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第18話 見えてきた輪郭(前編)

 ルチアーノが黄金の泡亭を訪れた翌朝、レオノーラは執務室にイリーナを呼んだ。


 テーブルの上に広げたのは、ルチアーノから受け取った資料の写しだ。各国の港の名前、物流量、主要な取引先、契約条件。それが細かく、しかし整然と書き込まれている。


「…これを見てどう思いますの、イリーナ」


 イリーナは資料を手に取り、しばらく眺めた。


「物流の記録ですわね。ヴェネルカが各国と結んでいる契約の詳細。…ルチアーノが三十年かけて作ったものですか」


「ええ。これをリリア様が、三週間で手に入れた」


「…三週間で」


 イリーナは資料を置き、腕を組んだ。


「どうやって?」


「書記官を使いましたわ。ルチアーノの側近に、もともと王宮の第三書記局出身の人間がいた。…その人物を三ヶ月前から仕込んでいたということは、少なくとも三ヶ月前には今回の動きを計画していたということですわ」


「三ヶ月前というと…」


「禁酒法が出る前ですわ」


 イリーナの目が、細くなった。


「…つまり、禁酒法とルチアーノへの接触は、同じ計画の一部だったと?」


「そうとは断言できませんわ。…ただ、時系列を並べると、そう見えますわ」


 レオノーラは資料の一点を指で示した。


「イリーナ、これを見てくださいな。各国の港の記録だけではありませんわ。何を輸入しているか、どの季節に輸送量が増えるか、どの取引先に最も依存しているか、全部書いてありますわ」


「…ええ。貿易の詳細な記録ですわ」


「これは、物流の地図ではありませんわよ」


 レオノーラは資料から目を上げた。


「各国の権力者が、どの港を通じて何を輸入しているか分かれば、誰が誰に依存しているかも分かる。どの国の喉元を押さえれば、その国が動くかも分かる。…これは、権力の地図ですわ」


 イリーナが、静かに息を吐いた。


「…リリア様は、それを手に入れた」


「ええ」


「…エリック殿下の名義で、各国と直接交渉するために」


「そうですわ。王室が各国の物流の一部を握れば」


「王妃が、実質的な外交権を持てる」


 二人の間に、沈黙が流れた。


 窓の外では、王都の朝が動き始めていた。荷馬車の音、市場の声、どこかで鍛冶屋が鉄を叩く音。いつもと変わらない朝の音が、今日は少し遠く聞こえた。


「…お嬢様、一つ聞いてもよろしいですか」


 イリーナが、腕を組んだまま言った。


「なんですの」


「リリア様は、エリック殿下を本当に愛していると思いますか」


 レオノーラは少し考えた。


「…愛していますわよ。それは本物だと思いますわ」


「では、なぜこんなことを」


「愛しているから、ですわ」


 イリーナが、目を上げた。


「エリック殿下に、最強の王になってほしい。そのために、自分が全ての力を集める。…あの方の中では、愛情と野望が分離していないのかもしれませんわ」


「…」


「愛しているから、その人のために世界を動かしたい。それは」


 イリーナが静かに続けた。


「お嬢様と、似ていますわね」


 レオノーラの扇子が、止まった。


「…どういう意味ですの」


「お嬢様も、麦酒を愛しているから世界を征服しようとしていますわ。愛情と野望が、分離していない」


 レオノーラはしばらく黙っていた。


「…違いますわよ」


「どこがですか」


「わたくしは、誰かのためにやっているのではありませんわ。ただ、自分が美味いと思った一杯を、世界中に届けたいだけ。…リリア様は、エリック殿下のためにやっている。そこが、根本的に違いますわ」


