番外編 レオノーラとビール
その夜の晩餐会は、いつも通りつまらなかった。
王宮の大広間に並ぶ蝋燭の炎、給仕が運ぶ高価な料理、各国から取り寄せた最高級のワイン。そして媚びた笑顔で近づいてくる貴族たちと、その全てを当然のように受け取るエリック王太子。隣ではリリアが儚げに微笑み、場の空気を巧みに操っている。
レオノーラは、そのワインを一口飲んだ。
美味かった。確かに美味かった。しかしそれは「美味いと言わなければならない場で飲む美味さ」だった。
「…つまらない夜ですわ」
誰にも聞こえない声で呟き、扇子で口元を隠した。
晩餐会の帰り道、突然の豪雨が馬車を叩いた。
雨音が激しくなった頃、車体が大きく揺れて止まった。従者が外へ出て確認し、戻ってきた顔が険しい。
「申し訳ございません、令嬢様。車軸が壊れてしまいました。修理に一時間ほどかかるかと」
「…一時間」
レオノーラは窓の外を見た。雨は強まる一方だ。馬車の中で待ち続けるのも、と思っていると、従者が傘を差し出した。
「近くに建物がございます。雨宿りされてはいかがでしょうか」
連れていかれた先は、石畳の路地の奥にある小さな建物だった。
扉を押し開けた瞬間、温かい空気と、見知らぬ香りが流れ込んできた。麦の焦げたような甘み、草のような爽やかさ、そして何か発酵したものの、深くて複雑な匂い。
店の中には、仕事終わりの職人や労働者たちがいた。レオノーラが入ってきた瞬間、全員が振り返った。場違いな令嬢の登場に、一瞬静まり返った。
しかしカウンターの奥にいた店主が、何事もなかったように言った。
「いらっしゃい。雨宿りですか? どうぞ」
威圧もなく、媚びもなく、ただ普通の歓迎だった。
レオノーラは隅のテーブルに座った。
従者は扉の外で待機している。店内の客たちは最初こそ珍しそうに見ていたが、やがてそれぞれの会話に戻っていった。
何も頼まないつもりだった。しかし店主が、何も聞かずに一杯を持ってきた。
「濡れたでしょう。温まりなさい」
「わたくし、麦酒は…平民の飲み物でしょう…あ」
言ってから、自分の言葉が棘のある響きを持っていたことに気づいた。しかし店主は気分を害した様子もなく、テーブルにジョッキを置いた。
「飲まなくても構いませんよ。ただ、持っているだけで温かくなりますから」
レオノーラは、そのジョッキを手に取った。
次の瞬間、香りが鼻腔に飛び込んできた。
麦芽の香ばしさ、ホップの爽やかな苦み、発酵が生み出す、複雑で豊かな何か。これまで嗅いだことのない香りだった。高価なワインとも、蒸留酒とも、全く違う。もっと、土に近い。もっと、生き物に近い。
レオノーラは、気づいたら一口飲んでいた。
苦かった。
確かに苦かった。しかし、その苦みの奥から、何かが追いかけてきた。麦芽の甘み。発酵の深み。そして、喉を通り抜けた後に残る、言葉にならない満足感。
レオノーラは、ジョッキを持ったまま、動けなかった。
「…なんですの、これは」
「麦酒ですよ。平民の飲み物です」
店主が、からかうでもなく、ただ事実として言った。
「…なぜ、こんなに」
「美味いでしょう?」
「…ええ」
認めたくなかった。しかし、認めずにはいられなかった。
これは…本物だ。
晩餐会で飲んでいたワインも美味かった。しかしそれは、場に求められる美味さだった。格式を示すための美味さだった。誰かに認められるための美味さだった。
この一杯は、違う。
誰かに認められるためでも、場を取り繕うためでも、格式を示すためでもない。ただ、自分の喉が「美味い」と言っている。
レオノーラは、しばらくジョッキを見つめた。
「…貴方は、なぜこのビールを造っているのですか」
「好きだからですよ」
「それだけですか」
「それだけです。…お客さんが美味そうに飲んでくれると、嬉しくなる。だから、明日も造る。それだけですよ」
レオノーラは、その言葉を聞いて黙った。
好きだから。それだけ。
自分は何が好きだろう。王宮での振る舞いも、晩餐会のワインも、貴族たちとの会話も好きだと思ったことが、あっただろうか。
「…このビールは、どうやって造るのですか」
「令嬢が知ってどうするんですか」
「知りたいのですわ」
店主は少し驚いた顔をした。しかし、嬉しそうに話し始めた。
「まず、麦芽を仕込んで、麦を水に浸して、発芽させてから乾燥させます。それを砕いて、お湯に溶かして、甘い汁を作る。…それをホップと一緒に煮て、冷ましてから酵母を入れると、発酵が始まる。それを待てば、麦酒ができますよ」
「酵母というのは?」
「生き物ですよ。目には見えないけど、糖分を食べてアルコールと炭酸を出す。…麦酒を造るのは、実はこの酵母なんです。わたしは、ただ環境を整えるだけで」
「環境を整える」
レオノーラは、その言葉を繰り返した。
「…造り手は、生き物を支える役割ということですわね」
「そういう言い方は、したことはなかったけどそうかもしれませんね」
店主が、少し驚いた顔をした。
レオノーラは二杯目を頼んだ。
従者が駆け込んできたのは、それからしばらく後だった。
「令嬢様、馬車の修理が終わりました」
レオノーラは立ち上がった。
「…いくらですの、この二杯は」
「今夜は雨宿りのお礼ですよ。お代は結構です」
