表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/39

第18話 見えてきた輪郭(後編)

 エリックがカイルに頼んだのは、翌日のことだった。


 黄金の泡亭ではなく、王宮の廊下で、すれ違いざまに声をかけた。


「カイル、少し時間があるか」


 カイルが足を止めた。エリックから直接声をかけられたのは、初めてのことだ。


「…何だ」


「リリアのことを、調べてほしい。宮廷に来る前の経歴を」


 カイルはしばらくエリックを見た。その目に、何を考えているのかを測るような光があった。


「…本当に調べるか」


「ああ。…遅すぎたかもしれないが」


「レオノーラには話してあるのか」


「昨夜、話した」


 カイルは短く頷いた。それ以上は何も言わず、廊下を歩いていった。



 数日後、カイルが戻ってきた。


 場所は王宮の外れにある、人気のない小部屋だった。エリックが指定した場所だ。リリアに気づかれないよう、という配慮だった。


「調べてきた」


「どうだった」


 カイルは報告書を取り出した。しかし読み上げる前に、一度エリックを見た。


「…心の準備はできているか」


「してある。話してくれ」


「リリアの実家は、王都から遠い地方の小貴族だ。それは分かっていた通りだ。しかし三年前に宮廷舞踏会に現れる前の六年間…リリアの記録が、ほとんど残っていない」


「六年間?」


「実家にも帰っていない。どこにいたか、誰と会っていたか、記録がきれいに消えている」


 エリックは、しばらく黙っていた。


「…消されたのか」


「そう考えるのが自然だ。偶然消えるような量ではない」


「…六年間、何をしていたんだ」


「それが…一つだけ、痕跡があった」


 カイルが続けた。


「ある商会の記録に、リリアと同じ名前の女性が一時期関わっていた形跡がある。小さな貿易商会だ。…その商会は、今はもう存在しない」


「どこの商会だ」


「…ヴェネルカだ」


 エリックの手が、膝の上で止まった。


「ルチアーノと、繋がりがあったのか」


「繋がりがあったかどうかは分からない。ただ、同じ街にいた時期がある。…それからもう一つ」


「まだあるのか」


「商会の元部下が、当時のことを覚えていた。…リリアと同じ名の女性は、自分から来ていたと言っていた。熱心で、頭が良くて、しかし何のために学んでいるのか、誰にも話さなかった、と」