「…その違いが、どう影響しますの?」


「エリック殿下が、リリア様の望む方向に動かなかった時どうなるかしら」


 イリーナが、その言葉の意味を、ゆっくりと飲み込んだ。


「…エリック殿下は、禁酒法の件でレオノーラ様と話してから、変わり始めていますわ」


「ええ」


「…リリア様は、それに気づいていると思いますか」


「気づいていますわよ。あの方は、全部見えていますもの」


「では…」


「だから、急いでいるのですわ」




 その頃、王宮の一室では。


 リリアがエリックに向かって、穏やかに話していた。


「エリック様、以前の海路提携の件ですが、改めてお伝えしたいことがありますわ」


「…ああ」


「王室が海路を直接管理すれば、レオノーラ様に頼らない物流が作れますわ。…それは、殿下が王国を自分の手で動かす第一歩になりますのよ」


 エリックは、書類から目を上げた。


 以前と同じ提案だ。角度は少し変わっているが、本質は同じだ。そしてレオノーラから「保留に」と言われている。


「…少し、時間をくれ」


「もちろんですわ」リリアは微笑んだ。「…ただ、殿下。一つだけ聞いてもよろしいですか」


「何だ」


「レオノーラ様から、この話について何か言われましたか」


 エリックは、一瞬だけ間を置いた。


 その一瞬で、リリアは答えを得た。


「…そうですか。レオノーラ様は、殿下に保留にするよう言いましたのね」


「…聞いていたのか」


「いいえ、聞いていませんわ。…ただ、分かりましたわ」


 リリアは微笑んだまま、話題を変えた。エリックへの次の提案へと、滑らかに移っていく。


 しかしエリックは、話を聞きながら、別のことを考えていた。


 リリアは、聞いていないのに分かった。


 それはつまり…予測していた、ということだ。


 レオノーラが保留にするよう言う、ということを。最初から、そうなると分かっていた。


 では、リリアはいつから、そこまで先を読めるようになったのか。


 あるいはずっと、そうだったのか。


 リリアが部屋を出た後、エリックはしばらく書類の前で動かなかった。


 三年前、宮廷舞踏会でリリアと初めて会った時のことを思い出した。華やかな舞踏会の片隅で、少し緊張した様子で壁際に立っていた。目が合うと、赤くなって俯いた。あの顔が本物だったのか、作られたものだったのか。


 分からない。


 しかし今日、リリアが「聞いていないのに分かった」という瞬間の、あの目。


 あれは、緊張した令嬢の目ではなかった。


 エリックは立ち上がり、執務室を出た。廊下を歩きながら、一つのことを考えていた。


 カイルに頼もう。


 レオノーラの傍にいる騎士団長は、情報収集が得意だという話は聞いていた。直接頼むのは、少し躊躇われた。しかし、他に思いつく人間がいなかった。


 黄金の泡亭に、エリックが現れたのは、その日の夕刻だった。


 珍しいことに、カウンターではなく、入口近くの目立たない席に座った。リリアはいない。一人だ。


「…一杯もらえるか」


「どうぞ」


 レオノーラがいつもの一杯を注いで、カウンター越しに渡した。エリックはそれを受け取り、一口飲んだ。


「…一つ、聞いていいか」


「どうぞ」


「リリアは、最初からレオノーラが保留にするよう僕に言うと分かっていた。…そうだろう」


 レオノーラは答えなかった。しかし、その沈黙が答えだった。


「…リリアは、いつからそんなに先を読めるようになったんだ」


「…殿下、リリア様とは、いつ出会いましたの?」


「三年前だ。父上の宮廷舞踏会で」


「その前の、リリア様のことをご存知ですか」


 エリックが、首を振った。


「…知らない。実家がどこかは知っているが、それ以外は」


「では、調べてみてはいかがですか」


 エリックが、レオノーラの顔を見た。


「…それは、どういう意味だ」


「わたくしには、まだ見えていないものがありますわ。…殿下には、わたくしより早く見えるものがあるかもしれませんわよ」


 エリックは、しばらくジョッキを見つめていた。


 それから、静かに立ち上がった。


「…カイルに、頼もうと思っていた」


「ええ、それが良いと思いますわ」


「…カイルは、引き受けてくれるだろうか」


「引き受けますわよ。…ただ、殿下」


 レオノーラは、エリックが扉へ向かう背中に向けて、静かに言った。


「調べて、見えてきたものが辛いものだったとしても、目を逸らさないでくださいな」


 エリックは足を止めた。


 振り返らなかった。しかし、肩が少し動いた。


「…分かった」


 扉が閉まった。


 店内に静寂が戻った。


 イリーナが奥の席から立ち上がり、カウンターへと歩み寄った。


「…エリック殿下、変わりましたわね」


「ええ」


「三ヶ月前には、あんな顔をする人間ではありませんでしたわ」


「そうですわね」


 レオノーラはジョッキを磨きながら、窓の外を見た。エリックの背中が、王都の夕暮れの中に消えていく。


「…お嬢様、一つ聞いてもよろしいですか」


「なんですの」


「エリック殿下が調べて、リリア様の全てが見えてきた時殿下は、どちらを選ぶと思いますか」


 レオノーラは、しばらく黙っていた。


「…どちらも、ですわ」


「どちらも?」


「エリック殿下は、リリア様を愛しているし、王国を守りたいとも思っている。…どちらかを捨てることは、できませんわよ、あの方には」


「では、どうなりますの?」


「…それは、殿下が自分で決めることですわ」


 レオノーラはジョッキを置いた。


「わたくしにできるのは、その判断をするための材料を揃えることだけですわ。…あとは、殿下の問題ですわよ」


 イリーナは、その言葉をしばらく咀嚼してから、静かに頷いた。


「…お嬢様は、エリック殿下を信じているんですわね」


「ええ」


「以前は、そんなことを言いませんでしたわよ」


「殿下とは長い付き合いですから」


 レオノーラは小さく笑った。


「あれだけ巧妙な設計をできる人間が、ただの噛ませ犬なはずがありませんわ。…時間がかかりましたが、ようやく分かりましたわよ」


 夕暮れの光が、カウンターの上のジョッキを赤く染めていた。


 その光の中で、レオノーラはまた一つジョッキを手に取り、磨き始めた。


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