第16話 禁酒法発令(前編)
グスタフ王が執務に復帰してから、二週間が経った。
黄金の泡亭は連日満席で、トラピストビールの流通準備は最終段階に入り、ルチアーノとの海路交渉も少しずつ条件が煮詰まってきていた。サフラン女王の香辛料を使った新しいペアリング開発も、イリーナが興味深い配合を見つけてきたばかりだ。
表向きは、平穏な日常だった。
その朝も、レオノーラは執務室で三つの案件を同時に抱えながら、ジョッキを傾けていた。
「お嬢様、ルチアーノからまた書状が届きましたわ」
「何通目かしら」
「今週だけで六通ですわ。昨日から内容が変わっていないのに、なぜか毎日送ってきますの」
「…無視しておきなさい。あの男は、返事が来ないことで相手の考えを読もうとしていますわ。無視が一番良い返答ですわよ」
イリーナが呆れたように書状を脇に置いた時、扉が激しくノックされた。
クラリスだった。
しかしいつもの「神の御意志は喉越しにあり」の輝く顔ではない。青ざめた顔で、一枚の羊皮紙を両手で持っている。
「レオノーラ様…! た、大変ですわ…!」
「落ち着きなさいな。何がありましたの」
「王宮から、布告が…!」
レオノーラは羊皮紙を受け取り、広げた。
丁寧に、整った文字で書かれていた。王室の紋章が上部に押され、文面は簡潔で、しかし読み進めるほどに、その精巧な設計が浮かび上がってくる。
『国民の健康と風紀の維持のため、アルコール飲料の製造、販売、および流通を当面の間、王室の許可制とする。事業者は速やかに審査申請を行うこと。審査期間中は操業を停止すること。審査結果は三十日以内に通知する』
署名は、エリック王太子。グスタフ王体調回復期における摂政代理権限による発布、と付記されていた。
レオノーラは最後まで読み、羊皮紙をテーブルに置いた。
扇子を取り出し、ゆっくりと広げた。
「…やりますわね、エリック殿下」
怒りではなかった。むしろ、その声には初めて、対等な相手を認めた時の色が宿っていた。
カイルが報告に来たのは、それから一時間後だった。
「騎士団の一部が、すでに王都の酒場の見回りを始めている。営業停止を命じられた店が、今朝だけで十二軒」
「審査申請の窓口は?」
「王宮の第三書記局。受付は平日の昼間だけで、一日の申請受付数に上限がある」
「上限は?」
「五件だ」
レオノーラは、それを聞いて目を閉じた。
王都の酒場の数は、ざっと二百軒を超える。一日五件の審査申請で、三十日以内に結果を出す…計算が合わない。つまり多くの事業者が、審査すら受けられずに長期間の操業停止を強いられる。
「イリーナ、輸送は?」
「コンテナの物流にも許可が必要になる可能性がありますわ。条文を読む限り、製造から流通まで全てが対象ですわ。…サフラン女王への輸送も、ルチアーノへの海路も、一旦止まりますわ」
「申請は?」
「今すぐ出しますわ。ただ、三十日間は動けません」
三十日。
レオノーラは窓の外を見た。王都の石畳に、秋の光が落ちている。どこかの酒場からは、まだ乾杯の音が聞こえていた。しかしそれも、今日限りだ。
「クラリス」
「は、はい…!」
「今夜のお客様には、通常通り一杯差し上げなさいな。…ただし今夜だけですわよ」
「今夜だけ…?」
「布告の施行は明日からですわ。今夜は、まだ動けます」
その夜の黄金の泡亭は、いつも以上に混んでいた。
布告の話は、午後には王都中に広まっていた。明日から酒場が閉まると聞いた常連客たちが、最後の一杯を求めて押しかけてきたのだ。カウンターはいっぱい、立ち飲みの客が扉の外まで溢れ、クラリスが「神の御意志は今夜も喉越しに…!」と泣きながらジョッキを運んでいた。
レオノーラはカウンターの中で、ジョッキを磨いていた。
注いで、磨いて、注いで、磨いて。その手が止まらない。
常連の騎士が、カウンターに肘をついた。
「レオノーラ様、本当に明日から閉めるんですか」
「しばらくの間ですわ」
「しばらくって、どのくらいですか」
「三十日以内に審査結果が出ますわ。…それまでご辛抱くださいまし」
「三十日も…! 困りますよ、仕事終わりにここへ来るのが楽しみなんだから…!」
