表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/43

第14話 ルチアーノの逆襲(後編)

 翌日の夕刻、黄金の泡亭は不思議な静けさに包まれていた。

 いつもなら仕事終わりの職人や騎士たちで賑わう時間帯だが、今夜は常連客の姿がない。クラリスが朝のうちに「本日は貸切」の札を出し、カイルが念のため店の周囲を一巡してきた。街の空気は平穏だったが、その平穏の中に、何か張り詰めたものが混じっているような気がした、とカイルは後で語っている。

 レオノーラはカウンターの中に立ち、ジョッキを磨いていた。

 いつも通りの所作で、いつも通りの表情で。しかし昨夜、彼女が眠ったのは夜明け近くだった。それをイリーナは知っていたが、何も言わなかった。

 ルチアーノが現れたのは、約束の刻限きっかりだった。

 金銀刺繍のマントを脱ぎ、今日は落ち着いた深紺の上着姿だ。手には革張りの木箱を提げている。その箱が、今夜の「武器」だろう。

「令嬢、良い夜ですね」

「ええ、良い夜ですわ」

 ルチアーノはカウンター席に腰を下ろし、木箱をテーブルに置いた。イリーナは少し離れた席で腕を組み、カイルは壁際に立ち、クラリスは祈るような表情でカウンターの端に控えている。

「では、どちらから始めましょうか」

「お客様からどうぞ」

 ルチアーノは頷き、木箱を開けた。

 中には、細長い瓶が三本。それぞれ異なる色の液体が入っており、瓶の形も微妙に違う。ヴェネルカの蒸留技術が生んだ、三種の最高傑作だろう。

「令嬢、蒸留酒はお飲みになりますか?」

「嗜む程度には」

「では、説明は不要ですね」

 ルチアーノは最初の一本を開けた。透明に近い、わずかに琥珀がかった液体だ。専用のグラスに、ほんの少量だけ注ぐ。

「これは、ヴェネルカの港で二十年熟成させたブランデーです。海風と潮気が樽に染み込み、通常の内陸熟成とは全く異なる風味を生む。…どうぞ」

 レオノーラはグラスを受け取り、まず香りを確かめた。

 熟した果実の甘み、バニラ、そして潮の気配。複雑な層が、重なり合いながら鼻腔に広がってくる。一口含むと、アルコールの熱が舌の上で柔らかく広がり、やがて喉の奥で落ち着いた余韻へと変わった。

「…美味しいですわ」

「ありがとうございます」

「…本当に、美味しいですわ」

 レオノーラは二口目を含み、目を細めた。これは、認めなければならない。二十年の海風が作り上げたこの複雑さは、短期間では決して再現できない。時間という素材を、ルチアーノは持っている。

「二本目は?」

「少し待ってください」

 ルチアーノは一本目のグラスをそのままにして、レオノーラを見た。

「令嬢、一本目を飲んで、何かお気づきになりましたか」

「…何を聞きたいのかしら」

「麦酒との違いを」

 レオノーラは少し考えてから答えた。

「麦酒は、飲んだ瞬間から語り始める。炭酸が、香りが、苦味が、全部一度に押し寄せてくる。…ですが貴方の蒸留酒は、語らない。ただ、そこにいる」

「正確ですね」

「…それが、貴方の武器ですの?」

「武器というより、哲学ですかね。…麦酒は饒舌だ。それが魅力でもある。ですが饒舌な酒は、静寂を必要とする人間には、時として重すぎる。…蒸留酒は、沈黙の酒です。何も押しつけない。ただ、飲む者の隣に座っているだけ」

 レオノーラは、その言葉を聞いて——13話の修道院を思い出した。アウグストゥス院長の石室。百年の沈黙。そして自分が夜通し守り続けた、あの静寂。

「…面白いことをおっしゃいますわ」

「では、二本目を」

 二本目は、深い琥珀色のラム酒だった。

 南方の砂糖黍を原料に、ヴェネルカの船倉で熟成させたものだという。一口含むと、サフラン女王の国の太陽を思わせる甘みが広がり、その後からスパイスの余韻が追いかけてくる。

「…スパイス王国の香辛料を仕込みに使いましたの?」

「ご明察。博覧会でサフラン女王と知り合ってから、すぐに交渉しましたよ」

 レオノーラの眉が、わずかに動いた。

「…博覧会の最中に、既に動いていたのですね」

「商売に、休憩はありませんから」

 ルチアーノは笑ったが、その目は笑っていない。博覧会で各国の権力者が一堂に会したあの三日間、彼はレオノーラの一杯に感動しながら、同時に次の手を打っていた。

 この男は、本当に隙がない。

「三本目は?」

「これが最後です」

 三本目は、透き通った無色の液体だった。

「ヴェネルカの伝統的な蒸留酒です。材料は、海塩と、地元の野草だけ。年代物でも、希少素材でもない。…ただ、この街で何百年も飲まれ続けてきた、港の男たちの酒です」

 レオノーラは一口含んで…目を見開いた。

 最初は、鋭い。アルコールの刺激が、舌を直接叩く。しかしその後に来るのは、不思議な清潔感だった。海塩の輪郭と、野草のわずかな苦みが、口の中をすっきりと洗い流していく。余韻は短く、潔い。

