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第17話 蜜の罠(前編)

 禁酒法が改正されてから、二週間が経った。


 王都の酒場は次々と営業を再開し、街には肉の焼ける煙と麦酒の薫りが戻ってきた。黄金の泡亭も連日満席で、クラリスが「神の御意志は永遠に喉越しにありますわ…!」と涙ぐみながらジョッキを運ぶ日常が、また始まっていた。


 しかしレオノーラは、どこかで感じていた。


 静かすぎる、と。


 嵐の前の静けさのような、あの感覚だ。


 その朝、イリーナが執務室に入ってきた。顔色が、少し違う。


「お嬢様、少し良いですか」


「どうぞ」


「ルチアーノから書状が届きましたわ。…いつもの書状とは、少し毛色が違いますわ」


 レオノーラは書状を受け取り、広げた。


 いつもの陽気な文体ではない。短く、簡潔で、どこか慎重な書き方だ。


『令嬢、近々お会いしたい。商売の話ではなく、個人的な話として。場所と時間は令嬢の指定に従う』


「…個人的な話」


「ええ。ルチアーノがこういう書き方をするのは、初めてではないですか」


 レオノーラは書状を折り畳んだ。


「会いますわ。明後日の夕刻、泡亭で」


 一方、その日の午後。


 王都から少し離れた、目立たない街道沿いの宿の一室で、リリアは窓の外を眺めていた。


 エリックには「実家へ里帰りする」と告げてきた。嘘ではない。この宿は、リリアの実家への道の途中にある。ただ、里帰りのためだけに来たわけでもない。


 扉がノックされた。


「どうぞ」


 入ってきたのは、金銀刺繍のマントを脱いで、地味な旅装束に身を包んだルチアーノだった。その恰幅の良い体は変わらないが、いつもの豪快な笑いがない。


「リリア殿、わざわざ呼び出して申し訳ない」


「いいえ。…お時間を作っていただいて、ありがとうございます、総督」


 二人はテーブルを挟んで座った。


 テーブルの上には、茶が二つ。麦酒ではない。リリアが用意したものだ。


「単刀直入に申し上げますわ」


 リリアは、いつもの儚げな表情を保ったまま、静かに言った。


「総督は、グランツェル王国との海路提携を望んでいらっしゃる。しかしレオノーラ様との交渉は、いくら続けても引き分けのまま。…お困りではありませんか」


「…ハッハッハ」


 ルチアーノは笑った。しかしいつもの豪快さとは少し違う、様子を見ているような笑いだ。


「リリア殿は、率直ですね。…それで?」


「わたくしには、総督に差し上げられるものがありますわ」


「何を?」


「王宮の内側ですわ」


 ルチアーノの目が、わずかに細くなった。


「…詳しく聞かせてもらえますか」


「レオノーラ様との直接交渉では、常に彼女の土俵で戦うことになる。…ですが、王室が直接、海路提携の契約を結ぶとしたら、どうですか」


「王室が、直接?」


「エリック殿下の名義で。…グランツェル王国の物流を、王室が一部管理する形にすれば、レオノーラ様の陸路網を通さなくても、総督の海路と繋ぐことができる」


 ルチアーノは、しばらく黙っていた。


 その目が、計算している。リリアには分かった。この男は今、自分の言葉の裏を読もうとしている。利用価値があるか。リスクはどこか。自分に不利な罠がないか。


「…リリア殿には、何の得があるんですか」


「エリック殿下が、王国の物流に関与する立場を持つことですわ。…レオノーラ様が全てを握っている現状を、少し変えたいだけですわ」


「少し、ね」


「ええ、少しだけ」


 ルチアーノは顎髭を撫でた。


「面白い提案ですね。…ただ、エリック殿下が承諾するとは限らない」


「そこは、わたくしにお任せくださいまし」


「…リリア殿がエリック殿下を動かせると?」


「動かすのではありませんわ。…殿下が、自分の意志で動きたくなるよう、お話しするだけですわ」


 ルチアーノは、また笑った。今度の笑いは、少し違った。


「…分かりました。乗りましょう、その話に」


 二人は、茶のカップを持ち上げた。


 ルチアーノは、内心で計算していた。リリアを利用して王室との接点を作り、その後で主導権をこちらへ引き寄せる。リリアはエリックへの影響力を使いたいだけの女だ。うまく使えば、グランツェル王国の物流網に深く食い込める。