「ありがとうございます。…その言葉、審査官に伝えておきますわ」
騎士が苦笑いしながらジョッキを空にした。レオノーラは次の一杯を注いだ。
その一連の動作を、少し離れたテーブルから、カイルが眺めていた。
レオノーラは、今夜ずっとあの調子だ。客に笑いかけ、言葉を交わし、一杯を注ぎ、ジョッキを磨く。しかしカイルには分かった。いつもと違う。何かを、必死に考えながら、手を動かし続けている。
夜が更け、客が引いていった。
最後の客が帰り、クラリスが扉に「明日より審査期間中のため休業いたします」の札を掛けた。その文字を書いたのはイリーナで、書きながら「こんな札を書く日が来るとは思っていませんでしたわ」と呟いていた。
店内には、レオノーラとイリーナとカイルだけが残った。
カウンターの上に、磨き上げたジョッキが一列に並んでいる。明日から使われないジョッキが、静かに光を反射していた。
「カイル」
「ああ」
「エリック殿下が、なぜこの形を選んだか、分かりますか」
カイルは少し考えてから答えた。
「完全禁止にしなかった理由か?」
「ええ」
「…反発が大きすぎるからじゃないか。完全禁止にすれば、民も、グスタフ王も黙っていない。許可制にすれば、表向きは規制であって禁止ではない。文句を言いにくい」
「それだけですの?」
カイルは、また少し考えた。
「…潰したいわけじゃない、ということか」
「ええ」
レオノーラは磨き終えたジョッキをカウンターに置き、次を手に取った。
「完全禁止は、わたくしを潰す手ですわ。許可制は、わたくしを管理下に置く手ですわ。…エリック殿下は、わたくしを消したいのではなく、自分の管理下に置きたかった」
「…それが分かって、どうするつもりだ」
「まず、グスタフ王陛下に会いに行きますわ。それから…」
レオノーラは手を止めた。
珍しいことだった。「それから」の先が、すぐに出てこなかった。
「…それから?」
「…今夜、考えますわ」
カイルは何も言わなかった。
イリーナが設計図を閉じ、立ち上がった。
「お嬢様、わたくし、一つだけ言っておきますわ」
「なんですの」
「今回だけは、わたくしに頼っていただいて構いませんわよ。帝国の外交ルートを使えば、輸送だけは細々と続けられるかもしれない。リスクはありますが、選択肢として」
「…ありがとうございます、イリーナ」
「お礼を言われると、気味が悪いですわ」
「おーほっほっほ…」
笑い声が出た。しかしいつもより、少し小さかった。
翌朝。
王都の空は晴れていたが、街の空気はすでに変わっていた。
酒場の扉が閉まり、「審査中」の札が下がり、仕事終わりの職人たちが行き場を失ってぶらぶらと歩いている。いつもなら漂っているはずの肉の焼ける匂いも、麦酒の薫りも薄かった。
レオノーラは王宮へと向かった。
グスタフ王は執務室にいた。体調は戻っているが、まだ完全ではない。しかし目は鋭く、レオノーラが入ってきた瞬間に、全てを察したような顔をした。
「…来たか。布告の件か」
「はい」
「…余は、この件に介入しない」
レオノーラは、その言葉を静かに受け止めた。
「理由をお聞かせいただけますか」
「余の体調回復期に出た布告だ。余が覆せば、エリックの立場がない。…王太子が出した布告を、王が即座に取り消す。それは、王家の権威を自ら傷つけることになる」
「…承知しましたわ」
「…貴様なら、別の手があるだろう」
グスタフ王は、レオノーラを見た。
「余はそれを信じて、待つ」
レオノーラはカーテシーをした。
「…ありがとうございます、陛下」
王宮を出た。
石畳の上に立ち、秋の空を見上げた。
後ろ盾が、なくなった。グスタフ王は動かない。イリーナの帝国ルートはリスクが高い。ルチアーノは様子を見ている。サフラン女王は非公式に協力を示唆しているが、外国の王が他国の内政に正式に介入するわけにはいかない。
レオノーラは、扇子を取り出した。
開きかけて…閉じた。
「…エリック殿下に、会いに行かなければなりませんわね」
誰にも聞こえない声で呟いた。
王都の空に、風が吹いた。どこかで、閉まった酒場の看板が揺れている。




