第19話 決戦(後編)
イリーナが冷却回路に手をかけた。
今夜の一杯の設計は、これまでのどれとも違う。温度を「一定に保つ」のではなく、「段階的に変化させる」設計だ。一口目は驚くほど冷たく、二口目でその冷たさが溶けて香りが開き、三口目で温かみが残る、一つのジョッキの中で、冷たさが温かさへと変わっていく。
「これは?」
イリーナが呟いた。
「修道院で学んだことですわよ」
レオノーラが答えた。
「温度を変化させることで、味が変わる。…ただ、あの時と違うのは」
「今回は、冷たさから温かさへ、ですわ。修道院では、時間をかけて積み上げた温かさを、そのまま届けた。…今夜は、冷たさの向こうに温かさを隠してありますわ」
「なぜ、リリア様にはこの方向なんですか」
「ずっと冷たい場所にいた人間には、いきなり温かいものを出しても、受け取れませんわよ。…まず冷たさで、今まで纏っていたものを剥ぎ取る。そこから、温かさが届く」
イリーナが、静かに頷いた。
「…分かりましたわ。お嬢様、この一杯…名前はありますの?」
「まだ、ありませんわ。…飲んだ方が、決めてくださいまし」
レオノーラがジョッキをリリアの前に置いた。
見た目は、シンプルだ。深い琥珀色の液体。細かな泡が、静かに立ち上っている。特別な装飾も、魔法的な演出もない。ただ、そこにある。
「…どんな麦酒ですの?」
「飲めば分かりますわよ」
「何も教えてくれませんの?」
「一つだけ」
レオノーラは静かに言った。
「…今夜だけは、エリック殿下のことを考えずに飲んでくださいまし。貴女自身の喉で、貴女自身のために」
リリアが、その言葉を聞いて少し間を置いた。
エリック殿下のことを考えずに。
どういうことか、最初は分からなかった。ずっと、誰かのために飲んできた。エリック殿下の隣で、エリック殿下を見ながら。自分のために飲む、とはどういうことか。
リリアはゆっくりと、ジョッキを持ち上げた。
一口目。
唇に触れた瞬間、鋭い冷たさが来た。
イリーナの精密な冷却が生み出す、刃のような冷気だ。しかしその冷たさは、ただ鋭いだけではない。何かを強制的に洗い流すような今まで纏っていたものを、一瞬で剥ぎ取るような冷たさだった。
リリアの目が、わずかに見開かれた。
二口目。
少し間を置いてから、もう一口。
今度は、冷たさの中に香りが開いた。麦芽の甘み、ホップの繊細な苦み、そして、果実のような、温かみのある後味。それが段階的に口の中に広がっていく。
リリアの手が、ジョッキを持ったまま、静止した。
この香りは…知っている。
どこで?
記憶を辿ると、ヴェネルカの港が浮かんできた。六年間、誰にも目的を話さずに学んでいた頃。夜、港の近くの小さな酒場で、一人で飲んでいた安い麦酒の香り。
あの頃のリリアは、まだ何者でもなかった。計画はあった。しかしまだ、エリックとも出会っていなかった。ただ一人で、未来を見据えながら飲んでいた。
あの時の自分が、今のリリアには、どこか遠い。
三口目。
その瞬間、温かさが来た。
冷たかったものが、体の内側で静かに溶けていく。その温かさは、激しくない。押しつけがましくない。ただじわりと、胃の奥から広がっていく。
リリアの目から、涙がこぼれた。
言葉に詰まって出てきた先程の涙と違い、今度の涙はもっと深いところから来ている。言葉にならない何かが、この一杯によって溶け出してきたような涙だ。
リリアは、しばらく動けなかった。
…なんですの、これは。
「どうでしたかしら」
「…冷たかったのに、温かい。…最初は、何もかも剥ぎ取られるような気がして、でも、最後には」
「最後には?」
「…何かが、戻ってきた気がしましたわ」
「何が戻りましたの?」
リリアは少し考えた。
