第13話 禁じられた修道院、聖なる琥珀の深淵(前編)
スパイス王国から王都へ戻ったのは、砂漠の夜から三日後のことだった。
帰路の馬車の中でイリーナは一言も喋らずに設計図を書き続け、エリックとリリアは疲れ果てて眠り続け、レオノーラだけが窓の外を眺めながら、サン・ガルスからの書状を何度も読み返していた。
『グランツェルの令嬢よ。汝の麦酒の噂、神の御許にまで届きたり。されど、汝はまだ真の麦酒を知らぬ。我らが百年の沈黙の中で育てた「祈りの一杯」を前に、汝の氷の魔法が通じるか、試してみよ』
いかなる使者も、王族の書状も、一度として門を開けさせることのできなかった聖域が、なぜ今になって、わざわざこちらへ書状を寄越してきたのか。
その問いへの答えは、行ってみるまで分からない。
だから行く。それだけのことだ。
王都に戻って二日間、レオノーラは積み上がった書類を片付けた。
サフラン女王との契約条件の最終確認、南国への物流ルートの整備計画、ルチアーノからの書状への返答。やることは山積みだったが、手を動かしながらも、頭の片隅にはずっとあの書状が引っかかっていた。
「お嬢様、また手が止まっていますわよ」
イリーナが設計図から顔を上げた。帰路の馬車の中で書き上げた高地対応の冷却回路の設計を、昨日から実際の部材に落とし込む作業を続けている。
「失礼しましたわ」
「サン・ガルスのことを考えていますか」
「ええ」
「…いつ出発するつもりですか」
「明後日ですわ」
イリーナは手を止めた。
「帰ってきて三日目ですわよ。荷物もまだ全部片付けていませんのに」
「荷物の片付けは帰ってからできますわ。…あの書状は、返事を待っていますもの」
「返事を出したんですか」
「いいえ」
「では、なぜ待っていると分かるんですか」
「…百年間、門を閉ざしてきた修道院が、わざわざ書状を送ってきた。それは、来い、という意味以外に解釈のしようがありませんわ」
イリーナはため息をついた。それから設計図を脇に置き、腕を組んだ。
「…高地対応の回路は、設計が終わっています。部材の調達さえ済めば、二日で組み上げられますわ」
「では間に合いますわね」
「間に合いますが…一つ確認させてください」
「何ですの」
「今回の目的は何ですか。修道院のビールを物流網に組み込むことですか、それとも単純に飲みたいだけですか」
レオノーラは少し考えてから答えた。
「飲みたいだけですわ」
「…商売の話ではなく?」
「商売の話は、飲んでから考えますわ。…まず、飲まなければ何も始まりませんもの」
イリーナは、その答えを聞いて——珍しく、少し笑った。
「…承知しましたわ。準備します」
翌朝、エリックとリリアを呼んだ。
「また随行か」エリックが深いため息をついた。
「今度はどこへ行くんだ」
「北東の山岳地帯ですわ。馬車で二日、その後は徒歩ですわよ」
「徒歩!?」
「山道ですもの。仕方がありませんわ」
リリアが震える声で言った。
「あの…レオノーラ様。今回こそ、わたくしたちは置いていってくださいませんか。スパイス王国の時の辛さが、まだ夢に出てきますのよ…」
「今回は辛い料理は出てきませんわ。…ただ、険しい山道と、重い荷物と、それから…」
「それから?」
「ビールが待っていますわよ」
二人は顔を見合わせた。しかし今更抗議しても無駄だということは、スパイス王国での経験で学んでいた。黙って荷物を受け取る。その背中が、旅を重ねるごとに、確かに逞しくなっていた。
馬車が通れる道は、麓の小さな村までだった。
村の老人たちは、一行の行き先を聞いた瞬間に顔色を変えた。
「あの修道院へ行くのかね。…やめておきなさい。いかなる者も門前払いにされる。百年前に訪れた王国の外交官は、三日間門の前で待ち続けて、一言も交わせずに追い返されたそうだ」
「ありがとうございます。参考にしますわ」
レオノーラはそう答え、山道へと踏み出した。
標高が上がるにつれ、空気は刃のように鋭く冷え込んでいった。イリーナが一行を包む防寒と除湿の魔法陣を展開しているが、高地の薄い空気の中では魔力の消費が増える。その顔が、登るにつれて少しずつ青くなっていた。
「…お嬢様、魔力消費、設計値より二割増しですわ」
「帰路で特製スタウトを補充しましょう。十本積んでありますわよ」
「…魔力回復に麦酒を使うのは、本当にいい加減にしてほしいですが、効くので何も言えませんわ」
エリックが岩を一つ越えながら、荷物の重さに喘いだ。
「…レオノーラ、あの修道院は本当に入れてくれるのか。百年間、誰も入れなかったという場所に」
「入れてもらいますわ」
「何か考えがあるのか」
「ええ」
「…どんな?」
「香りですわ」
