第14話 ルチアーノの逆襲(後編)
翌日の夕刻、黄金の泡亭は不思議な静けさに包まれていた。
いつもなら仕事終わりの職人や騎士たちで賑わう時間帯だが、今夜は常連客の姿がない。クラリスが朝のうちに「本日は貸切」の札を出し、カイルが念のため店の周囲を一巡してきた。街の空気は平穏だったが、その平穏の中に、何か張り詰めたものが混じっているような気がした、とカイルは後で語っている。
レオノーラはカウンターの中に立ち、ジョッキを磨いていた。
いつも通りの所作で、いつも通りの表情で。しかし昨夜、彼女が眠ったのは夜明け近くだった。それをイリーナは知っていたが、何も言わなかった。
ルチアーノが現れたのは、約束の刻限きっかりだった。
金銀刺繍のマントを脱ぎ、今日は落ち着いた深紺の上着姿だ。手には革張りの木箱を提げている。その箱が、今夜の「武器」だろう。
「令嬢、良い夜ですね」
「ええ、良い夜ですわ」
ルチアーノはカウンター席に腰を下ろし、木箱をテーブルに置いた。イリーナは少し離れた席で腕を組み、カイルは壁際に立ち、クラリスは祈るような表情でカウンターの端に控えている。
「では、どちらから始めましょうか」
「お客様からどうぞ」
ルチアーノは頷き、木箱を開けた。
中には、細長い瓶が三本。それぞれ異なる色の液体が入っており、瓶の形も微妙に違う。ヴェネルカの蒸留技術が生んだ、三種の最高傑作だろう。
「令嬢、蒸留酒はお飲みになりますか?」
「嗜む程度には」
「では、説明は不要ですね」
ルチアーノは最初の一本を開けた。透明に近い、わずかに琥珀がかった液体だ。専用のグラスに、ほんの少量だけ注ぐ。
「これは、ヴェネルカの港で二十年熟成させたブランデーです。海風と潮気が樽に染み込み、通常の内陸熟成とは全く異なる風味を生む。…どうぞ」
レオノーラはグラスを受け取り、まず香りを確かめた。
熟した果実の甘み、バニラ、そして潮の気配。複雑な層が、重なり合いながら鼻腔に広がってくる。一口含むと、アルコールの熱が舌の上で柔らかく広がり、やがて喉の奥で落ち着いた余韻へと変わった。
「…美味しいですわ」
「ありがとうございます」
「…本当に、美味しいですわ」
レオノーラは二口目を含み、目を細めた。これは、認めなければならない。二十年の海風が作り上げたこの複雑さは、短期間では決して再現できない。時間という素材を、ルチアーノは持っている。
「二本目は?」
「少し待ってください」
ルチアーノは一本目のグラスをそのままにして、レオノーラを見た。
「令嬢、一本目を飲んで、何かお気づきになりましたか」
「…何を聞きたいのかしら」
「麦酒との違いを」
レオノーラは少し考えてから答えた。
「麦酒は、飲んだ瞬間から語り始める。炭酸が、香りが、苦味が、全部一度に押し寄せてくる。…ですが貴方の蒸留酒は、語らない。ただ、そこにいる」
「正確ですね」
「…それが、貴方の武器ですの?」
「武器というより、哲学ですかね。…麦酒は饒舌だ。それが魅力でもある。ですが饒舌な酒は、静寂を必要とする人間には、時として重すぎる。…蒸留酒は、沈黙の酒です。何も押しつけない。ただ、飲む者の隣に座っているだけ」
レオノーラは、その言葉を聞いて——13話の修道院を思い出した。アウグストゥス院長の石室。百年の沈黙。そして自分が夜通し守り続けた、あの静寂。
「…面白いことをおっしゃいますわ」
「では、二本目を」
二本目は、深い琥珀色のラム酒だった。
南方の砂糖黍を原料に、ヴェネルカの船倉で熟成させたものだという。一口含むと、サフラン女王の国の太陽を思わせる甘みが広がり、その後からスパイスの余韻が追いかけてくる。
「…スパイス王国の香辛料を仕込みに使いましたの?」
「ご明察。博覧会でサフラン女王と知り合ってから、すぐに交渉しましたよ」
レオノーラの眉が、わずかに動いた。
「…博覧会の最中に、既に動いていたのですね」
「商売に、休憩はありませんから」
ルチアーノは笑ったが、その目は笑っていない。博覧会で各国の権力者が一堂に会したあの三日間、彼はレオノーラの一杯に感動しながら、同時に次の手を打っていた。
この男は、本当に隙がない。
「三本目は?」
「これが最後です」
三本目は、透き通った無色の液体だった。
「ヴェネルカの伝統的な蒸留酒です。材料は、海塩と、地元の野草だけ。年代物でも、希少素材でもない。…ただ、この街で何百年も飲まれ続けてきた、港の男たちの酒です」
レオノーラは一口含んで…目を見開いた。
最初は、鋭い。アルコールの刺激が、舌を直接叩く。しかしその後に来るのは、不思議な清潔感だった。海塩の輪郭と、野草のわずかな苦みが、口の中をすっきりと洗い流していく。余韻は短く、潔い。
「…これは」
「港で一日働いた男が、仕事終わりに一杯だけ飲む酒です。贅沢ではない。特別でもない。ただ、その一杯があるから、また明日も働けるという酒」
レオノーラは、グラスを置いた。
三本とも、違う。二十年熟成の饒舌さ、南国の太陽を閉じ込めた甘み、そして港の男の一杯の潔さ。どれもが本物で、どれもがルチアーノという男の哲学を体現していた。
「…分かりましたわ、総督」
