」


「どこかへ行くんですか?」


「下町に、行くことになりそうですわ」


 ヴィルヘルムは少し驚いた顔をしたが、何も聞かなかった。ただ、一杯を注いで差し出した。


「下町には、良い麦芽を売っている店がありますよ。南区の市場の端に、ゴットフリートという老人が店を出している。わたしも昔、そこで仕入れていました」


「…ありがとうございます」


「令嬢、一つだけ言わせてください」


「なんですの」


「あなたは、良い醸造家になりますよ」


 レオノーラは、その言葉を聞いて、笑った。


 高笑いではない。まだ「おーほっほっほ」を知らない頃の、ただの笑いだ。


「…そうなれるよう、頑張りますわ」





 それから数年が経った。


 ある秋の夕刻、黄金の泡亭の扉が開いた。


 白髪交じりの頭に、くたびれた革のエプロンを纏った老人が入ってきた。店内を見渡し、カウンターに目を向け、レオノーラを見つけた。


 レオノーラはジョッキを磨く手を止めた。


 見覚えのある顔だった。


「…ヴィルヘルム?」


「お久しぶりです、令嬢。…いや、今は総監か」


 ヴィルヘルムが照れくさそうに頭を掻いた。


「噂には聞いていましたよ。王都中の酒場を変えて、世界中の王族を一杯で落として、ついには国家醸造総監になったと。…驚きましたよ、本当に」


「…どうして、今日いらしたんですの?」


「一杯飲みに来ました。昔、令嬢に言われたでしょう。『また来てもよろしいですか』と。わたしもその言葉を借りようと思って」


 レオノーラは、ヴィルヘルムを見た。


 あの雨の夜、「好きだから」と言った男。


「令嬢、良い醸造家になりますよ」と言った男。

 

 何も知らずに、一杯を差し出した男。


「…いつでもいらっしゃいませ、ヴィルヘルム」


 レオノーラはジョッキを手に取り、丁寧に一杯を注いだ。


「何をお出ししましょうか」


「令嬢が、これだと思うものを」


 レオノーラは少し考えてから、メルツェンを注いだ。力強く、重厚で、しかし飲み進めるほどに穏やかな甘みが追いかけてくる、秋の一杯だ。


 ヴィルヘルムがそれを受け取り、一口飲んだ。


 目を閉じた。


 それから、顔を上げて笑った。


「…美味い。本当に、本当に、美味い」


「ありがとうございます」


「あの頃より、ずっと美味くなってる。…でも」


「でも?」


「根っこは、同じですよ。あの雨の夜に令嬢が飲んだ一杯と、同じ場所から来てる」


 レオノーラは、扇子を広げた。


「おーほっほっほ!」


 笑い声が、店内に響いた。


 いつもの高笑いだ。しかしその笑いの奥には、あの雨の夜の、ただの笑いが、まだ生きていた。


「…そうかもしれませんわね。あの一杯が、全ての始まりでしたから」


 ヴィルヘルムがジョッキを傾けながら言った。


「令嬢、一つだけ聞いていいですか」


「なんですの」


「今も、好きですか?麦酒が」


 レオノーラはジョッキを磨く手を止め、カウンターの上に並んだジョッキを眺めた。


 それから、静かに答えた。


「ええ。…今も、好きですわよ」


「それで十分です」


 ヴィルヘルムが、満足そうにもう一口飲んだ。


 秋の夕暮れが、店内を温かく染めていた。


 どこかから、乾杯の音が聞こえてきた。


 レオノーラは、また一つジョッキを手に取り、磨き始めた。


 あの雨の夜から続く、長い長い一杯の物語が今夜も、静かに続いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