第18話 見えてきた輪郭(後編)
エリックがカイルに頼んだのは、翌日のことだった。
黄金の泡亭ではなく、王宮の廊下で、すれ違いざまに声をかけた。
「カイル、少し時間があるか」
カイルが足を止めた。エリックから直接声をかけられたのは、初めてのことだ。
「…何だ」
「リリアのことを、調べてほしい。宮廷に来る前の経歴を」
カイルはしばらくエリックを見た。その目に、何を考えているのかを測るような光があった。
「…本当に調べるか」
「ああ。…遅すぎたかもしれないが」
「レオノーラには話してあるのか」
「昨夜、話した」
カイルは短く頷いた。それ以上は何も言わず、廊下を歩いていった。
数日後、カイルが戻ってきた。
場所は王宮の外れにある、人気のない小部屋だった。エリックが指定した場所だ。リリアに気づかれないよう、という配慮だった。
「調べてきた」
「どうだった」
カイルは報告書を取り出した。しかし読み上げる前に、一度エリックを見た。
「…心の準備はできているか」
「してある。話してくれ」
「リリアの実家は、王都から遠い地方の小貴族だ。それは分かっていた通りだ。しかし三年前に宮廷舞踏会に現れる前の六年間…リリアの記録が、ほとんど残っていない」
「六年間?」
「実家にも帰っていない。どこにいたか、誰と会っていたか、記録がきれいに消えている」
エリックは、しばらく黙っていた。
「…消されたのか」
「そう考えるのが自然だ。偶然消えるような量ではない」
「…六年間、何をしていたんだ」
「それが…一つだけ、痕跡があった」
カイルが続けた。
「ある商会の記録に、リリアと同じ名前の女性が一時期関わっていた形跡がある。小さな貿易商会だ。…その商会は、今はもう存在しない」
「どこの商会だ」
「…ヴェネルカだ」
エリックの手が、膝の上で止まった。
「ルチアーノと、繋がりがあったのか」
「繋がりがあったかどうかは分からない。ただ、同じ街にいた時期がある。…それからもう一つ」
「まだあるのか」
「商会の元部下が、当時のことを覚えていた。…リリアと同じ名の女性は、自分から来ていたと言っていた。熱心で、頭が良くて、しかし何のために学んでいるのか、誰にも話さなかった、と」
エリックは、その言葉を聞いて目を閉じた。
六年間の空白。ヴェネルカでの学習。消された記録。自分から動いていた。
「…リリアは、僕に会う前から、こういうことをしていたんだな」
「…そう考えるのが、自然だ」
「じゃあ…」
エリックは、そこで言葉を止めた。
続きは言わなかった。言えなかった。
しかしカイルには、その続きが聞こえていた。
じゃあ、僕と出会ったのも、最初から、計画の一部だったのか。
「…令嬢に話した方がいい」
カイルが静かに言った。
「ああ」
エリックは立ち上がり、報告書をカイルに返した。
黄金の泡亭に、エリックが来たのは夕刻だった。
カウンターに座り、レオノーラに報告した。六年間の空白、消された記録、ヴェネルカの商会、そして「自分から来ていた」という証言。
レオノーラは黙って聞いた。
話し終えたエリックが、ジョッキを手の中で転がしながら言った。
「…リリアは、最初から計画していたんだな」
「そう思いますわ」
「…ヴェネルカで学んでいたということは、ルチアーノと何か繋がりがある可能性もある?」
「それを、これから確認しますわ」
「どうやって」
「ルチアーノに聞きますわよ。直接」
エリックは少し黙ってから、言った。
「…レオノーラ、一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「リリアは…僕を、愛していると思うか」
レオノーラは、その問いを聞いて、すぐには答えなかった。
しばらく、磨いていたジョッキを見つめた。
「…愛していると思いますわ」
「本当に?」
「ええ。…ただ」
「ただ?」
「愛しているから、こそ、ですわ。エリック殿下に最強の王になってほしいから、そのために動いている。…愛情と野望が、リリア様の中では切り離せないのですわ」
エリックは、その言葉をゆっくりと飲み込んだ。
「…それは、正しいのか。間違っているのか」
「…わたくしには、判断できませんわ。そして…」
「エリック殿下が、その愛し方で良いかどうかを決めることですわ。…わたくしが決めることではありませんわよ」
エリックは、ジョッキを空にした。
立ち上がりながら、一言だけ言った。
「…ありがとう」
それだけだった。しかしレオノーラには、それがどれほどの重みを持つ言葉か、分かった。
翌日、ルチアーノが黄金の泡亭を訪れた。
レオノーラからの書状を受け取ってから、半日も経っていなかった。それだけ、この件を重く見ているということだ。
「令嬢、書状を読みましたよ。…ヴェネルカにいた頃、リリアという名の女性を知っていたか、という問いでしたね」
「ええ」
「知っていましたよ」
レオノーラの手が、一瞬止まった。
「やはり」
