第16話 禁酒法発令(後編)
翌朝、レオノーラは一人で王宮へ向かった。
カイルは店の前まで送ってきたが、それ以上はついてこなかった。約束通りだ。レオノーラは振り返らずに歩いた。秋の朝の空気が、頬に冷たい。
王宮の第三書記局で審査申請書を提出し、その場で面会の申し入れを伝えた。
「エリック王太子殿下に、直接お話を伺いたいのですが」
書記官が困惑した顔で奥へ引っ込み、しばらくして戻ってきた。
「…殿下が、お会いになるとのことです。こちらへどうぞ」
やはり、応じた。
レオノーラは予想していたが、それでも胸の中で何かが静かに動いた。エリックは待っていた。この瞬間を、ずっと待っていたのだ。
通された部屋は、執務室ではなかった。
王宮の中庭に面した、小さな応接室だ。調度品は少なく、窓から秋の庭が見える。エリックは窓際に立ち、外を見ていた。レオノーラが入ってきた気配に気づいて、振り返った。
二人は、しばらく向かい合ったまま、何も言わなかった。
エリックの顔に、いつもの棘がなかった。憎しみでも、焦りでも、勝ち誇りでもない。ただ、疲れたような、それでいてどこか覚悟を決めたような、そういう顔だった。
「…座ってくれ」
「ありがとうございます」
二人はテーブルを挟んで座った。
レオノーラは扇子を膝の上に置いたまま、開かなかった。
「…なぜ、これをやりましたの」
「法律に則った手続きだ」
「そうではなく」レオノーラは静かに続けた。「なぜ貴方が、これをやらなければならなかったのか聞いていますわ」
エリックは、窓の外を見た。庭の木が、秋風に揺れている。
「…民の健康と風紀のためだ」
「エリック殿下」
「…なんだ」
「わたくしに嘘をつく必要はありませんわよ。今日は、そのために来ましたもの」
沈黙が流れた。
エリックの手が、テーブルの上で、わずかに動いた。それから止まった。
「…父上が、お前の酒で眠れた夜のことを、覚えているか」
「ええ」
「僕が見舞いに行った時、父上はほとんど話さなかった。疲れているのだろうと思って、早く退室した。…それなのに、お前が来た後は、薬湯も飲まずに眠れた」
「…はい」
「なぜだ、と思った。息子である僕には話さないことを、なぜお前には話すんだ。なぜお前の一杯で眠れて、僕の見舞いでは眠れないんだ」
エリックの声は、怒っていなかった。怒鳴りたいのを抑えているのでもなかった。ただ、本当に分からないから、聞いているという声だった。
「博覧会の時もそうだ。世界中の王族が、お前のジョッキに向かって目を輝かせていた。僕はバルコニーから、それを見ていた。…あの光景が、頭から離れない」
「…」
「王太子として、正しいことをしてきたつもりだ。民のために政を行い、父上を支え、王国を守ろうとしてきた。…でも、誰も僕を見ない。お前のジョッキを見る目で、僕を見る者が一人もいない」
エリックは、テーブルの上に視線を落とした。
「…この禁酒法を出せば、少なくとも一度だけ、お前が僕の署名を必要とする状況が作れると思った。一度でいいから、あの女に『エリック殿下のおかげで』と言わせたかった。…そういうことだ」
長い沈黙が、部屋を満たした。
窓の外で、風が木の葉を揺らす音がした。
レオノーラは、しばらくエリックの顔を見ていた。それから、鞄の中に手を入れた。
取り出したのは、ジョッキだった。
特別なものではない。黄金の泡亭で毎日使っている、飾り気のない、ただのジョッキだ。しかし磨き込まれて、秋の光を静かに反射している。
レオノーラは、それをテーブルの上に置いた。
「エリック殿下」
「…なんだ」
「貴方にとっての一杯を、まだ見つけていないだけですわ」
「…どういう意味だ」
「グスタフ王がわたくしの前で目を輝かせるのは、わたくしが麦酒を愛しているからですわ。愛しているものを扱う時に人間が見せる顔は、見る者に伝わる。…貴方も、何かを愛していれば、同じ顔ができるはずですわ」
「…僕が愛しているものなど」
「あるはずですわよ」
エリックが、顔を上げた。
「…この禁酒法を、これだけ巧妙に設計できた人間が、何も愛していないはずがありませんの」
「巧妙?」
「ええ」レオノーラは静かに続けた。
「完全禁止ではなく、許可制。潰すための設計ではなく、管理下に置くための設計。製造から流通まで全段階をカバーしながら、しかし正当な事業者には許可が下りる余地を残している。…これは、王国の秩序を守りたいという、貴方なりの意志から来ていますわ」
「…それは」
「王太子として、民を守りたいという気持ちは本物ですわよ、エリック殿下。ただ、その気持ちが、わたくしへの対抗心と混ざり合ってしまった。…だから歪んだのですわ」