 リリアは、微笑んでいた。


 ルチアーノが乗ってきた。予定通りだ。この男は今、自分を利用しようとしている。それも分かっている。しかし、それで構わない。利用されながら、その先で逆転する。


 翌日の夕刻。


 黄金の泡亭に、ルチアーノが現れた。


 いつものマントを羽織り、いつもの笑顔で、カウンターの席に腰を下ろした。


「令嬢、お久しぶりですね」


「ええ。…書状を読みましたわ。個人的な話とは、なんでしょう」


「実はね、令嬢」


 ルチアーノは顎髭を撫でながら、少し声を落とした。


「先日、面白い話を持ちかけられましたよ」


「面白い話?」


「ある方から、王室との海路提携の話をね。…エリック殿下の名義で、グランツェル王国の物流の一部を王室管理にする、という提案です」


 レオノーラは、ジョッキを磨く手を止めなかった。


「…誰からですの?」


「リリア殿ですよ」


 一瞬だけ、レオノーラの手が止まった。


 しかしすぐに、また動き始めた。


「…それで、総督はどうなさいますの?」


「乗ると答えましたよ」


 ルチアーノは笑った。


「ただ…令嬢に話しておこうと思いまして」


「なぜ?」


「令嬢との交渉は、気に入っています。…それを一方的に崩すのは、あまり好みではない。それに」


 ルチアーノは、少し間を置いた。


「あの女は、わたしを利用しようとしている。それは分かっています。しかし、その先が読めない。…令嬢でさえ、あの女の底を見たことがありますか?」


 レオノーラは、ジョッキを置いた。


「…正直に申しますと、ありませんわ」


「ですよね。…わたしも同じです。だから、令嬢に話した。情報の共有です」


「対価は?」


「海路提携の条件を、少し有利にしてもらいたい」


 ルチアーノは笑った。


「ハッハッハ! 商売ですから」


 レオノーラは、しばらくルチアーノを見つめた。


 この男が「底が読めない」と言った。ルチアーノが、そう言った。誰の底も読んできたあの男が。


「…分かりましたわ。海路提携の条件、改めて話し合いましょう。…ただし、その前に一つだけ聞かせてくださいな」


「なんでしょう?」


「総督は、リリア様のどこで気づきましたの? 底が読めないと」


 ルチアーノは、少し考えてから答えた。


「…茶を出してきたんですよ、あの方。麦酒でもワインでもなく、茶を」


「それが?」


「わたしの好みを、事前に調べていた。わたしは昼間は茶しか飲まない。…それを知っていて、用意してきた。つまり」


「事前に、総督のことを徹底的に調べていた」


「ええ。…笑顔で儚げにしていながら、その実、相手の情報を全部把握した上で交渉に来る女です。それが分かった瞬間に、底が見えなくなりましたよ」


 レオノーラは、扇子を取り出した。


 ゆっくりと、広げた。


「…おーほっほっほ」


 笑い声が、静かな店内に響いた。しかしいつもの高らかさとは少し違う。どこか、遠くを見ているような笑いだった。


「…なるほど。よく分かりましたわ、総督。ありがとうございます」


「お役に立てたなら何よりです。…では、海路提携の条件交渉、楽しみにしていますよ」


 ルチアーノが帰った後、店内にレオノーラ一人が残った。


 カイルが壁際から静かに近づいてきた。


「…聞いていたのですか?」とレオノーラが言う前に、カイルが頷いた。


「聞いていた」


「どう思いますの?」


「…リリアが、ルチアーノを動かした。そしてそのルチアーノが、こちらへ情報を持ってきた」


「ええ」


「…つまり、リリアはルチアーノがこちらへ話すことも、計算に入れていた可能性がある」


 レオノーラは、扇子を閉じた。


「そうですわね」


「…どうするつもりだ」


 レオノーラはしばらく黙っていた。


 空のジョッキを手に取り、それを眺めた。


「…まず、エリック殿下に話を聞きますわ。リリア様から、海路提携について何か話があったかどうか」


「エリックが正直に答えるか?」


「答えますわよ。…禁酒法以来、殿下は変わりましたもの」


 カイルは、それ以上何も言わなかった。


 レオノーラは空のジョッキをカウンターに戻し、立ち上がった。


「カイル、一つお願いがありますわ」


「何だ」


「リリア様の動きを、静かに見ておいてくださいな。…表に出ないように」


「ああ」


「それから…」


 レオノーラは少し間を置いた。


「リリア様を、敵として見ないでくださいな。まだ」


 カイルが、その言葉の意味を測るように、しばらくレオノーラを見た。


「…なぜだ」


「まだ、全部が見えていませんわ。見えていないうちに動くのは、わたくしの美学に反しますのよ」


 カイルは短く頷いた。


 レオノーラは窓の外を見た。


 王都の夜が、静かに広がっている。どこかの酒場から、乾杯の音が聞こえてきた。


 しかしその音が、今夜は少しだけ、遠く聞こえた。

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