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第15話 グスタフ王の老い(後編)

 王宮の廊下は、いつも通り静かだった。

 しかし、その静けさの質が違った。警備の騎士たちの表情が、わずかに硬い。すれ違う侍女たちの足音が、少しだけ早い。王宮全体が、何かを息を詰めて待っているような、そういう静けさだった。

 案内の侍従が立ち止まり、重厚な木製の扉の前で振り返った。

「こちらでございます。…陛下は、お目覚めでございます」

「ありがとう。下がってくださいな」

 侍従が一礼して離れていく。レオノーラは扉の前に立ち、一度だけ息を吸った。

 それから、ノックした。

「…入れ」

 くぐもった、しかし確かにグスタフ王の声だった。


 王の私室は、想像よりずっと質素だった。

 調度品は少なく、壁には武具と、色褪せた戦場の地図が一枚だけ。窓際に簡素な寝台があり、その上にグスタフ王が半身を起こして座っている。傍らには水差しと、手つかずの食事の盆。宮廷医が処方したらしい薬湯の椀が、冷めたまま置かれていた。

 王の顔を見た瞬間、レオノーラは何かを言いそうになって、止めた。

 老いていた。

 昨夜、泡亭で見た時よりも、さらに。一夜でこれほど変わるはずはないから、昨夜は王が気力で見せていたものが、今日は剥がれているのだろう。眼光だけは相変わらず鋭かったが、それ以外の全てが—確実に、削られていた。

「…来たか、レオノーラ」

「はい、陛下」

「そこに座れ」

 寝台の傍らに椅子が一脚置かれていた。レオノーラは深紅のドレスの裾を整え、静かに腰を下ろした。

 沈黙が流れた。王は窓の外を見ていた。秋の空が、高く澄んでいる。

「…昨夜、貴様の店で飲んだ一杯は、美味かったぞ」

「ありがとうございます」

「あれほどの一杯を、貴様は毎日注いでいるのか」

「ええ、毎日ですわ」

「…良い仕事だな」

 王はそう言って、また黙った。

 レオノーラは急かさなかった。この王が、自分のペースで話すつもりでいることは分かっていた。

「…余は、長く生きすぎたかもしれん」

 唐突に、王が言った。

「陛下」

「いや、弱音ではないぞ。…ただ、思うのだ。余の時代は、もう終わりかけているのではないかと」

「終わりかけていても、まだ終わっていませんわ」

「…強情だな、貴様は」

「陛下の方が、よほど強情ですわ」

 王は小さく笑った。その笑いは、泡亭で見せるような豪快なものではなかったが、確かに笑いだった。

「…エリックは、良い働きをしているか」

 レオノーラは少し間を置いた。

「摂政代理として、精力的に動いておられますわ」

「そうか。…あ奴は、頭は悪くない。ただ、何かが足りない。…何が足りないのか、余にも分からんのだが」

「…」

「貴様には、分かるか」

 レオノーラは扇子を膝の上で弄びながら、静かに答えた。

「…今は、言わないでおきますわ」

「なぜだ」

「陛下が、ご自身でお気づきになる方が、良いと思いますので」

 王はしばらくレオノーラを見つめ、それから視線を窓に戻した。

「…貴様は、余に遠慮しないくせに、時々妙なところで遠慮するな」

「そうでしょうか」

「ああ。…まあ、良い」


 沈黙が、また流れた。

 今度は長かった。しかし不快ではなかった。王の呼吸が、ゆっくりと、規則正しく続いている。レオノーラは急がなかった。

 やがて王が、窓から視線を戻した。

「…レオノーラ。余に、一杯飲ませてくれないか」

「ここでですか?」

「ああ。…宮廷医には内緒で頼む」

「薬湯をお飲みにならないのに、麦酒を飲みたいのですか」

「薬湯より、麦酒の方が効くと思っている」

「…それは、医学的には間違っていますわよ」

「構わん」

 レオノーラは立ち上がり、携えてきた革の鞄から、一本の瓶を取り出した。

 修道院から持ち帰った、最後の一本。アウグストゥス院長が「本当に必要な者に渡せ」と言った、トラピスト・トリプル・エールだ。イリーナが適切な温度で管理してくれていた瓶は、今も指先に伝わるほどよい重みを持っていた。

 グスタフ王が、その瓶を見た。

「…見慣れない瓶だな。泡亭の酒ではないのか」

「違いますわ。…西方の山奥の修道院で、百年かけて造られた酒ですわ」

「百年?」

「修道士たちが、祈りと共に醸してきたものですわ。…本来は、外部の人間が口にすることのできない一杯ですの。ですが院長が、本当に必要な者に渡せとおっしゃって」

「…余が、本当に必要な者か」

「今夜、そう思いましたわ」

 レオノーラは、寝台の傍らのテーブルに置いてあった水のグラスを取り、軽く洗って代わりに使うことにした。瓶の栓を抜く。

 音もなく、しかし確実に、香りが広がった。

 干し葡萄、蜂蜜、野生酵母の息吹。そして、百年の沈黙が染み込んだ、言葉にならない「深み」。王の私室の質素な空気が、その一瞬だけ別の色に染まった。

 グスタフ王が、鼻腔を動かした。

「…なんだ、この香りは」

「百年分の祈りの香りですわ」

 レオノーラは、グラスに少量だけ注いだ。蒸留酒のように少量で十分な一杯だ。多く飲むものではない。ただ、その重さと深さを、喉で受け取るための一杯。

「どうぞ」

 グスタフ王は、震える手でグラスを受け取った。

 しばらく、その琥珀色の液体を見つめていた。レオノーラは何も言わなかった。急かさなかった。

 王が、グラスを口に運んだ。

 一口。

 それから、長い沈黙が続いた。

 グスタフ王は目を閉じた。その顔から、少しずつ、長年の戦場が剥がれていくようだった。鉄血王の厳格さが、指揮官の緊張が、王という重荷が—その一杯の前で、ただの老人の安堵へと変わっていく。