エリックは、何も言わなかった。
レオノーラは続けた。
「貴方が本当に民を守りたいなら、この法律を正しい形に直せばいい。許可基準を明文化し、誰でも公平に審査を受けられるようにする。…それは、わたくしへの敗北ではなく、貴方が最初にやるべきだったことをやり直すだけですわ」
「…」
「そして、いつか貴方が本当に愛せるものを見つけた時、その顔を、民は見るようになりますわよ」
沈黙が続いた。
エリックは窓の外を見たまま、しばらく動かなかった。
やがて、机の引き出しを開けた。
中から、書類の束を取り出した。レオノーラには見覚えがある。黄金の泡亭の審査申請書だ。
エリックはそれを手に取り、しばらく眺めた。
それから、別の紙を取り出し、ペンを手に取った。
「…審査基準を、明文化する」
静かな声だった。
「許可制は維持する。だが、基準を条文として明記し、その基準を満たせば誰でも公平に許可が下りるようにする。…審査を恣意的に運用できないよう、第三者の確認も入れる」
「…それは」
「王国の秩序のための法律を、正しい形にするだけだ」
エリックはペンを走らせ始めた。
レオノーラは、その手元を見つめた。
これは、敗北宣言ではない。エリックがそれを分かった上で言っていることも、分かった。だからこそ…
レオノーラは立ち上がり、深くカーテシーをした。
高笑いではなく。扇子も使わず。ただ、静かに、深く。
「…ありがとうございます、殿下」
エリックは、ペンを止めた。
その言葉を聞いて、何か言いかけた。しかし止めた。
そして、小さく頷いた。
黄金の泡亭が再開したのは、それから五日後の夜だった。
法律の改正布告が出た翌日から申請が動き出し、明文化された基準に基づいた審査は迅速に進んだ。黄金の泡亭は最初のグループで許可が下り、王都の主要な酒場も順次再開していった。
再開の夜、常連客たちが戻ってきた。
職人の親方が「やっと飲めるぞ!」と叫びながら飛び込んできて、近衛騎士が無言でカウンターに直行して、カイルが静かに隅の席に座った。クラリスが涙をぼろぼろとこぼしながら「神の御意志は、やはり喉越しにありましたわ…!!」と乾杯の音頭を取り、店内が歓声に包まれた。
レオノーラはカウンターの中で、ジョッキを磨いていた。
注いで、磨いて、注いで、磨いて。その手が止まらない。
夜が深まり、客の波が少し落ち着いた頃。
扉が、静かに開いた。
エリックだった。
リリアは連れていない。私服で、一人で、店の中を少し躊躇うように見渡してから、カウンターへと歩いてきた。
店内の常連客たちが気づいて、一瞬ざわめいた。しかし誰も何も言わなかった。
エリックはカウンターの端の席に座り、レオノーラを見た。
「…一杯、もらえるか」
「何がよろしいですか、殿下」
「…何でもいい。貴女が、これだと思うものを」
レオノーラは少し考えた。
それから、メルツェンを注いだ。力強く、重厚で、しかし飲み進めるほどに穏やかな甘みが追いかけてくる、秋の一杯だ。グスタフ王に最初にペアリングをお見せした、あの一杯でもある。
エリックがそれを受け取り、一口飲んだ。
何も言わなかった。ただ、飲んだ。
二口目、三口目。
ジョッキが空になった。
「…また来る」
「お待ちしておりますわ」
エリックは席を立ち、扉へと向かった。
その背中を見送りながら、レオノーラは次のジョッキを磨き始めた。
エリックが店を出ると、夜の石畳に人影があった。
リリアだった。
少し離れた場所で、外套を纏って立っている。エリックが出てくるのを、待っていたのだろう。
「…エリック様」
「ああ」
「どうでしたか」
エリックは少し考えてから、答えた。
「…美味かった」
リリアは微笑んだ。いつもの、柔らかく、儚げな微笑みだ。
「そうですか。…良かったですわ」
二人は並んで、王宮への道を歩き始めた。
しかし、リリアの微笑みは、エリックには見えていなかった。
その微笑みの奥に…何かが、静かに動いていた。
計算でも、怒りでも、嫉妬でもない。もっと冷たい、もっと遠い場所にある、何かが。
石畳の上を、二人の足音が規則正しく響いていく。
秋の夜風が、その背中を静かに押した。
黄金の泡亭では、乾杯の音が続いていた。
レオノーラはカウンターの中で、ジョッキを磨いていた。
その横顔を、カイルが壁際から眺めていた。
何も言わなかった。ただ、静かに、自分のジョッキを傾けた。
クラリスが涙の乾かないまま新しい客にジョッキを運び、常連の騎士たちが笑い声を上げ、王都の夜がいつもの温かさを取り戻していく。
レオノーラは、その賑やかさの中で、一人ジョッキを磨き続けていた。