 エリックは、その言葉を聞いて目を閉じた。


 六年間の空白。ヴェネルカでの学習。消された記録。自分から動いていた。


「…リリアは、僕に会う前から、こういうことをしていたんだな」


「…そう考えるのが、自然だ」


「じゃあ…」


 エリックは、そこで言葉を止めた。


 続きは言わなかった。言えなかった。


 しかしカイルには、その続きが聞こえていた。


 じゃあ、僕と出会ったのも、最初から、計画の一部だったのか。


「…令嬢に話した方がいい」


 カイルが静かに言った。


「ああ」


 エリックは立ち上がり、報告書をカイルに返した。





 黄金の泡亭に、エリックが来たのは夕刻だった。


 カウンターに座り、レオノーラに報告した。六年間の空白、消された記録、ヴェネルカの商会、そして「自分から来ていた」という証言。


 レオノーラは黙って聞いた。


 話し終えたエリックが、ジョッキを手の中で転がしながら言った。


「…リリアは、最初から計画していたんだな」


「そう思いますわ」


「…ヴェネルカで学んでいたということは、ルチアーノと何か繋がりがある可能性もある?」


「それを、これから確認しますわ」


「どうやって」


「ルチアーノに聞きますわよ。直接」


 エリックは少し黙ってから、言った。


「…レオノーラ、一つ聞いていいか」


「どうぞ」


「リリアは…僕を、愛していると思うか」


 レオノーラは、その問いを聞いて、すぐには答えなかった。


 しばらく、磨いていたジョッキを見つめた。


「…愛していると思いますわ」


「本当に?」


「ええ。…ただ」


「ただ?」


「愛しているから、こそ、ですわ。エリック殿下に最強の王になってほしいから、そのために動いている。…愛情と野望が、リリア様の中では切り離せないのですわ」


 エリックは、その言葉をゆっくりと飲み込んだ。


「…それは、正しいのか。間違っているのか」


「…わたくしには、判断できませんわ。そして…」


「エリック殿下が、その愛し方で良いかどうかを決めることですわ。…わたくしが決めることではありませんわよ」


 エリックは、ジョッキを空にした。


 立ち上がりながら、一言だけ言った。


「…ありがとう」


 それだけだった。しかしレオノーラには、それがどれほどの重みを持つ言葉か、分かった。




 翌日、ルチアーノが黄金の泡亭を訪れた。


 レオノーラからの書状を受け取ってから、半日も経っていなかった。それだけ、この件を重く見ているということだ。


「令嬢、書状を読みましたよ。…ヴェネルカにいた頃、リリアという名の女性を知っていたか、という問いでしたね」


「ええ」


「知っていましたよ」


 レオノーラの手が、一瞬止まった。


「やはり」


「ただし、わたしが直接関わったわけではない。部下の商会に、一時期出入りしていた女性だ。当時は名前も覚えていなかった。…今回の件で、同一人物だと気づきましたよ」


「ヴェネルカで、何を学んでいたと思いますの?」


 ルチアーノが少し考えてから答えた。


「商売の裏側、ですかね。情報の集め方、契約の抜け穴の見つけ方、相手の弱点の探し方。…わたしの商会は、それが得意でしたから」


「誰かに頼まれて、出入りしていたと思いますの?」


「…いや」


 ルチアーノが、珍しく真剣な顔をした。


「自分から来ていた、と部下は言っていた。熱心で、頭が良くて、しかし何のために学んでいるのか、誰にも話さなかった、と」


「…最初から、自分の意志で動いていた」


「ええ。…それから令嬢、もう一つある」


「なんでしょう」


「あの女が送った書状の宛先、わたしの情報網で調べましたよ」


 レオノーラが、目を上げた。


「どこですの?」


「北方…氷結帝国です」


 レオノーラの扇子を持つ手が、わずかに止まった。


 ルチアーノが続けた。


「具体的な宛先までは分からなかった。ただ、帝国の王都へ向けて発送されたことは確かです」


「…帝国に、リリア様の繋がりがあるということですわね」


「あるいは作ろうとしているのかもしれない」




 ルチアーノが帰った後、レオノーラはイリーナを呼んだ。


 テーブルに向かい合って座り、静かに告げた。


「リリア様が、氷結帝国へ書状を送りましたわ」


 イリーナの表情が、変わった。


「…わたくしの、故郷ですわね」


「ええ」


「帝国に、リリア様の繋がりがあるということですか」


「あるいは、貴女を通じて何かをしようとしているのかもしれませんわ」


 イリーナが、拳を握った。


「…わたくしに、接触が来るかもしれませんわね」


「ええ。…来たら、教えてくださいな」


「当然ですわ」


 イリーナはしばらく黙っていた。窓の外の夕暮れが、執務室の床に長い影を作っている。


「…お嬢様、一つ決めましたわ」


「なんですの」


「この件が終わったら、帝国へ一度帰りますわ。…リリア様が帝国に何を仕込んでいるか、直接確かめてきますわ」


 レオノーラは、イリーナを見た。


「…危険かもしれませんわよ」


「分かっています。ただ、わたくしの故郷のことは、わたくしが確かめますわ。…お嬢様に任せておけない案件もありますわよ」


「それは、どういう意味ですの」


「お嬢様は、帝国語が話せませんわ」


 レオノーラは一瞬だけ黙り、それから扇子を広げた。


「おーほっほっほ! それはそうですわね」


「笑い事ではありませんわよ」


「分かっていますわ。…頼りにしていますわよ、イリーナ」


 イリーナは立ち上がり、設計図を手に取った。いつもの動作だが、その背筋が、いつもより少しだけ真っ直ぐだった。




 その夜、エリックはリリアと夕食をともにしていた。


 いつもと変わらない時間だった。リリアが話し、エリックが相槌を打ち、二人で笑う。三年間、繰り返してきた光景だ。


 しかし今夜のエリックは、その光景を少し遠いところから見ている自分に気づいていた。


「エリック様、どうかなさいましたか? 今夜は少し、お顔が優れないようですわ」


「…いや、何でもない」


「本当に? 何か、お悩みのことがあれば、相談してくださいまし」


 リリアの声は、いつも通り柔らかかった。その目が、いつも通り心配そうに向けられていた。


 エリックは、その顔を見た。


 三年間、見てきた顔だ。宮廷舞踏会で初めて会った時の、赤くなって俯いた顔。泣きながらレオノーラへの不満を訴えてきた顔。エリックの隣でいつも微笑んでいた顔。


 それが本物なのか、そうでないのか。


 エリックには、今もまだ分からなかった。


 しかし一つだけ、分かっていることがあった。


 どちらであっても、自分はリリアを…


「…なんでもない。疲れているだけだ」


「そうですか。…早く休んでくださいまし、エリック様」


 リリアが微笑んだ。


 エリックは頷いた。


 その夜、二人の間に流れた静けさは、いつもと同じ静けさに見えた。しかしその底で、何かが確実に変わり始めていた。




 翌朝、リリアは一人で窓の外を見ていた。


 侍女が「昨夜、ルチアーノ総督が黄金の泡亭を訪れたようです」という報告を持ってきた。


 リリアはそれを聞き、静かに頷いた。


「そうですか。…ありがとう、下がっていいわ」


 侍女が出ていった後、リリアは机へと向かった。


 広げたのは、帝国への書状の写しだ。返事は、まだ来ていない。しかし来る。必ず来る。


 リリアはその写しを眺めながら、静かに考えた。


 ルチアーノがレオノーラに話した。エリックがカイルに調べさせた。レオノーラとイリーナが、帝国への書状に気づいた。


 全部、分かっていた。


 全部、予定通りだった。


 リリアは写しを折り畳み、引き出しの中にしまった。


 窓の外の王都が、朝の光の中で動き始めている。どこかの酒場から、開店の準備をする音が聞こえてきた。


「…レオノーラ」


 独り言のように呟いた。


「…次は、わたくしが舞台を作りますわ」


 リリアは立ち上がり、新しい一枚の紙を取り出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