第15話 グスタフ王の老い(前編)
ルチアーノとの引き分けから、五日が経った。
黄金の泡亭の執務室では、レオノーラが三つの案件を同時に抱えていた。一つ目は、トラピストビールの流通準備。修道院との契約条件を詰め、輸送ルートを確定し、イリーナの定温コンテナに適合する仕様を決める必要がある。二つ目は、サフラン女王との香辛料利権の具体的な取り決め。南国の素材を使った新しいペアリング開発も、並行して進めなければならない。そして三つ目は—ルチアーノが提案した海路提携の条件交渉だ。
「…お嬢様、今日だけで届いた書状が十七通ですわ」
イリーナが、うんざりした顔で羊皮紙の束をテーブルに置いた。
「全部目を通しましたの?」
「一応。三通は商業ギルドから、四通はサフラン女王の代理人から、そして残り十通は—ルチアーノからですわ」
「十通?」
「『昨夜考えたのですが』『今朝また考えたのですが』『昼に港を眺めていて思ったのですが』…という書き出しで始まる、条件変更の提案が十通ですわ。しかも一通ごとに、微妙に内容が違う」
レオノーラは扇子を広げ、口元を隠した。
「おーほっほっほ! あの男、隙がないだけでなく、しつこいですわね」
「笑い事ではありませんわよ。全部に返事を書かなければならないのは、わたくしですから」
「書かなくて構いませんわ。まとめて一通だけ返しなさいな。『貴方の十通の提案、全部読みましたわ。答えは全部ノーです。ただし、来週また話しましょう』と」
イリーナは呆れながらも、鉛筆を手に取った。
その時、扉をノックする音がした。
「レオノーラ様、カイルさんが外でお待ちです」
クラリスの声だ。
「通しなさい」
扉が開き、カイルが入ってきた。その表情が、いつもと少し違う。
「何かありましたの?」
「王宮から、非公式の連絡が入った」
カイルは部屋の中を一度見渡してから、声を落とした。
「グスタフ王陛下の体調が、芳しくないそうだ。宮廷医が昨日から詰めているという」
王が、体調を崩した。
その報せは、表向きは王宮の外には出ていなかった。しかしカイルの情報網は細かく、王宮の近衛騎士から非公式に聞き込んできた話は、概ね信頼できる。
「症状は?」
「食欲の低下と、慢性的な倦怠感。それから、手の震えが出ているらしい。宮廷医の見立ては、過労と加齢による体力低下だそうだ」
「エリック殿下は?」
「昨日の夕刻から、父王の代理として幾つかの書類に署名している」
レオノーラは、扇子を閉じた。
「分かりましたわ、カイル。引き続き情報を」
「ああ」
カイルが出ていった後、イリーナが鉛筆を置いた。
「…お嬢様、どうしますか」
「今は何もしませんわ」
「エリック殿下が動いているのに?」
「動いているのを、見ておきますわ」
レオノーラは立ち上がり、窓の外を見た。王都の空は晴れていて、どこかの酒場から昼の乾杯の音が聞こえてくる。しかしレオノーラの目は、その賑やかな街並みを見ていなかった。
翌日の夕刻。
黄金の泡亭に、予期しない客が現れた。
近衛騎士を二人だけ連れ、王冠も纏わない、ただの老人の姿で。しかし扉を開けた瞬間に、店内の空気が変わった。常連客たちが思わず背筋を伸ばし、クラリスが「神の…!」と声を上げかけて慌てて口を押さえる。
グスタフ王だった。
「…邪魔するぞ」
いつもの、腹の底から響くような声だった。しかし—わずかに、かすれている。
レオノーラはカウンターの中で、ジョッキを磨く手を止めなかった。
「いらっしゃいませ。…お一人ですか?」
「ああ。…近衛は外に置いてきた」
王はカウンター席に腰を下ろした。その動作が、レオノーラの記憶にあるグスタフ王より、少しだけゆっくりだった。
「いつもの一杯でよろしいですか」
「ああ」
レオノーラはジョッキに、王のために用意している特別なメルツェンを注いだ。イリーナの冷却で引き締めた、いつもの一杯。王が最初に飲んで以来、ずっと注文し続けているものだ。
グスタフ王はジョッキを手に取った。
その手が、ほんのわずかに震えていた。
レオノーラは見た。しかし何も言わなかった。王も、何も言わなかった。ただ一口飲み、いつもより少し長く、目を閉じていた。
「…美味いな」
「ありがとうございます」
「いや、…本当に美味い。…余が今まで飲んでいたものは、なんだったのかと、今でも思うぞ」
王は笑ったが、その笑いは少し疲れていた。
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。店内のほかの客たちが、王の存在に気づきながらも、空気を読んで静かに飲んでいる。カイルが離れた席で、さりげなく目を光らせていた。
