第20話 悪役令嬢はジョッキが似合いすぎる
その夜は、何も特別なことのない夜として始まった。
黄金の泡亭の夕刻。レオノーラはカウンターの中で、いつものようにジョッキを磨いていた。クラリスが仕込みを手伝い、イリーナが冷却回路を調整し、カイルが壁際に立っている。いつもと変わらない、この店の夕暮れだ。
最初に来たのは、エリックとリリアだった。
「いらっしゃいませ」
「来ましたわよ、レオノーラ」
「ええ、こちらをどうぞ」
ジョッキの山が、二人の前に置かれた。リリアが布を広げ、エリックが磨き道具を手に取る。もはや日常になった光景だ。
「…エリック様、また底が雑ですわよ」
「分かった、分かった」
「分かったとおっしゃるわりに、毎回同じところが雑ですわ」
「細かいな」
「ジョッキ磨きに細かくない人間は、レオノーラに怒られますのよ」
レオノーラはその会話を背中で聞きながら、手を動かし続けた。
次にルチアーノが来た。
「令嬢、近くを通りがかりましたよ」
「ヴェネルカから王都まで、近くを通りがかるはずはありませんわよ」
「ハッハッハ! 細かいことは気にしない。…一杯もらえますか」
「どうぞ」
ルチアーノがいつもの席に腰を下ろした。
しばらくして、扉が開いた。褐色の肌に、南国の衣装をまとった使者だった。
「レオノーラ・フォン・グランツェル様はこちらでしょうか。サフラン女王陛下が、ご挨拶に立ち寄りたいとのことです」
「もちろんですわ。どうぞお通しして」
間もなく、サフラン女王が護衛を連れて入ってきた。黄金の腕輪をじゃらりと鳴らし、店内を見渡した。
「…思ったより、賑やかな店ですわね」
「いつもこうですわよ、女王様。…お座りになりますか」
「せっかくですから、一杯だけ」
女王がカウンター席に腰を下ろした瞬間、エリックとリリアが顔を上げた。二人とも、サフラン女王とは博覧会以来だ。
「…王太子殿下が、ジョッキを磨いておられるのですか」
「執務がない時間は、こうしてお手伝いをしてもらっていますわ」
サフラン女王が、信じられないものを見るような目でエリックを見た。エリックは居心地悪そうに視線を逸らしながら、ジョッキを磨き続けた。
その少し後、また扉が開いた。
グスタフ王だった。
近衛を二人だけ連れて、王冠も纏わない姿で、静かに入ってきた。
店内の全員が気づいて、一瞬動きを止めた。
しかし王は手を振った。
「今夜は王ではない。ただの客だ。…誰も気にするな」
「いらっしゃいませ、陛下」
「いつもの一杯を頼む」
レオノーラが、静かに一杯を注いだ。王がそれを受け取り、カウンター席に腰を下ろした。隣がサフラン女王だと気づいて、二人は目を合わせ、軽く頷いた。
「南方の女王か。博覧会以来だな」
「ええ。あの時の一杯は、まだ忘れられませんわ」
「余もだ」
二人がそのまま話し始めた。
そして、最後の扉が開いた。
白髪の老人が、若い弟子を一人連れて、ゆっくりと入ってきた。
アウグストゥス院長だった。
店内の全員が、「誰だ」という顔をした。しかしレオノーラだけが、驚かなかった。
「…いらっしゃいませ、院長様。よくいらっしゃいましたわ」
「来てしまったよ。…なんとなく、今夜来るべきだと思った」
「山を下りていらっしゃるのは、珍しいですわね」
「ああ。しかし来て正解だったようだ」
ルチアーノが、院長を見て静かに笑った。
「わたしと同じですね。なんとなく、今夜ここへ来るべきだと思った」
「そういうものだ、大事な夜というのは」
全員が揃った泡亭は、これまでになく賑やかだった。
グスタフ王とサフラン女王が、隣の席で話している。二人は今夜初めて腰を据えて話したが、「この酒は美味い」という一点で、すでに意気投合していた。
「我が国の香辛料と、この麦酒のペアリングは、本当に見事でしてよ」
「余も最初は信じなかったが、あの女の一杯に出会ってから、考えが変わった」
「鉄血王が変わるとは、なかなかないことですわね」
「余の喉は、正直だということだ」
ルチアーノとアウグストゥス院長が、向かい合って話している。
「院長、修道院の麦酒を流通させる気はありませんか。わたしの海路を使えば…」
「修道院は商売をしない」
「しかし、令嬢の物流網と組み合わせれば」
「商売をしない、と言った」
「では、無償で世界へ届けるというのは」
「……少し、考えよう」
ルチアーノが、してやったりという顔で顎髭を撫でた。
イリーナが、クラリスに冷却回路の仕組みを説明しようとしていた。
「つまり、熱蓄積水晶を回路に組み込むことで、外気温の変化に左右されない定温環境が…」
「神の御意志は、温度にもありますわよ…!」
「…そういう解釈でも構いませんわ」
エリックとリリアが、カウンターの端で磨きながら話していた。