「何が?」
「貴方が何をしたいのか」
レオノーラは扇子を広げ、口元を隠した。
「貴方は、わたくしの物流網を乗っ取りたいのではない。…自分の海路網を、世界の標準にしたいのですわ。麦酒であれ蒸留酒であれ、世界中の酒が自分の船で運ばれるようにしたい。…そのために、わたくしと対等な位置に立つことが必要だった」
「…さすがですね」
「おーほっほっほ! さあ、次はわたくしの番ですわよ」
レオノーラはカウンターの奥へと向かい、三種のジョッキを並べた。
最初に注いだのは、メルツェンだ。
「これは、グスタフ王に初めてペアリングをお見せした一杯ですわ。力強く、重厚で、肉の脂に正面から立ち向かう。…貴方の二十年熟成ブランデーと同じで、これは主張する酒ですわ」
ルチアーノは一口飲んだ。黙って、もう一口飲んだ。グラスを置いて、天井を見上げた。
「…美味い」
「でしょう」
「ですが、令嬢」
「なんでしょう」
「この酒は、あなたの蒸留酒への答えになっていない」
レオノーラは、その言葉を聞いて微笑んだ。
「分かっていますわ」
二杯目は、修道院から持ち帰ったトラピスト・トリプル・エールだった。アウグストゥス院長が、一本だけ持参を許してくれた、あの琥珀色の液体だ。
ルチアーノが一口含んだ瞬間、その動きが止まった。
二口目。三口目。
グラスを置いた時、ルチアーノの顔に、これまで見たことのない表情が浮かんでいた。驚愕でも感嘆でもない。もっと静かな、何かを認識した者の顔だ。
「…これは、令嬢が造ったものではないですね」
「ええ。百年の祈りが造ったものですわ。わたくしは、ただ世界へ届けるために預かってきただけ」
「…珍しい。令嬢が、自分の手柄を主張しない」
「これに関しては、主張できませんわ。…この一杯の前では、わたくしも引き算をしただけですもの」
ルチアーノは、もう一口飲んだ。それから、長い沈黙の後に言った。
「…令嬢、貴女はいつからこういう酒を知っていたんですか」
「三週間前ですわ」
「三週間で、ここまで変わった?」
「変わったのではなく、気づきましたのよ。…わたくしの氷は、全ての酒に必要なわけではない。時として、最高の仕事は何もしないことだと」
ルチアーノはグラスを置き、レオノーラをまっすぐに見た。
「三本目は?」
「ええ」
レオノーラが最後に注いだのは、何の変哲もない一杯だった。
特別な樽でも、希少なホップでも、精密な冷却魔法でもない。黄金の泡亭で毎日仕込んでいる、看板のラガーだ。イリーナの冷気で引き締め、適温で供する、この店の「普通の一杯」。
「これは、下町の職人が仕事終わりに飲む酒ですわ。贅沢でも特別でもない。ただ、この一杯があるから、また明日も頑張れるという酒」
ルチアーノが、その言葉を聞いて——初めて、本当に笑った。
豪快な「ハッハッハ」ではなく、静かな、小さな笑いだ。
「…令嬢、わたしの三本目と、同じことを言いましたね」
「ええ、気づいていましたわよ。貴方が三本目を出した瞬間に」
「それで、同じ答えを用意した?」
「同じ思想を持つ者が、別の言語で話しているだけですわ。…麦酒と蒸留酒は、対立していない。どちらも、人間の喉と魂のために存在しているだけ」
ルチアーノはしばらく、そのラガーを眺めていた。
それから一口飲み、目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
「…美味い」
「でしょう」
「令嬢に、負けましたよ」
「いいえ」
レオノーラは首を振った。
「引き分けですわ。…貴方の港の男の一杯に、わたくしは負けましたもの」
沈黙が流れた。
カウンターに、二人分の空になったグラスとジョッキが並んでいる。
ルチアーノは立ち上がり、マントを手に取った。
「では、提携の話を続けましょうか。令嬢の陸路とわたしの海路、それから…令嬢の麦酒とわたしの蒸留酒を、世界へ一緒に届けるために」
「条件がありますわ」
「どうぞ」
「物流ルートの主導権は、わたくしが持つ。貴方の海路は、わたくしの網の一部として機能していただく」
「ハッハッハ! それは飲めませんね。海路の主導権は、わたしが持つ。令嬢の陸路が、わたしの網の一部になっていただく」
「では、平行線ですわね」
「今夜のところは」
ルチアーノは帽子を被り、扉へと向かいながら振り返った。
「令嬢、また来ますよ。次は、もう少し良い条件を持ってきます」
「おーほっほっほ! それは楽しみですわ。わたくしも、次までにもう少し良い反論を用意しておきますわ」
扉が閉じた。
店内に、静寂が戻ってきた。
イリーナが席を立ち、カウンターへと歩み寄った。
「…引き分け、でしたね」
「ええ」
「悔しくないんですか」
レオノーラは、空になったジョッキを眺めながら答えた。
「悔しいですわ。…でも、それ以上に楽しかったですわよ」
カイルが壁際で、静かにジョッキを傾けた。クラリスが「神の御意志は、引き分けにも宿りましたわ…!」と涙ぐんでいた。
王都の夜が、静かに更けていく。
ルチアーノという男は、去り際まで隙を見せなかった。そしてレオノーラは、その隙のなさを心の底から、気に入っていた。




