第19話 決戦(前編)
夜明け前の黄金の泡亭は、静かだった。
客はいない。灯りは最小限で、カウンターの上だけが薄く照らされている。その中で、レオノーラは一人ジョッキを磨いていた。
眠れなかった。
イリーナが帰ってくる日だと分かっていたから、というのもある。しかしそれだけではない。昨夜からずっと、頭の中で何かを探し続けていた。言葉ではない。形でもない。もっと感覚的な何か…今夜供すべき一杯の、輪郭のようなもの。
しかしまだ、見えていなかった。
夜明けの光が窓から差し込み始めた頃、馬車の音が聞こえてきた。
扉が開いた。
「…ただいま戻りましたわ、お嬢様」
イリーナが入ってきた。帝国の軍服に身を包み、旅の疲れが顔に出ている。しかしその目には何かを見つけてきた者の光があった。
「お帰りなさいまし」
レオノーラはジョッキを置き、カウンターから出た。
「座りなさいな。話を聞きますわ」
イリーナが帝国で見てきたことを、レオノーラは黙って聞いた。
王立醸造院の後任者。躊躇いがちに打ち明けられた書状の内容。そして、帝国の宮廷の一部の人間の署名。
「…書状には、何と書いてありましたの?」
「『イリーナ・フロストヴァルトを帝国へ帰還させるよう説得してほしい。帝国の醸造院には、彼女の技術が必要だ。グランツェル王国との契約は、帝国側から正式に破棄できる』とありましたわ」
「帝国の宮廷の署名が添えられていた、ということは」
「リリア様は、帝国の内部にも既に手を伸ばしていたということですわ。…ヴェネルカで学んでいた頃から、帝国にも接触していたのかもしれません」
レオノーラは扇子を手に取り、開かずに持ったまま、しばらく考えた。
「…イリーナを引き戻すことで、リリア様はわたくしの何を奪おうとしていたのかしら」
「冷却技術だけではないと思いますわ」
「では?」
「…お嬢様の、一番の理解者ですわ」
イリーナは静かに続けた。
「わたくしは、お嬢様の麦酒が何を求めているか、誰より分かっていますわ。どの温度で引き締めれば香りが最大に開くか、どのタイミングで対流を起こせばホップの苦みが甘みに変わるか。…それを知っているのは、わたくしだけですわ。それを奪えば」
「わたくしの麦酒が、変わる」
「ええ。完全には変わらなくても、少しずつ精度が落ちていく。やがて…」
「やがて、今の一杯が出せなくなる」
二人の間に、沈黙が流れた。
窓の外で、王都が朝の光の中で動き始めていた。荷馬車の音、市場の声、どこかで鍛冶屋が火を起こす音。いつもと変わらない朝の音が、今日は少し遠く聞こえた。
「…リリア様の計画、全部見えましたわ」
レオノーラは立ち上がり、カウンターの端から端まで、ゆっくりと歩いた。
「禁酒法で物流を止めた。ルチアーノの情報網を手に入れ、各国との交渉ルートを確保した。帝国を通じてイリーナを引き戻そうとした。エリック殿下の名義で海路提携を進めようとした。…一つ一つは、小さな手ですわ」
「でも全部繋げると」
「王国の全てが、リリア様の手の中に入りますわ。物流、外交、冷却技術、そして王室の権威。…それを握った王妃が、実質的に王国を動かす」
イリーナが静かに言った。
「見事な設計ですわ。感情ではなく、全部合理的に積み上げている。…レオノーラ様、正直に申しますが、わたくし、リリア様を少し尊敬しましたわ」
「わたくしもですわ」
「え?」
「あれだけの計画を、あれだけ長い時間をかけて、誰にも気づかれずに積み上げてきた。…尊敬しますわよ、本当に」
レオノーラは扇子を閉じた。
「ただ、一つだけ計算が外れていますわ」
「エリック殿下が変わったこと、ですわね」
「ええ。禁酒法の件で、殿下は変わった。わたくしも変えるつもりはなかったのですが、気づいたら、変わっていましたわ」
イリーナが、珍しく柔らかい顔で言った。
「…それは、お嬢様の麦酒のせいではないですか」
「どういう意味ですの」
「本物に触れた人間は、変わりますわ。それが、お嬢様の麦酒の力ですわ」
レオノーラは少し黙ってから、小さく笑った。
「…買いかぶりすぎですわよ」
「そうは思いませんわ」
カイルを呼んだのは、それから間もなくのことだった。
「エリック殿下とリリア様に、別々に伝えてくださいな。今夜、黄金の泡亭に来てほしいと」
「両方に?」
「ええ。ただし、別々に。どちらにも、もう一方に伝えたとは言わないでくださいな」
「…了解した」
カイルが出ていった後、イリーナが聞いた。
「今夜、全部決着をつけるつもりですか」