「…分かりませんわ。でも…ヴェネルカにいた頃のことを、思い出しましたわ。まだ、何者でもなかった頃のことを」
「それは、悪いことではありませんわよ」
「…なぜ、この一杯を選びましたの?」
レオノーラは扇子を広げ、口元を隠した。
「貴女がまだ知らない、貴女自身の喉に届けたかったからですわ。…エリック殿下のためでも、計画のためでもなく、ただの、リリアという人間の喉に」
リリアが、レオノーラを見た。
その目に、これまでとは違う光があった。計算でも、警戒でも、敵意でもない。ただ、真っ直ぐな光だ。
「…レオノーラ様…いえ、レオノーラ」
レオノーラは扇子を閉じた。
「なんですの」
「…わたくし、負けましたわ」
「計画の話ですか?」
「それだけでは、ありませんわ。…計画は、まだ生きていますわ。でも」
リリアは、自分の手を見た。
「この一杯を飲んで、初めて分かりましたわ。わたくしはエリック様のために全部やってきたと思っていた。でも本当は…自分が怖かっただけかもしれませんわ」
「怖い?」
「エリック様がいなくなったら、わたくしには何もないと。…だから、エリック様を王にすることに全部を賭けていた。エリック様が必要としてくれる限り、わたくしはここにいられると思っていた」
「…」
「でも、この一杯を飲んで、ヴェネルカで一人だった頃の自分を思い出したら」
リリアは少し間を置いた。
「…あの頃のわたくしも、ちゃんとここにいましたわ。エリック様がいなくても、計画がなくても、ただのリリアとして、ここにいましたわ」
エリックが、リリアの隣に移った。
テーブルを挟まず、ただ隣に座った。
「…リリア」
「なんですの、エリック様」
「お前が怖かったこと…分かった気がする」
「…」
「僕も、怖かった。お前に全部やってもらって、僕は何もできないんじゃないかと。…でも今は、少し違う」
「どう違うんですの?」
「…お前と一緒に、考えたい。計画を押しつけられるのではなく、一緒に」
リリアが、エリックを見た。
「…わたくしに、それができますかしら」
「できるかどうかじゃなくて、やってみるかどうかだろう」
リリアは少し黙った。
それから、小さく笑った。
これまでの儚げな微笑みではない。もっと素朴な、力の抜けた笑いだ。
「…やってみますわ」
ルチアーノが立ち上がり、自分のジョッキを持ってカウンターへ歩み寄った。
「令嬢、おかわりをもらえますか」
「どうぞ」
レオノーラが注いだ。ルチアーノは一口飲み、それから振り返った。
「…リリア殿、一つだけ言わせてもらいますよ」
「なんですか」
「わたしを出し抜いたのは、見事でしたよ。本当に」
「…」
「ただ、一つだけ惜しかった」
「何が惜しかったですの」
「…あれだけの頭と行動力があるなら、別の使い方もあったはずだ。誰かのためではなく、自分のために使えば、もっと大きなことができたかもしれない」
リリアは、その言葉を聞いて黙っていた。
「…参考にしますわ」
「ハッハッハ! それだけ言えれば、十分ですよ」
ルチアーノはジョッキを掲げた。
「今夜は、良い夜でしたよ」
やがて、全員が帰る時間になった。
ルチアーノが「また来ますよ」と言い残し、颯爽と去った。
イリーナが設計図を片付け始めた。
エリックとリリアが、並んで扉へ向かった。
扉のところで、リリアが振り返った。
「…レオノーラ」
「なんですの」
「あの一杯…名前、決めましたわ」
「なんですの?」
リリアは少し間を置いてから、答えた。
「…『まだ知らない私』ですわ」
レオノーラは扇子を広げ、口元を隠した。
「おーほっほっほ! 素敵な名前ですわね」
「…また、来てもよろしいですか」
「いつでも」
扉が閉まった。
それから三日後。
黄金の泡亭の夕刻。