「…これは」

「港で一日働いた男が、仕事終わりに一杯だけ飲む酒です。贅沢ではない。特別でもない。ただ、その一杯があるから、また明日も働けるという酒」

 レオノーラは、グラスを置いた。

 三本とも、違う。二十年熟成の饒舌さ、南国の太陽を閉じ込めた甘み、そして港の男の一杯の潔さ。どれもが本物で、どれもがルチアーノという男の哲学を体現していた。

「…分かりましたわ、総督」

「何が?」

「貴方が何をしたいのか」

 レオノーラは扇子を広げ、口元を隠した。

「貴方は、わたくしの物流網を乗っ取りたいのではない。…自分の海路網を、世界の標準にしたいのですわ。麦酒であれ蒸留酒であれ、世界中の酒が自分の船で運ばれるようにしたい。…そのために、わたくしと対等な位置に立つことが必要だった」

「…さすがですね」

「おーほっほっほ! さあ、次はわたくしの番ですわよ」

 レオノーラはカウンターの奥へと向かい、三種のジョッキを並べた。

 最初に注いだのは、メルツェンだ。

「これは、グスタフ王に初めてペアリングをお見せした一杯ですわ。力強く、重厚で、肉の脂に正面から立ち向かう。…貴方の二十年熟成ブランデーと同じで、これは主張する酒ですわ」

 ルチアーノは一口飲んだ。黙って、もう一口飲んだ。グラスを置いて、天井を見上げた。

「…美味い」

「でしょう」

「ですが、令嬢」

「なんでしょう」

「この酒は、あなたの蒸留酒への答えになっていない」

 レオノーラは、その言葉を聞いて微笑んだ。

「分かっていますわ」

 二杯目は、修道院から持ち帰ったトラピスト・トリプル・エールだった。アウグストゥス院長が、一本だけ持参を許してくれた、あの琥珀色の液体だ。

 ルチアーノが一口含んだ瞬間、その動きが止まった。

 二口目。三口目。

 グラスを置いた時、ルチアーノの顔に、これまで見たことのない表情が浮かんでいた。驚愕でも感嘆でもない。もっと静かな、何かを認識した者の顔だ。

「…これは、令嬢が造ったものではないですね」

「ええ。百年の祈りが造ったものですわ。わたくしは、ただ世界へ届けるために預かってきただけ」

「…珍しい。令嬢が、自分の手柄を主張しない」

「これに関しては、主張できませんわ。…この一杯の前では、わたくしも引き算をしただけですもの」

 ルチアーノは、もう一口飲んだ。それから、長い沈黙の後に言った。

「…令嬢、貴女はいつからこういう酒を知っていたんですか」

「三週間前ですわ」

「三週間で、ここまで変わった?」

「変わったのではなく、気づきましたのよ。…わたくしの氷は、全ての酒に必要なわけではない。時として、最高の仕事は何もしないことだと」

 ルチアーノはグラスを置き、レオノーラをまっすぐに見た。

「三本目は?」

「ええ」

 レオノーラが最後に注いだのは、何の変哲もない一杯だった。

 特別な樽でも、希少なホップでも、精密な冷却魔法でもない。黄金の泡亭で毎日仕込んでいる、看板のラガーだ。イリーナの冷気で引き締め、適温で供する、この店の「普通の一杯」。

「これは、下町の職人が仕事終わりに飲む酒ですわ。贅沢でも特別でもない。ただ、この一杯があるから、また明日も頑張れるという酒」

 ルチアーノが、その言葉を聞いて——初めて、本当に笑った。

 豪快な「ハッハッハ」ではなく、静かな、小さな笑いだ。

「…令嬢、わたしの三本目と、同じことを言いましたね」

「ええ、気づいていましたわよ。貴方が三本目を出した瞬間に」

「それで、同じ答えを用意した?」

「同じ思想を持つ者が、別の言語で話しているだけですわ。…麦酒と蒸留酒は、対立していない。どちらも、人間の喉と魂のために存在しているだけ」

 ルチアーノはしばらく、そのラガーを眺めていた。

 それから一口飲み、目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。

「…美味い」

「でしょう」

「令嬢に、負けましたよ」

「いいえ」

 レオノーラは首を振った。

「引き分けですわ。…貴方の港の男の一杯に、わたくしは負けましたもの」

 沈黙が流れた。

 カウンターに、二人分の空になったグラスとジョッキが並んでいる。

 ルチアーノは立ち上がり、マントを手に取った。

「では、提携の話を続けましょうか。令嬢の陸路とわたしの海路、それから…令嬢の麦酒とわたしの蒸留酒を、世界へ一緒に届けるために」

「条件がありますわ」

「どうぞ」

「物流ルートの主導権は、わたくしが持つ。貴方の海路は、わたくしの網の一部として機能していただく」

「ハッハッハ! それは飲めませんね。海路の主導権は、わたしが持つ。令嬢の陸路が、わたしの網の一部になっていただく」

「では、平行線ですわね」

「今夜のところは」

 ルチアーノは帽子を被り、扉へと向かいながら振り返った。

「令嬢、また来ますよ。次は、もう少し良い条件を持ってきます」

「おーほっほっほ! それは楽しみですわ。わたくしも、次までにもう少し良い反論を用意しておきますわ」

 扉が閉じた。

 店内に、静寂が戻ってきた。

 イリーナが席を立ち、カウンターへと歩み寄った。

「…引き分け、でしたね」

「ええ」

「悔しくないんですか」

 レオノーラは、空になったジョッキを眺めながら答えた。

「悔しいですわ。…でも、それ以上に楽しかったですわよ」

 カイルが壁際で、静かにジョッキを傾けた。クラリスが「神の御意志は、引き分けにも宿りましたわ…!」と涙ぐんでいた。

王都の夜が、静かに更けていく。

ルチアーノという男は、去り際まで隙を見せなかった。そしてレオノーラは、その隙のなさを心の底から、気に入っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