エリックは首を傾けたが、レオノーラはそれ以上説明しなかった。ただ、鞄の中に収めた特製の魔法冷却箱を、確かめるように一度だけ触れた。
王都で最も丁寧に仕込み、最も精密な温度で管理し続けた、現時点での最高傑作が、その中に眠っている。
霧が一陣の風に払われたのは、日が中天を過ぎた頃だった。
白い帳の向こうに、岩山と一体化したかのように建つ、灰色の石造りの巨大な建造物が姿を現した。
サン・ガルス断絶修道院。
窓は小さく、鉄格子が嵌められている。城壁のような外壁には蔦が這い、苔が厚く積もり、何百年もの時間がそのまま石に染み込んでいるようだった。煙突から細い煙が立ち上っているから、中に人がいることは確かだ。しかしその静寂は、単なる「物音がない」のとは違う。意志を持った、鍛え上げられた沈黙だった。
「…本当に、修道院なのか。監獄にしか見えないんだが」
エリックが後退りした。リリアが彼の袖を掴んで身を寄せる。
「静かですわね。…いいえ、静かすぎますわ」
レオノーラは立ち止まり、建物全体をゆっくりと眺めた。風の音以外、何も聞こえない。しかしその静寂の奥からかすかに、甘く深い発酵の香りが漂ってくる気がした。
レオノーラの鼻腔が、それを捉えた。
(…間違いない。この香りは、ただの石壁から来るものではないわ)
彼女は鞄から魔法冷却箱を取り出し、中の瓶を確かめた。それから巨大な木製の門へと歩み寄り、深く息を吸った。
ドォォォォン。
鉄の装飾が施された門を、山々にこだまするほどの勢いで叩きつける。エリックとリリアが飛び上がり、鳥が数羽、驚いて飛び立った。
「ごめんあそばせ! 王国公爵令嬢、レオノーラ・フォン・グランツェルですわ! 貴方たちの樽の中に眠る『祈りの結晶』を、この目で確かめるために参りましたわよ! さあ、開けなさいな!」
静寂が返ってきた。
一分。二分。三分。
「…やっぱり無理じゃないか」とエリックが小声で呟いた時、門の上部にある小さな覗き窓が、音もなくスライドした。
濁った、しかし鋭い瞳の老修道士が、こちらを見下ろしている。
「…愚かな。ここは俗世の欲望を断った者の聖域。いかなる者にも、開く門などない。…立ち去れ」
「おーほっほっほ! 面白いことをおっしゃるのね。…貴方たちは門の奥で自分たちだけが『高潔』だと思い込んでいるようですけれど。…民が乾き、絶望している外の世界にその雫を届けぬことこそ、最大の『独善』ではありませんこと?」
「口の減らぬ娘だ。…帰るが良い」
窓が閉じられようとした瞬間、レオノーラが言った。
「イリーナ。例のものを」
「…はい、お嬢様」
イリーナが魔法冷却箱から瓶を取り出した。レオノーラはそれを受け取り、老修道士の覗き窓の真正面で、音高く栓を抜いた。
シュッ……。
鮮烈な炭酸の音が、霧の冷えた空気の中へと解き放たれた。グレープフルーツのような柑橘の爽やかさ、針葉樹の清々しさ、深く焙煎された麦芽の香ばしさ。それらが複雑に絡み合いながら、覗き窓を通じて老修道士の鼻腔へと、真っ直ぐに届いた。
「……」
老修道士が、動きを止めた。
「…な、なんだ、この香りは。…冷気が…香りが、生きているというのか…?」
「これはわたくしの美学の、ほんの一端ですわ」
レオノーラは瓶を静かに持ち上げた。
「老いた修道士様。貴方たちの造る『神の雫』が、本当に神の名に値するものなのか。…この舌で、直接確かめさせてくださらない?」
門の奥で、複数の囁き声が聞こえた。
「…あの香りは」
「…外の者が、ここまでの一杯を…」
「…院長に知らせるべきでは」
やがて。
ギィィィ……という、数百年分の重みを感じさせる軋み音とともに、巨大な閂が引き抜かれた。
ゆっくりと、しかし確実に、聖域の門が開いていく。
現れたのは、先ほどの老修道士と、もう二人。三人の修道士が、複雑な表情でレオノーラを見下ろしていた。
「…通るが良い。ただし、中では静粛に。…貴女の喉が、神の裁きに耐えられるのであれば、の話だが」
「おーほっほっほ! 裁き、結構ですわ。…わたくし、美味しいお酒のためなら、どのような試練でも喜んで受けて立ちますわよ」
レオノーラは勝利の微笑を湛え、暗い修道院の内部へと一歩を踏み出した。
背後でエリックとリリアが、荷物を背負い直しながら重い足取りで続く。
「…入っちゃったよ、本当に」
「エリック様…。わたくしたち、大丈夫かしら…」
「知らん。でも今更引き返せる雰囲気でもないだろう…」
石畳の廊下を、一行の足音が響いた。
漂ってくるのは、石と黴と、そして——どこか深く、甘い発酵の香りだ。レオノーラの足が、わずかに速くなった。
百年の祈りが待つ、聖域の深淵へ。扉は今、開かれた。