「ただし、わたしが直接関わったわけではない。部下の商会に、一時期出入りしていた女性だ。当時は名前も覚えていなかった。…今回の件で、同一人物だと気づきましたよ」
「ヴェネルカで、何を学んでいたと思いますの?」
ルチアーノが少し考えてから答えた。
「商売の裏側、ですかね。情報の集め方、契約の抜け穴の見つけ方、相手の弱点の探し方。…わたしの商会は、それが得意でしたから」
「誰かに頼まれて、出入りしていたと思いますの?」
「…いや」
ルチアーノが、珍しく真剣な顔をした。
「自分から来ていた、と部下は言っていた。熱心で、頭が良くて、しかし何のために学んでいるのか、誰にも話さなかった、と」
「…最初から、自分の意志で動いていた」
「ええ。…それから令嬢、もう一つある」
「なんでしょう」
「あの女が送った書状の宛先、わたしの情報網で調べましたよ」
レオノーラが、目を上げた。
「どこですの?」
「北方…氷結帝国です」
レオノーラの扇子を持つ手が、わずかに止まった。
ルチアーノが続けた。
「具体的な宛先までは分からなかった。ただ、帝国の王都へ向けて発送されたことは確かです」
「…帝国に、リリア様の繋がりがあるということですわね」
「あるいは作ろうとしているのかもしれない」
ルチアーノが帰った後、レオノーラはイリーナを呼んだ。
テーブルに向かい合って座り、静かに告げた。
「リリア様が、氷結帝国へ書状を送りましたわ」
イリーナの表情が、変わった。
「…わたくしの、故郷ですわね」
「ええ」
「帝国に、リリア様の繋がりがあるということですか」
「あるいは、貴女を通じて何かをしようとしているのかもしれませんわ」
イリーナが、拳を握った。
「…わたくしに、接触が来るかもしれませんわね」
「ええ。…来たら、教えてくださいな」
「当然ですわ」
イリーナはしばらく黙っていた。窓の外の夕暮れが、執務室の床に長い影を作っている。
「…お嬢様、一つ決めましたわ」
「なんですの」
「この件が終わったら、帝国へ一度帰りますわ。…リリア様が帝国に何を仕込んでいるか、直接確かめてきますわ」
レオノーラは、イリーナを見た。
「…危険かもしれませんわよ」
「分かっています。ただ、わたくしの故郷のことは、わたくしが確かめますわ。…お嬢様に任せておけない案件もありますわよ」
「それは、どういう意味ですの」
「お嬢様は、帝国語が話せませんわ」
レオノーラは一瞬だけ黙り、それから扇子を広げた。
「おーほっほっほ! それはそうですわね」
「笑い事ではありませんわよ」
「分かっていますわ。…頼りにしていますわよ、イリーナ」
イリーナは立ち上がり、設計図を手に取った。いつもの動作だが、その背筋が、いつもより少しだけ真っ直ぐだった。
その夜、エリックはリリアと夕食をともにしていた。
いつもと変わらない時間だった。リリアが話し、エリックが相槌を打ち、二人で笑う。三年間、繰り返してきた光景だ。
しかし今夜のエリックは、その光景を少し遠いところから見ている自分に気づいていた。
「エリック様、どうかなさいましたか? 今夜は少し、お顔が優れないようですわ」
「…いや、何でもない」
「本当に? 何か、お悩みのことがあれば、相談してくださいまし」
リリアの声は、いつも通り柔らかかった。その目が、いつも通り心配そうに向けられていた。
エリックは、その顔を見た。
三年間、見てきた顔だ。宮廷舞踏会で初めて会った時の、赤くなって俯いた顔。泣きながらレオノーラへの不満を訴えてきた顔。エリックの隣でいつも微笑んでいた顔。
それが本物なのか、そうでないのか。
エリックには、今もまだ分からなかった。
しかし一つだけ、分かっていることがあった。
どちらであっても、自分はリリアを…
「…なんでもない。疲れているだけだ」
「そうですか。…早く休んでくださいまし、エリック様」
リリアが微笑んだ。
エリックは頷いた。
その夜、二人の間に流れた静けさは、いつもと同じ静けさに見えた。しかしその底で、何かが確実に変わり始めていた。
翌朝、リリアは一人で窓の外を見ていた。
侍女が「昨夜、ルチアーノ総督が黄金の泡亭を訪れたようです」という報告を持ってきた。
リリアはそれを聞き、静かに頷いた。
「そうですか。…ありがとう、下がっていいわ」
侍女が出ていった後、リリアは机へと向かった。
広げたのは、帝国への書状の写しだ。返事は、まだ来ていない。しかし来る。必ず来る。
リリアはその写しを眺めながら、静かに考えた。
ルチアーノがレオノーラに話した。エリックがカイルに調べさせた。レオノーラとイリーナが、帝国への書状に気づいた。
全部、分かっていた。
全部、予定通りだった。
リリアは写しを折り畳み、引き出しの中にしまった。
窓の外の王都が、朝の光の中で動き始めている。どこかの酒場から、開店の準備をする音が聞こえてきた。
「…レオノーラ」
独り言のように呟いた。
「…次は、わたくしが舞台を作りますわ」
リリアは立ち上がり、新しい一枚の紙を取り出した。




