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第19話 決戦(中編)

 夜の黄金の泡亭は、静かだった。


 客はいない。今夜だけは貸切にした。クラリスは早めに上がらせ、灯りは最小限に絞ってある。カウンターの上だけが、温かく照らされていた。


 レオノーラとイリーナが、準備を整えて待っていた。カイルが壁際に立っている。


 最初に来たのは、ルチアーノだった。


 呼ばれていないのに来た。金銀刺繍のマントを羽織り、いつもの顎髭を撫でながら、当然のような顔で扉を開けた。


「令嬢、良い夜ですね。…なんとなく、今夜ここへ来るべきだと思いましたよ」


「おーほっほっほ! 嗅覚が鋭いですわね、総督」


「商売人ですから。…邪魔でしたか?」


「いいえ。むしろ、いてくださった方が良いかもしれませんわ」


 ルチアーノは誰も座っていない席に、当然のように腰を下ろした。


 次にエリックが来た。私服で、一人だ。リリアは連れていない。


「…リリアはまだか」


「もうすぐいらっしゃいますわ。…一杯、どうぞ」


 エリックはカウンター席に座り、レオノーラが注いだジョッキを受け取った。しかし飲まなかった。ただ手の中でジョッキを持ったまま、扉を見ていた。


 そして、扉が開いた。


 リリアだった。


 店内の空気が、変わった。


 いつもの儚げなドレスではなく、今夜は深い紺色の衣装を纏っている。装飾は少なく、質素だ。しかしその分、リリア自身の存在が、いつもより鮮明に見えた。


 レオノーラは、その姿を見て何かを確認するように、一度だけ目を細めた。


「…いらっしゃいませ、リリア様」


「…こんばんは、レオノーラ様」


 二人の視線が、交わった。


 リリアはカウンター席には座らなかった。エリックの隣のテーブル席に、静かに腰を下ろした。


「…呼んでいただいたから、参りましたわ」


「ありがとうございます」


「でも、一つだけ確認させてくださいまし」


「なんですの?」


「…今夜ここに呼ばれたのは、わたくしが計画を諦めるよう説得するためですか?」


 レオノーラは答えなかった。


 リリアが続けた。


「諦めませんわよ。…エリック様を最強の王にする。それは、変わりませんわ」


「リリア」


 エリックが口を開いた。


「…今夜は、聞いてくれ。それだけでいい」


 リリアがエリックを見た。その目に、微かな動揺が走った。


「エリック様…」


「頼む」


 リリアは少し間を置いてから、静かに頷いた。


「リリア様、一つ聞かせてくださいな」


「なんですか」


「ヴェネルカで学んでいた頃、貴女は何を目標にしていましたの?」


 リリアが、わずかに目を細めた。


「…エリック様を、王にすることですわ」


「その前は? エリック殿下と出会う前の貴女は、何を目標にしていましたの?」


 沈黙。


「…それは、関係ありませんわ」


「関係ありますわよ」


 レオノーラは静かに続けた。


「ヴェネルカで六年間、誰にも目的を話さずに学び続けた。実家にも帰らず、記録も消して。…エリック殿下と出会う前から、何かを目指していた。それは何だったのかしら」


 リリアは答えなかった。


 しかしその沈黙が…雄弁だった。


 ルチアーノが、遠くから静かに観察していた。顎髭に手を当て、何も言わずに、ただ見ている。


「…関係ないとおっしゃるなら、構いませんわ」


 レオノーラは話を変えた。


「では、別のことを聞きますわ。…リリア様、泡亭に来た時、何を飲んでいましたの?」


「…麦酒を、少し」


「どんな味でしたかしら」


 リリアが、少し間を置いた。


「…覚えていませんわ」


「なぜ?」


「…エリック様の様子を、見ていましたから」


 レオノーラは扇子を手に取り、しかし開かなかった。


「ずっと、そうでしたのね。エリック殿下の隣で、エリック殿下を見ながら、自分が何を飲んでいるかも分からないまま」


「…それの何が、いけないのですか」


「いけなくはありませんわよ」


 レオノーラは静かに答えた。


「ただ、寂しいとは思いますわ」


 リリアの目が、わずかに揺れた。


「…リリア、一つだけ聞いていいか」


 エリックが、静かに言った。


「なんでしょう、エリック様」


「お前は、僕に出会う前から、こういう計画を持っていたのか」


 リリアの手が、テーブルの上でわずかに動いた。


「…エリック様に出会って、計画が具体的になりましたわ」


「それは、答えになっていない」


「…」


「僕と出会う前から、誰かを王にしようとしていたのか。それとも…僕だから、こうしようと思ったのか」


 長い沈黙。


 リリアが、初めて視線を落とした。


「…両方、ですわ」


「両方?」


「王国を動かせる立場の人間が必要だった。…でも、エリック様だったから本気になりましたわ」


 エリックは、その言葉をゆっくりと飲み込んだ。


「…つまり、最初は手段だったが、途中から変わったということか」


「…そうかもしれませんわ」


「それが本音か?」


「…はい」


 店内が、静まり返った。


 ルチアーノが、ジョッキを持ったまま動かなかった。イリーナがカウンターの奥で、静かに息を飲んでいた。カイルは壁際で、視線だけを動かしていた。


「リリア様」


 レオノーラが、再び口を開いた。


「貴女の計画は、見事でしたわ。わたくしでも、気づくのに時間がかかった。ルチアーノでさえ、出し抜かれた」


「…ありがとうございますわ」


「ただ、一つだけ足りないものがありましたわ」


