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第14話 ルチアーノの逆襲(前編)

 修道院から王都へ戻ったのは、旅立ちからちょうど三週間後のことだった。

 馬車が王都の城門をくぐった瞬間、レオノーラは窓の外の変化に気づいた。


街の空気が、違う。

いつもなら城門を抜けた瞬間から漂ってくるはずの、肉の焼ける香ばしい煙と麦酒の薫りが…薄い。完全に消えているわけではないが、確実に薄まっている。代わりに、どこか甘く、芳醇な、しかしレオノーラの知る麦酒とは異なる香りが、街の空気に混じり込んでいた。


「…イリーナ」

「気づいていましたわ、城門を越えた瞬間から」

 向かいの席でイリーナが設計図を閉じ、窓の外に目を向けた。

「この香り、蒸留酒ですわね。それも、相当上質なものが大量に流通している」

「ええ」

 レオノーラは扇子を広げ、その香りを丁寧に吸い込んだ。熟成した樽の甘み、アルコールの鋭さ、そして果実を思わせる複雑な後味。間違いなく一流の品だ。そして…王都でこれだけの量が流通しているということは、相当な資本と物流網を持つ者が動いているということでもある。


「後方の馬車、大丈夫かしら」

「エリック殿下とリリア様のことですか? 三週間ジョッキを磨き続けましたから、相当上達したと思いますわよ」

「磨き方ではなく、この香りに気づいているかどうかを聞いていますのよ」

 イリーナは少し考えてから答えた。

「…あの二人が、蒸留酒の流通に気づいて何かを考えるとは、少し想像しにくいですわ」

「そうですわね」

 レオノーラは扇子を閉じた。

「クラリスに連絡を入れなさい。黄金の泡亭の状況を至急確認しますわよ」


 黄金の泡亭に戻ったのは、夕刻だった。

 店の前に、見慣れない馬車が二台停まっていた。ヴェネルカの紋章…波と錨を組み合わせた、海洋都市国家の意匠が、金で刻まれている。


 レオノーラは馬車を降り、店の扉を押し開けた。


 カウンターの奥に、クラリスがいた。しかしその表情が、いつもの「神の御意志は喉越しにあり」の恍惚とは、少し違う。どこか、複雑な色を帯びていた。

 そして…カウンター席の一番奥に、見覚えのある背中があった。


 恰幅の良い体に、金銀刺繍のマントを羽織り、顎髭を撫でながら悠然とジョッキを傾けている。


「おや、令嬢。お帰りなさい。旅はどうでしたか?」

 ルチアーノ・マルヴァジアは、振り返りもせずに言った。

「ハッハッハ! 三週間も留守にするとは、思い切りましたね。その間に、わたしが王都で少々商売をさせてもらいましたよ」


 レオノーラはカウンターに歩み寄り、向かいの椅子に腰を下ろした。ルチアーノが傾けているジョッキの中身を一瞥する。麦酒ではない。琥珀色よりも深い、赤みがかった液体…蒸留酒だ。


「随分と、お早い商売ですわね。博覧会が終わってから、まだ一ヶ月も経っていませんのに」

「機を逃さないのが、商人の基本ですよ」

 ルチアーノはようやく振り返り、レオノーラに向かって豪快に笑った。しかしその目は、笑っていなかった。愛想の良い笑顔の奥で、計算が走っている…レオノーラはその瞬間に気づいた。

 この男は、博覧会の時から変わっていない。笑いながら、すべてを見ている。


「クラリス、状況を教えてくださいな」

「は、はい…! えっと、ルチアーノ総督が王都に到着されたのは十日前でして。最初は視察とおっしゃっていたのですが、気づいたら王都の酒場十七軒に、ヴェネルカの蒸留酒を卸す契約を結んでいらして…。それから商業ギルドとも話をされていて、その、新しい物流ルートの話も…」

「物流ルート?」

 レオノーラの声が、わずかに低くなった。


「ええ」とルチアーノが引き取った。「令嬢の物流網は、主に陸路ですよね。馬車と定温コンテナで、各国へ麦酒を届ける。…素晴らしいシステムだ。本当に感心しました。ですが…」

 彼は人差し指を一本立てた。

「海路は、使っていない」


 沈黙が流れた。


「陸路では届けられない場所が、世界にはまだたくさんある。島国、沿岸都市、遠洋の交易港。…そういう場所への物流は、わたしの船が担う。令嬢の麦酒も一緒に運んで差し上げましょうか、と商業ギルドに提案しましたよ。もちろん、わたしの蒸留酒と一緒に」

「…それは、提案ではなくて、既成事実の作成ですわね」

「ハッハッハ! さすが、飲み込みが早い!」


 ルチアーノは愉快そうに笑ったが、レオノーラは笑わなかった。


 状況を整理する。十日間で、王都の酒場十七軒と契約し、商業ギルドに海路の物流提案を行い、自分の不在中に既成事実を積み上げた。しかも表向きは「協力」の形を取りながら、実質的には物流網への介入だ。