「…こんなに色々な人が集まるとは思わなかったな」
「ええ。…レオノーラの周りは、いつもこうなりますわよ」
「なぜだと思う?」
リリアは少し考えてから、答えた。
「…一杯が、本物だからではないですか。本物の一杯は、人を引き寄せますわ。…わたくしも、気づいたらここに来ていますもの」
その夜、それぞれが、それぞれの瞬間に、同じものを見た。
しかし誰も、言葉にしなかった。
イリーナが冷却回路の確認を終え、ふとレオノーラを見た。設計図を取り出しかけてそのまま、しまった。ただ見ていた。
エリックが磨き終えたジョッキを並べながら、ふと顔を上げた。カウンターでジョッキを磨くレオノーラが目に入った。
「…リリア、見てみろ」
「なんですの?」
「…いや、何でもない」
リリアがレオノーラを見た。二人は、しばらく黙ったまま、その横顔を眺めていた。
ルチアーノがアウグストゥス院長との話が一段落した時、ふとレオノーラを見た。顎髭を撫でていた手が、止まった。そのまま、静かにジョッキを傾けた。
サフラン女王がグスタフ王と話しながら、ふとレオノーラを見た。グスタフ王と目が合い、二人は、何も言わずに頷き合った。
アウグストゥス院長が、静かに店内を眺めた。やがて目を閉じ、小さく口を動かした。祈るような仕草だった。
カイルが、壁際からその全景を眺めた。世界中の王族も、帝国の天才も、砂漠の女王も、海の商人も、修道院の院長もみんな、同じ方向を見ていた。
カウンターでジョッキを磨く、一人の女を。
カイルは何も言わなかった。ただ、自分のジョッキを静かに持ち上げた。
そして…レオノーラは、何も知らなかった。
全員に見られていることに、気づいていなかった。ただジョッキを磨いていた。次の一杯を考えていた。高笑いも、宣言も、扇子もない。ただ、自分の場所で、自分のことをしている。
グスタフ王が、立ち上がった。
その動作に気づいて、店内が静まり返った。
「皆、ジョッキを持て」
全員が、ジョッキを手に取った。
「余は今夜、この令嬢に礼を言いたい。…貴様のおかげで、余の残りの人生に、美味い酒ができた」
レオノーラが、カウンターで手を止めた。
「…陛下、そのようなご挨拶は」
「黙って受け取れ」
グスタフ王が、ジョッキを高く掲げた。
「レオノーラ・フォン・グランツェル。貴様は、余の王国を、世界を、この一杯で変えた。…だが今夜、余が乾杯するのはそのためではない」
「では、なぜですか」
「貴様が、ジョッキを持った時に一番良い顔をするからだ」
店内に、静かな笑いが広がった。
誰も否定しなかった。
サフラン女王が「まったくその通りですわ」と言い、ルチアーノが「ハッハッハ!」と笑い、イリーナが小さく頷き、エリックが静かに微笑み、リリアが力の抜けた顔で笑い、クラリスが「神の御意志は、顔にも宿りますわ…!」と涙ぐみ、アウグストゥス院長が目を開けて、深く頷いた。
カイルは何も言わなかった。ただ、ジョッキを掲げた。
全員のジョッキが、高く掲げられた。
「乾杯!!!」
その声が、黄金の泡亭に、王都の夜に、響き渡った。
宴が終わり、全員が帰っていった。
ルチアーノが「また来ますよ」と言い残して颯爽と去り、サフラン女王が「次は砂漠でも一杯を」と言い、グスタフ王が「また来る」とだけ言って近衛と出ていった。アウグストゥス院長が弟子を連れて、静かに頭を下げた。
「…良い夜だった」
「またいつでもいらっしゃいませ、院長様」
「ああ。…今度は、もう少し早く来よう」
エリックとリリアが最後に残って、磨き終えたジョッキを並べた。
「…今夜は、いつもより多かったな」
「ええ」
「疲れたか?」
リリアは少し考えてから、首を振った。
「…楽しかったですわ」
「リリアが、楽しかったと言うのは珍しいな」
「そうですか? …今夜は何も考えていませんでしたわ。ただ、ジョッキを磨いていましたわ」
「それで良いんじゃないか」
「…ええ」
二人が出ていった後、イリーナが「今夜は良い夜でしたわね」と言い残して帰った。カイルが「また明日」と言って出ていった。
一人になった。
レオノーラは、磨いたジョッキを眺めた。灯りを受けて輝くジョッキが、一列に並んでいる。
「…ジョッキが似合いすぎる、ですって?」
独り言のように呟いた。
グスタフ王の言葉が、まだ耳に残っていた。
それから、笑った。
高笑いではない。「おーほっほっほ」ではない。ただの、笑いだ。力の抜けた、自然な笑いだ。
「…そうかもしれませんわね」
レオノーラは、もう一度ジョッキを手に取り、磨き始めた。
レオノーラ・フォン・グランツェル。
悪役令嬢と呼ばれ、追放され、下町でジョッキを磨き始めた女は、今夜もまた、ジョッキを磨いていた。
そしてそれが、誰の目にも一番似合っていた。