「何が足りませんでしたの」


「エリック殿下に、聞いていなかったことですわ。貴女が作ろうとしている王国を、殿下が望んでいるかどうか」


 リリアが、レオノーラを見た。


「…貴女には、関係のないことですわ」


「ええ、そうですわね。わたくしには関係ありませんわ」


 レオノーラは扇子を広げ、口元を隠した。


「ただ、わたくしはこう思いますわよ。最高のペアリングは、一方が一方のために完璧に設計したものではなく、二つが対等に向き合った時に生まれますわ」


「…麦酒の話をしているつもりですか」


「人の話ですわよ」


 リリアは、しばらくレオノーラを見つめていた。


「…貴女は、エリック様のことを心配しているのですか」


「いいえ、信じていますわ」


「違いますの?」


「心配と信頼は、違いますわよ。…心配は、相手が自分の思い通りに動かないかもしれないという不安から来ますわ。信頼は、どう動いても、その人であれば大丈夫だという確信から来ますわ」


 リリアが、その言葉の意味を考えるように黙った。


「…リリア」


 エリックが、静かに言った。


「お前が作ろうとしている王国に、僕の居場所はあるのか」


 リリアが、目を上げた。


「…エリック様のために、全部やっていますのよ」


「それは分かっている。…でも、僕が聞いているのはそうじゃない」


 エリックはリリアを真っ直ぐに見た。


「お前の計画の中の僕は…エリックという人間か。それとも、王という役割か」


 リリアが、答えられなかった。


 その沈黙は、長かった。


 やがてリリアが、絞り出すように言った。


「…最初は、役割でしたわ」


「ああ」


「でも」


 リリアの声が、少し変わった。計算ではない、何か別のものが滲み始めていた。


「エリック様が、禁酒法の後で変わっていくのを見て。レオノーラと話して、自分で考えて、自分で動いていくのを見て」


「…」


「…わたくし、怖くなりましたわ」


「怖い?」


「エリック様が、わたくしの計画を必要としなくなるかもしれないと。わたくしがいなくても、自分で立てるようになるかもしれないと。…そうなったら、わたくしは…」


 リリアが、そこで止まった。


 しかしその続きは、言葉にしなくても聞こえていた。


 そうなったら、わたくしは何のためにここにいるのかしら。


 エリックは黙って聞いていた。ジョッキに注がれたビールはまだ飲んでいない。


「…リリア」


「なんですの」


「お前が怖かったのは、僕が強くなることじゃなくて、僕がお前を必要としなくなることだろう」


 リリアの目が、揺れた。


「…それは、同じことですわ」


「違う」


 エリックは静かに、しかしはっきりと言った。


「僕が強くなっても、お前を必要としなくなるわけじゃない。…ただ、お前の計画の中の僕でいることは、できない。それだけだ」


「…どういう意味ですの」


「計画の中の王ではなく、お前の隣にいるエリックとしてお前と一緒に考えたかった。なぜ、最初から相談してくれなかったんだ」


 リリアは答えなかった。


 いや、答えられなかった。


 なぜ相談しなかったのか。相談したら、止められると思ったから。あるいは、相談する必要がないと思っていたから。エリックのために、全部自分でやる。それが愛情だと、ずっと思っていたから。


「リリア様」


 レオノーラが、静かに口を開いた。


「一つだけ、聞かせてくださいな」


「…なんですか」


「貴女は、エリック殿下に愛されたいのですか。それとも、エリック殿下を愛していたいのですか」


 リリアが、その問いを聞いて、長い間、黙っていた。


 店内の全員が、その答えを待っていた。


 やがてリリアが、静かに言った。


「…両方、ですわ」


「ええ」


「でも、もし、どちらか一つしか選べないとしたら」


「どちらですの?」


「…愛していたい、ですわ。たとえ、愛されなくても」


 誰も、何も言わなかった。


 リリアの目から、一筋の涙がこぼれた。それは、計算でも演技でもなくただの涙だった。


 エリックが、リリアの方を向いた。何か言おうとして、止めた。


 ルチアーノが、ジョッキを静かにテーブルに置いた。


 イリーナが、カウンターの奥で目を伏せた。


 カイルが、壁際で小さく息を吐いた。


 しばらくの静寂の後、レオノーラが口を開いた。


「リリア様」


「…なんですか」


「今夜、貴女のために作った一杯がありますわ」


 リリアが、レオノーラを見た。


「…わたくしのために?」


「ええ。…貴女が、まだ知らない一杯ですわよ」


「どんな一杯ですか」


「飲んでから、分かりますわよ」


 リリアは少し黙ってから、言った。


「…罠ではありませんの?」


「おーほっほっほ! 麦酒に罠なんてありませんわよ」


 ルチアーノが、遠くから静かに言った。


「リリア殿、わたしも最初は疑っていましたよ。でも、令嬢の一杯は、本物ですよ。わたしが保証します」


 エリックが、リリアを見た。


「…飲んでみてくれ、リリア」


 リリアはエリックを見た。それからレオノーラを見た。それから、自分の手を見た。


 やがて、小さく頷いた。


「…分かりましたわ」


 レオノーラは扇子を閉じ、カウンターへと向かった。


「イリーナ、お願いしますわ」


「…はい、お嬢様」


 イリーナが立ち上がり、冷却回路に手をかけた。


 今夜の一杯の準備が、始まった。

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