 やり口が、きれいだ。

 怒鳴り込む余地がない。反論する隙がない。全部、合法的で、合理的で、しかも「令嬢のためにもなる提案」という体裁を崩していない。


「…一つ聞かせてくださいな、ルチアーノ総督」

「なんでしょう?」

「貴方は、わたくしの物流網を助けたいのですか。それとも、乗っ取りたいのですか」


 ルチアーノは、その問いを聞いて…また笑った。

 しかし今度の笑いは、これまでのものと少し違った。豪快さの中に、何か別のものが混じっている。


「令嬢、わたしはどちらでもないですよ」

「どういう意味かしら」

「わたしがしたいのは、対等な商売相手を作ることです。…令嬢の麦酒は本物だ。認めていますよ、心から。ですが、麦酒だけでは届かない場所がある。蒸留酒だけでも届かない人がいる。…二つが揃って初めて、世界の全ての喉に手が届く」


 レオノーラは、その言葉を聞いて、しばらく黙っていた。


 嘘ではないだろう。しかし、全部でもないだろう。この男の言葉は、常に本当のことを言いながら、何かを隠している。


「…つまり、手を組みたいと?」

「提携、とでも言いましょうか。令嬢の陸路網とわたしの海路網を組み合わせれば、世界の物流地図が書き変わる。…悪い話ではないと思いますが」

「ヴェネルカの蒸留酒も、一緒に売り込みながら、ですわね」

「商売ですから、当然でしょう」


 ルチアーノはジョッキを置き、レオノーラに向かって身を乗り出した。


「令嬢、一つ試してみませんか。今夜、わたしの蒸留酒を飲んでみてください。そして令嬢の麦酒を、わたしに飲ませてほしい。…どちらが優れているかではなく、二つが並んだ時に何が生まれるか、確かめてみましょう」


 レオノーラは、その提案を聞いて…扇子を広げた。


「おーほっほっほ! 面白いことをおっしゃいますわね、総督。…ですが」

「ですが?」

「今夜は疲れましたわ。三週間の旅の後ですもの」


 ルチアーノが、初めて少し意表を突かれた顔をした。


「…では、いつですか」

「明日の夕刻に。…わたくしのホームグラウンドで、わたくしのやり方で。…それが条件ですわ」


 ルチアーノは一瞬だけ考え、それから笑った。今度の笑いは、どこか楽しそうだった。


「ハッハッハ! いいでしょう! では明日、令嬢の最高の一杯と、わたしの最高の一杯を持ち寄りましょう!」


 ルチアーノが帰った後、カウンターにはレオノーラとイリーナだけが残った。

 クラリスが熱心にカウンターを磨きながら、おそるおそる口を開いた。

「あの…レオノーラ様。明日、大丈夫でしょうか…?」

「何がですの?」

「ルチアーノ総督、十日間ずっと観察していましたが…。あの方、本当に隙がないといいますか。笑っている間も、何か別のことを考えているような…」

「ええ、そうですわ」


 レオノーラは、ジョッキに手を伸ばした。クラリスが素早く注いだ麦酒を一口飲み、静かに目を閉じる。

「これまで戦ってきた相手は、全員、どこかで感情が動いた。グスタフ王は一杯で目を輝かせ、イリーナは悔し涙を流し、サフラン女王は感嘆の声を上げた。…ルチアーノは、どれをやっても顔色が変わらない」

「…それは、つまり」

「難敵ですわ。これまでで、一番の」

 イリーナが、腕を組んで口を開いた。

「…お嬢様、一つ確認させてください。明日、勝つつもりですか?」

「もちろんですわ」

「どうやって?」

 レオノーラはしばらく黙っていた。窓の外に、王都の夜の灯りが広がっている。どこかの酒場から、笑い声と乾杯の音が聞こえてきた。

「…まだ分かりませんわ」

 イリーナが、珍しく目を丸くした。

「お嬢様が、まだ分からないと?」

「ええ。…だから、今夜考えますわ」

 レオノーラはジョッキを空にし、静かに立ち上がった。

「イリーナ、今夜は設計図を閉まって早く寝なさい。明日、貴女の頭は全力で動いてもらいますわよ」

「…わたくしも使いますの?」

「当然ですわ。ルチアーノは海路の物流と蒸留酒文化、二つの武器を持っている。…こちらも、二枚で戦いますわ」


 レオノーラは踵を返し、二階への階段へと向かった。

 その背中を見送りながら、イリーナは静かに設計図を机に置いた。


「…明日が、楽しみですわ」

 クラリスが、目を輝かせながら頷いた。


「神の御意志は、明日の夕刻に示されますわ…!!」

 王都の夜が、静かに更けていった。

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