「…」

 王は何も言わなかった。

 しばらくして、目を開いた。その目が、かすかに潤んでいた。

「…美味い」

 それだけだった。

 しかし、その二文字に、何十年分もの疲れと、それを超えた何かが、確かに宿っていた。

 レオノーラは黙って頷いた。


 グラスが空になった後、王はしばらく目を閉じたまま、静かにしていた。

 レオノーラは動かなかった。椅子に座ったまま、待った。

 やがて王の呼吸が、深く、規則正しくなった。眠ったのだ。薬湯では眠れなかったのに、あの一杯の後で、自然に。

 レオノーラは静かに立ち上がり、空になったグラスをテーブルに戻した。

 扉に向かいかけて、振り返った。

 眠るグスタフ王の顔は、戦場の武人でも、鉄血王でもなかった。ただ、疲れた一人の老人が、久しぶりに安らかな眠りについている—それだけだった。

 レオノーラは扇子を取り出し、口元を隠した。

「…ゆっくりお休みなさいまし」

 誰にも聞こえない声で呟き、扉を静かに閉めた。


 廊下に出ると、エリックが立っていた。

 どのくらい前から、ここにいたのだろう。壁に寄りかかり、腕を組んで、扉を見ていた。レオノーラが出てきた瞬間、視線がぶつかった。

 二人は、しばらく黙って向かい合っていた。

「…父上は?」

「お休みになりましたわ」

「…そうか」

 エリックの声に、棘がなかった。珍しいことだった。疲れているのか、それとも—別の何かか。

「…お前は、何をしたんだ。宮廷医が処方した薬湯も飲まなかった父上が、お前が出てきた後は眠っている」

「一杯、差し上げましたわ」

「麦酒を?」

「ええ」

 エリックは、何か言いかけて、止めた。怒鳴り込むかと思ったが、そうではなかった。その目は、怒りではなく—別の色をしていた。

「…父上は、僕が見舞いに来た時、ほとんど話さなかった」

「そうですか」

「でも、貴女とは話したんだろう」

「少しだけ」

「…なぜだ」

 その問いは、責めているのではなかった。本当に、分からないから聞いているという声だった。

 レオノーラは少し考えてから、答えた。

「…わたくしには、陛下に気を遣う理由がありませんの。親子の情も、跡継ぎとしての重荷も。…ただ、お客様として、一杯を差し上げるだけですわ。…それが、楽なのかもしれませんわね」

 エリックは、その言葉を聞いて、また黙った。

「…お前が羨ましいとは、思いたくなかった」

「思わなくて結構ですわ」

「でも、思ってしまった」

 廊下に、しばしの沈黙が流れた。

 レオノーラはエリックの横を通り過ぎようとして、足を止めた。

「エリック殿下」

「…なんだ」

「陛下は、昨夜こうおっしゃいましたわ。…安い酒だったが、戦場でそれを思い出すと、立ち上がれたと」

「…それが、何だ」

「陛下にとっての一杯は、高価なものでも、特別なものでもなかった。…ただ、故郷の匂いがする酒だった。…殿下にとっての、そういう一杯は、なんですの?」

 エリックは答えなかった。

 レオノーラも、答えを待たなかった。そのまま廊下を歩き、角を曲がって、視界から消えた。


 翌朝、グスタフ王は執務に復帰した。

 完全に回復したわけではなかった。しかし昨夜の眠りで、何かが戻ったのだろう。侍従たちが「陛下のお顔の色が、昨日とまるで違う」と口々に言った。宮廷医は首を傾げながら、薬湯の処方を続けたが、王はそれを飲まなかった。代わりに、昼に一杯だけ、泡亭の麦酒を取り寄せた。

 エリックの摂政代理としての動きは、その日を境に、急速に縮小した。書類への署名を求める案件が、次々と王のもとへ差し戻されていった。


 その夜、レオノーラはアウグストゥス院長への手紙を書いた。

『院長様。先日お預かりした最後の一本、本当に必要としている方に届けることができましたわ。百年の祈りは、確かにその方の魂に届いたと思います。…ありがとうございました』

 返事は、数日後に来た。

 修道院の紋章が押された封筒の中には、小さな羊皮紙が一枚だけ。

『よくやった。もう一本送る』

 それだけだった。

 レオノーラは、その紙を読んで—扇子を広げ、口元を隠した。

 おーほっほっほ、と笑いかけた。

 だが、止めた。

 代わりに、静かに微笑んだ。

 窓の外の王都に、夜の灯りが広がっている。どこかの酒場から、乾杯の音が聞こえてきた。

 レオノーラはジョッキを手に取り、一人で、静かに飲んだ。

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