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第16話 禁酒法発令(中編)

 禁酒法が施行されて、三日が経った。

 王都の変化は、思ったより早かった。

 一日目は、まだ「審査が通れば営業を再開できる」という希望があったから、店主たちは比較的落ち着いていた。しかし審査申請の窓口が一日五件しか受け付けないと分かった二日目から、状況が変わり始めた。先着順の申請窓口に、夜明け前から行列ができた。並んだ末に「本日の受付は終了しました」と告げられた店主たちが、肩を落として帰っていく光景が、王宮の第三書記局の前で繰り返されるようになった。

 三日目の朝、レオノーラは王都を一人で歩いた。

 いつもなら漂っているはずの肉の焼ける煙が、ない。仕事終わりの職人たちが、どこへ行けばいいか分からず、石畳の上を当てもなく歩いている。いつもならジョッキの触れ合う音が響いていた路地が、しんと静まり返っていた。

「……」

 レオノーラは立ち止まり、閉まった酒場の扉を眺めた。

 扉には「審査中につき休業」の札が下がっている。木の板に、店主が自分で書いたらしい不揃いな文字だ。その文字の歪みに、書いた人間の気持ちが滲んでいるような気がした。

 レオノーラは扇子を取り出し、開きかけて——閉じた。

 笑えなかった。


 黄金の泡亭に戻ると、イリーナが待っていた。

「サフラン女王から非公式の書状が届きましたわ」

「内容は?」

「『我が国の国境を通る輸送分については、止めない』とのことですわ。表向きはグランツェル王国の内政に介入しない、という体裁を保ちながら、実質的に協力する意思を示してきています」

「ルチアーノは?」

「こちらも書状が一通。…『面白いことになりましたね』とだけ書かれていましたわ」

 レオノーラはその書状を受け取り、一読した。

「…助けるつもりはない、ということですわね」

「少なくとも、今すぐには。様子を見ているのだと思いますわ」

「ええ。あの男らしいですわ」

 レオノーラは書状をテーブルに置き、腕を組んだ。

「イリーナ、帝国の外交ルートを使えば、輸送はどこまで継続できますの?」

「フロストヴァルト帝国との条約を使えば、帝国領を経由する輸送については王国の許可制の対象外になる可能性がありますわ。ただ」

「ただ?」

「グランツェル王国の国内輸送…つまり、醸造所からコンテナに積み込む時点で、すでに許可が必要になりますわ。そこを通り抜けられなければ、帝国ルートも意味がない」

 レオノーラは黙った。

 イリーナが続けた。

「法律の条文を何度も読みましたが、よく出来ていますわ。製造、販売、流通の全段階に許可が必要。どこか一つを回避しても、別の段階で引っかかる。…エリック殿下、あるいは…」

「あるいは?」

「…設計した者が、かなり頭の良い人間ですわ」

 二人の間に、短い沈黙が流れた。


 七日目の夜。

 黄金の泡亭は、暗かった。

 休業中の店内に灯りはなく、磨き上げられたジョッキだけが、月明かりを受けて静かに並んでいる。カウンターには誰もいない。客も来ない。常連の騎士たちの笑い声も、クラリスの「神の御意志は喉越しに」も、何もない。

 レオノーラが一人で、カウンターの中に座っていた。

 空のジョッキを、手の中で転がしている。注がれていない、ただのジョッキだ。

 扉が開いて、クラリスが入ってきた。

「レオノーラ様、まだいらっしゃいましたか。…何かお飲みになりますか」

「…今は、飲めませんわ」

「え?」

「お酒を出したら、法律違反ですもの」

 クラリスが、その言葉を聞いて、その場に崩れ落ちた。

「そんな…。レオノーラ様が、法律のせいで飲めないなんて…! 神の御意志が、こんなところで…!」

「泣かないでくださいな、クラリス。…ただの一時的なことですわ」

「でも…! このお店が閉まって、お客様たちが途方に暮れていて、街から笑い声が消えて…! 神の御意志は、いったいどこへ…!!」

 クラリスが肩を震わせて泣いていた。

 レオノーラは、そのクラリスを眺めながら、手の中のジョッキを見た。

 空のジョッキ。

 注がれるべきものが、入っていない。

 これまでの人生で、こんな感覚を持ったことがあっただろうか。追い詰められた、という感覚。手が届きそうで届かない、という感覚。いつもなら次の一手がすぐに見えるのに、今は靄の中にいるような…