「ええ」
「どうやって?」
レオノーラはカウンターの奥に視線を向けた。並んだ樽と、磨き上げられたジョッキと、イリーナの冷却回路が静かに稼働しているコンテナ。
「…一杯で、ですわ」
「どんな一杯ですか」
「まだ、決まっていませんわ。…でも今日中に、決めますわよ」
その日、レオノーラはずっと考えていた。
これまで作ってきた全ての一杯を、頭の中で並べた。
グスタフ王を落としたアイスボック。あの一杯は、長年の重荷を洗い流すための「鉄血の休息」だった。
イリーナに飲ませた、温度の対流を用いた一杯。あれは、「静止した極寒の向こう側」を見せるためのものだった。
修道院で飲んだトラピスト・トリプル・エール。あれは、自分が初めて「完敗」を認めた一杯だった。
サフラン女王のために作った超炭酸のドライ・ラガー。あれは、灼熱の炎に打ち勝つための「氷の刃」だった。
それぞれが、それぞれの相手のために、その人の喉が求めているものを見極めて作った一杯だ。
では、リリアのための一杯は…どんなものか。
「…イリーナ、一つ聞いてもよろしいですか」
「なんですの」
「リリア様は、麦酒を飲んだことがありますの? 泡亭に来た時に、何を飲んでいましたかしら」
イリーナが少し考えた。
「…飲んでいましたわ。ただ何を飲んでいたか、正直あまり覚えていませんわ。いつも、エリック殿下の隣で、小さなグラスで」
「どんな表情で飲んでいましたの?」
「…覚えていませんわ。いつも、エリック殿下の方を向いていましたから」
レオノーラは、その言葉を聞いてしばらく黙っていた。
「…リリア様は、自分のために飲んだことがないのかもしれませんわ」
「どういう意味ですか?」
「ずっと、エリック殿下のために動いてきた。エリック殿下のために計画し、エリック殿下のために戦い、エリック殿下のために笑ってきた。…では、リリア様自身は何が好きですの? 何を飲みたいですの? それを、ご存知かしら」
イリーナが、静かに言った。
「…知らないかもしれませんわ」
「ええ」
レオノーラは扇子を広げ、口元を隠した。
「だとすれば…今夜の一杯は、リリア様が初めて『自分のために』飲む一杯にしなければなりませんわ」
「そんな一杯が、作れますの? 相手の好みも分からないのに」
「好みに合わせるのではありませんわ。…相手が、まだ知らない自分の好みを引き出す一杯ですわ」
「…どういう意味ですか」
「人間には、自分でも気づいていない喉がありますわ。ずっと誰かのために生きてきた人間には、特に。…その喉に、初めて届く一杯を作りますわよ」
一方、王宮では。
カイルから書状を受け取ったエリックが、しばらくそれを眺めていた。
今夜、黄金の泡亭へ来てほしい。
「…行く」
迷いはなかった。
隣の部屋では、リリアが書状を受け取っていた。
「…そうですか。レオノーラが、呼んでいますのね」
カイルが頷くのを見て、リリアは微笑んだ。
「分かりましたわ。伺いますわ」
カイルが出ていった後、リリアは一人になった。
窓の外の王都を見た。あの街のどこかで、レオノーラが今日一日、一杯を考えているはずだ。
来た、とリリアは思った。
ついに来た。
しかし、怖くはなかった。むしろ、どこかで待ち望んでいた気がした。これだけの計画を積み上げてきて、最後にレオノーラと正面から向き合えるならそれで良い。
「…最後まで、やり切りますわ」
静かに呟き、支度を始めた。
夕暮れの黄金の泡亭で、レオノーラはイリーナに今夜の一杯の設計を伝えていた。
イリーナが静かに聞き、最後に頷いた。
「…できますわ。ただ、難しいですわよ。温度の設定を一度でも間違えれば、全く別の味になりますわ」
「ええ、分かっていますわ」
「なぜ、これなんですか。もっと確実な一杯があるはずですわ」
「確実な一杯では、だめですわ」
「なぜ?」
レオノーラは窓の外を見た。夕暮れの光が、王都の石畳を赤く染めていた。
「確実な一杯は、わたくしの技術を見せる一杯ですわ。…でも今夜は、そういう夜ではありませんわ。今夜の一杯はリリア様が初めて、自分自身に出会う一杯でなければなりませんの」
「…それが、ビールで決着をつける、ということですか」
「ええ」
レオノーラは扇子を閉じ、カウンターに向かった。
「さあ、準備しますわよ、イリーナ。…今夜、全員が揃いますわ」
外が暗くなり始めていた。
レオノーラはジョッキを手に取り、磨き始めた。その手が、いつもより丁寧に、ゆっくりと動いていた。