「…レオノーラ」
「はい」
「貴様は、余が倒れたとしたら、どうするつもりだ」
レオノーラは手を止めなかった。ジョッキを磨き続けながら、静かに答えた。
「倒れないでくださいまし」
「…そういう答えを聞いているのではない」
「分かっていますわ」
レオノーラはジョッキを置き、グスタフ王を見た。
「陛下が倒れても、わたくしのやることは変わりませんわ。王都の喉を潤し、世界の喉を潤し、誰かが飲み干した空のジョッキに、また注ぎ続けますわ。…それだけですわよ」
王は、その言葉を聞いて、しばらく黙っていた。
「…潔いな」
「そうでもありませんわ。…ただ、わたくしにできることが、それしかないだけですわよ」
グスタフ王は、もう一口飲んだ。今度は、ゆっくりと、嚙み締めるように。
「…余は若い頃、戦場で何度も死にかけた」
唐突な話だった。しかしレオノーラは遮らなかった。
「その度に、故郷の酒のことを考えた。…つまらん話だが」
「いいえ」
「…安い酒だったぞ。麦を煮て発酵させただけの、香りも何もない。だが、あの匂いを思い出すと、不思議と立ち上がれた」
王は、遠くを見ていた。石畳でも、カウンターでもない、もっと遠い場所を。
「…貴様が来るまで、余はずっと間違った酒を飲んでいたのだな。…高価なワインやら、献上品の蒸留酒やら。…喉を通るが、何も残らなかった」
「ええ」
「貴様の麦酒は、残る。…飲み終えた後も、どこかに残っている」
レオノーラは答えなかった。ただ、新しいジョッキを手に取り、磨き始めた。
グスタフ王は、その手元をしばらく眺めていた。
「…貴様は、ジョッキを磨いている時が、一番良い顔をするな」
「そんなことはありませんわ」
「いや、本当にそうだ。…余は嘘をつかん」
レオノーラは、少しだけ手を止めた。それからまた、動かし始めた。
「…お世辞が下手ですわね、陛下は」
「お世辞ではない」
王はジョッキを空にし、静かにカウンターに置いた。
「…今日は、これだけ飲めれば充分だ」
「いつもは三杯お飲みになるのに」
「…歳をとると、一杯が重くなる。…だが、その一杯の重さが、良い」
王は立ち上がった。その動作を、レオノーラは手を出さずに見守った。手を貸せば、この王は傷つく。それが分かっていた。
「…また来る」
「お待ちしておりますわ」
「…ああ」
グスタフ王が扉を出ていった後、店内がゆっくりと息を吹き返した。常連客たちが小さな声で何か囁き合い、クラリスが目頭を押さえていた。
その夜遅く。
王宮では、エリックが執務室の灯りを消さずにいた。
机の上には書類が積み上がっている。父王の代理として署名すべき文書、宮廷医からの診断書、そして商業ギルドからの陳情書。摂政代理の権限は、思いのほか広かった。父王が一日執務を休むだけで、これだけの案件が自分の手元に流れてくる。
エリックは、その書類を前に、ペンを動かしながら—ふと手を止めた。
「…リリア」
「はい、エリック様」
「今日、父上は黄金の泡亭へ行ったそうだ」
「…存じております」
「体調が優れないのに、わざわざあの店へ。…近衛も二人しか連れずに」
エリックは、ペンを置いた。
「…余が見舞いに行った時、父上はほとんど話さなかった。疲れているだろうと思って、早々に退室した。…それなのに、あの女の店には自分の足で歩いて行き、話をしていた」
「…エリック様」
「なぜだ」
その問いは、リリアへ向けたものではなかった。
「息子である余には話さないことを、なぜあの女には話すんだ」
リリアは何も答えなかった。答えられなかった。
エリックは再びペンを手に取り、書類に向かった。しかしその目は、文字を追っていなかった。
翌朝。
王宮から、レオノーラのもとへ使者が来た。
「グスタフ王陛下より、レオノーラ総監へのご伝言でございます」
「何でしょう」
「…『会いに来い』と、それだけでございます」
レオノーラは使者を帰し、イリーナを呼んだ。
「王宮へ行きますわ」
「お供しますか」
「いいえ、一人で参りますわ。…ただ、一つ用意してほしいものがあります」
レオノーラは懐から、修道院から持ち帰った最後の一本を取り出した。アウグストゥス院長が「本当に必要な者に渡せ」という言葉とともに持たせてくれた、トラピスト・トリプル・エールの、残り一本だ。
「これを、適切な温度で保管しておいてくださいな。…今夜、使いますわ」
イリーナはその瓶を受け取り、しばらく眺めてから、静かに頷いた。
「…分かりましたわ、お嬢様」
レオノーラは深紅のドレスの裾を払い、王宮へと向かって歩き出した。
空は晴れていた。しかし、どこか遠くで、雲が集まり始めているような気がした。