「クラリス、上がっていいですわ。今夜は早く休みなさいな」

「でも、レオノーラ様が一人で…」

「一人で考えることが、今は必要ですわ。…おやすみなさい」

 クラリスが、名残惜しそうに扉を閉めた。

 店内に、静寂が戻った。

 レオノーラは空のジョッキをカウンターに置き、目を閉じた。

 王都の夜の音が、遠くから聞こえてくる。しかしいつもとは違う。笑い声がない。乾杯の音がない。あるのは、風の音と、どこかで鳴いている夜の虫の声だけだ。

 わたくしが作った革命が、今、静かに色を失っていく。

 その事実が、胸の中でじわりと広がった。


 どのくらい時間が経っただろうか。

 扉が開いた。

 カイルだった。外套を着たまま、手に二つのジョッキを持っている。

「…おい」

「何ですの」

「これを飲んでも、法律違反じゃないぞ」

 カイルがカウンターにジョッキを置いた。中身は麦酒ではない。水だ。

 レオノーラは、それを見て小さく笑った。

「…気を遣いましたのね」

「水くらいは飲んでも構わないだろう」

 カイルはカウンターの外側の椅子に座り、自分のジョッキを持ち上げた。二人は、水を飲みながら、しばらく黙っていた。

「…審査の担当官が誰か、調べてきた」

 カイルが、おもむろに言った。

「誰ですの」

「エリック殿下、直々に担当するそうだ」

 レオノーラは、それを聞いて、目を開いた。

「…摂政代理権限は、父王の回復とともに縮小されているはずでは」

「審査業務だけは、別建ての権限として残してあったらしい。…最初からそのつもりで設計されていた、ということだ」

 よく出来ている、とレオノーラは思った。

 布告を出す権限は摂政代理権限だが、審査権限は別の条文に基づく。グスタフ王が回復しても、審査業務だけはエリックの手元に残る——そういう設計になっていた。

「…会いに行きますわ」

「エリック殿下に?」

「ええ」

「…どんな手で行くつもりだ」

 レオノーラは、空のジョッキを手に取った。

 しばらく、それを眺めた。

「…手なんてありませんわ。ただ、話しますわよ」

「話す? 戦略もなしに?」

「ええ」

 カイルは、その言葉を聞いて、何も言わなかった。

 レオノーラが「手がない」と言うのは、珍しいことだった。いや、これまで一度もなかったかもしれない。

「…明日の朝、王宮へ行きますわ。審査の申し込みをすると同時に、エリック殿下との面会を求めますわ」

「向こうが応じるとは限らないぞ」

「応じますわ」

「なぜ分かる」

「…エリック殿下は、わたくしに会いたいのですわよ。この禁酒法を設計した目的が、そこにあるのですから」

 カイルは、その言葉の意味を少し考えてから、頷いた。

「…俺も同行する」

「一人で行きますわ」

「なぜだ」

「…これは、わたくしとエリック殿下の問題ですわ。他の誰かがいると、彼は本音を話せない」

 カイルはしばらく黙っていた。それから、ジョッキを置いた。

「分かった。ただし、何かあれば…」

「何もありませんわよ。…エリック殿下は、わたくしを傷つけるような人間ではありませんもの」

「それは分かっている。ただ…」

「ただ?」

「…気をつけろよ」

 それだけだった。

 レオノーラは、カイルの顔を見た。その目に、いつもの無表情の奥に、何か別のものが滲んでいた。

「…ありがとうございます、カイル」

 カイルは何も言わず、立ち上がり、扉へと向かった。

 扉が閉まった後、レオノーラは再び空のジョッキを手に取った。

 明日、エリックに会う。手も戦略もない。ただ話す。

 それでいい、と思った。

 このジョッキに何を注ぐべきか…それは、明日の話を聞いてから、初めて分かるものだから。

 レオノーラは立ち上がり、閉まった店の中を一度だけ見渡した。並んだジョッキ、磨き上げたカウンター、壁にかかった泡亭の看板。

「…少しだけ、待っていてくださいな」

 誰にともなく呟き、灯りを消した。

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