「そういうわけにはいきませんわ」
レオノーラは財布を取り出し、銀貨を数枚置いた。店主が「多すぎます」と言ったが、レオノーラは首を振った。
「…また、来てもよろしいですか」
店主が、目を丸くした。
「もちろんですよ。いつでも」
「…貴方のお名前は?」
「ヴィルヘルムです。この店の主で、醸造もしています」
「ヴィルヘルム。…覚えておきますわ」
レオノーラは店を出た。
雨が上がっていた。夜の石畳が、月明かりを反射して光っている。
レオノーラは空を見上げ、手の中にまだ残るジョッキの温かさの記憶を、確かめるように指を握った。そして…
「…好きだから、か」
レオノーラはそう呟いた。
それから数ヶ月、レオノーラは密かにヴィルヘルムの酒場へ通い続けた。
従者を連れずに、一人で。貴族の装いを少し落として。
ヴィルヘルムから醸造の基礎を教わり、本を読み、自分でも仕込みを試みた。最初は失敗続きだった。酸っぱくなったり、苦みが出すぎたり、発酵が途中で止まったり。
しかしその失敗が…楽しかった。
王宮での完璧な振る舞いには、失敗が許されなかった。しかし醸造には、失敗があって当然だった。失敗するたびに、次はどうすれば良いかを考えた。考えることが、楽しかった。
「ヴィルヘルム、また酸っぱくなりましたわ」
「仕込みの温度が高すぎたんじゃないですか。酵母は繊細ですよ」
「温度」
「ええ。酵母が一番活きる温度があって、それを外すと」
「発酵が乱れる」
「そうです。令嬢、飲み込みが早いですね」
「好きなことは、すぐに覚えますわよ」
その言葉が、口から自然に出てきた瞬間、レオノーラは少し驚いた。
好きなこと。
自分で言ってから、気づいた。
ああ…これが、好きということなんだと。
やがてエリックとの婚約が破棄され、王都から追放されることになる夜、レオノーラは最後にヴィルヘルムの酒場を訪れた。
「明日から、しばらく来られなくなりますわ」
「どこかへ行くんですか?」
「下町に、行くことになりそうですわ」
ヴィルヘルムは少し驚いた顔をしたが、何も聞かなかった。ただ、一杯を注いで差し出した。
「下町には、良い麦芽を売っている店がありますよ。南区の市場の端に、ゴットフリートという老人が店を出している。わたしも昔、そこで仕入れていました」
「…ありがとうございます」
「令嬢、一つだけ言わせてください」
「なんですの」
「あなたは、良い醸造家になりますよ」
レオノーラは、その言葉を聞いて、笑った。
高笑いではない。まだ「おーほっほっほ」を知らない頃の、ただの笑いだ。
「…そうなれるよう、頑張りますわ」
それから数年が経った。
ある秋の夕刻、黄金の泡亭の扉が開いた。
白髪交じりの頭に、くたびれた革のエプロンを纏った老人が入ってきた。店内を見渡し、カウンターに目を向け、レオノーラを見つけた。
レオノーラはジョッキを磨く手を止めた。
見覚えのある顔だった。
「…ヴィルヘルム?」
「お久しぶりです、令嬢。…いや、今は総監か」
ヴィルヘルムが照れくさそうに頭を掻いた。
「噂には聞いていましたよ。王都中の酒場を変えて、世界中の王族を一杯で落として、ついには国家醸造総監になったと。…驚きましたよ、本当に」
「…どうして、今日いらしたんですの?」
「一杯飲みに来ました。昔、令嬢に言われたでしょう。『また来てもよろしいですか』と。わたしもその言葉を借りようと思って」
レオノーラは、ヴィルヘルムを見た。
あの雨の夜、「好きだから」と言った男。
「令嬢、良い醸造家になりますよ」と言った男。
何も知らずに、一杯を差し出した男。
「…いつでもいらっしゃいませ、ヴィルヘルム」
レオノーラはジョッキを手に取り、丁寧に一杯を注いだ。
「何をお出ししましょうか」
「令嬢が、これだと思うものを」
レオノーラは少し考えてから、メルツェンを注いだ。力強く、重厚で、しかし飲み進めるほどに穏やかな甘みが追いかけてくる、秋の一杯だ。
ヴィルヘルムがそれを受け取り、一口飲んだ。
目を閉じた。
それから、顔を上げて笑った。
「…美味い。本当に、本当に、美味い」
「ありがとうございます」
「あの頃より、ずっと美味くなってる。…でも」
「でも?」
「根っこは、同じですよ。あの雨の夜に令嬢が飲んだ一杯と、同じ場所から来てる」
レオノーラは、扇子を広げた。
「おーほっほっほ!」
笑い声が、店内に響いた。
いつもの高笑いだ。しかしその笑いの奥には、あの雨の夜の、ただの笑いが、まだ生きていた。
「…そうかもしれませんわね。あの一杯が、全ての始まりでしたから」
ヴィルヘルムがジョッキを傾けながら言った。
「令嬢、一つだけ聞いていいですか」
「なんですの」
「今も、好きですか?麦酒が」
レオノーラはジョッキを磨く手を止め、カウンターの上に並んだジョッキを眺めた。
それから、静かに答えた。
「ええ。…今も、好きですわよ」
「それで十分です」
ヴィルヘルムが、満足そうにもう一口飲んだ。
秋の夕暮れが、店内を温かく染めていた。
どこかから、乾杯の音が聞こえてきた。
レオノーラは、また一つジョッキを手に取り、磨き始めた。
あの雨の夜から続く、長い長い一杯の物語が今夜も、静かに続いていた。