いつもより少し早い時間に、扉が開いた。
エリックだった。しかし今日は一人ではない。隣に、リリアがいた。
「…来ましたわよ、レオノーラ」
「いらっしゃいませ」
「約束通り」
レオノーラは、二人を見た。リリアの手に、布が握られている。エリックの手には、磨き用の道具が一式。
「…手伝いに来ましたわ」
「ジョッキ磨きですの?」
「ええ。お返しですわ」
レオノーラは少し考えてから、カウンターの奥からジョッキの山を取り出した。
「では、こちらをお願いしますわ。…磨き残しがあったら、やり直しですわよ」
「承知しましたわ」
リリアが布を広げ、ジョッキを手に取った。
エリックが隣に並び、同じように磨き始めた。
しばらく、誰も喋らなかった。ジョッキが磨かれる、柔らかい音だけが店内に響いている。
「…エリック様、磨き方が雑ですわよ」
「こんなものじゃないのか」
「底の部分まで丁寧に。光が反射して見えるくらい、磨かないと」
「…お前、やけに詳しいな」
「以前、散々磨かされましたから」
エリックが、ぷっと吹き出した。
「そういえば、そうだったな」
「笑い事ではありませんわよ。あの頃は本当に辛かったですわ」
「でも今は?」
リリアは少し間を置いた。
「…悪くはありませんわ」
その会話を、レオノーラはカウンターの奥で聞いていた。
クラリスが小声で耳打ちしてきた。
「…レオノーラ様、あの二人、いつからこちらへ?」
「三日前からですわ。…執務がない時間は、こうしてお手伝いをしてもらっていますわよ」
「王太子殿下と、リリア様がジョッキ磨きを!?」
「おだまりなさいな、クラリス。手が止まっていますわよ」
クラリスが慌てて自分のジョッキを磨き始めた。しかしその目は、ずっとエリックとリリアの方を向いていた。
夜が深まり、常連客たちが帰り始めた頃。
エリックとリリアも、磨いたジョッキを並べ終えた。
カウンターに並んだジョッキが、灯りを受けて輝いている。
「…終わりましたわ」
「ご苦労さまですわ」
レオノーラが、二人の前に一杯ずつ置いた。
「お疲れ様のご褒美ですわよ」
エリックが受け取り、一口飲んだ。
「…美味いな」
「でしょう」
リリアが受け取り、一口飲んだ。
しばらく黙っていた。それから、静かに言った。
「…この前の一杯とは、違いますわね」
「ええ。今夜のは、いつもの一杯ですわよ」
「どちらが好きですの?」
リリアは少し考えた。
「今夜のが、好きですわ。あの一杯は、特別すぎて…日常には置けませんわ」
「よく分かっていらっしゃいますわ」
レオノーラは扇子を開いた。
「特別な一杯は、特別な夜のためにありますわ。…日常は、いつもの一杯で十分ですわよ」
リリアが、その言葉を聞いて小さく笑った。
以前の儚げな笑みでも、力の抜けた笑いでもない。ただ、自然な普通の笑いだった。
二人が帰った後、カイルが壁際から近づいてきた。
「…あの二人、本当に来るとは思わなかった」
「わたくしは、来ると思っていましたわ」
「なぜ?」
「リリア様は、約束を守る人ですわよ。…それは、最初から変わっていませんわ」
カイルは少し考えてから、頷いた。
「…レオノーラ」
「なんですの」
「今夜も、良い顔をしていたぞ」
レオノーラは扇子を広げ、口元を隠した。
「おーほっほっほ! 何のことかしら」
「ジョッキを磨いている時の顔だ。…いつも、一番良い顔をしている」
レオノーラは、扇子を閉じた。
何も言わなかった。
ただ、カウンターに向かい、また一つジョッキを手に取り、磨き始めた。
その横顔を、カイルは眺めた。
今夜も、一番良い顔をしていた。
王都の夜が、静かに更けていく。どこかの酒場から、乾杯の音が聞こえてきた。
黄金の泡亭に、ジョッキを磨く音が、静かに響いていた。




