第13話 禁じられた修道院、聖なる琥珀の深淵(中編)
門をくぐり抜けた先に待っていたのは、外界の色彩をすべて剥ぎ取ったような、灰色と沈黙の世界だった。
天井の高い回廊は、石造りの壁が放つ冷気と、数百年にわたって焚かれ続けた香油の匂いが染み付いている。レオノーラのハイヒールが刻む鋭い足音だけが、神聖な静寂を切り裂く不敬な侵入者の証として、規則正しく響き渡っていた。
「…レオノーラ、少し静かに歩けないのか。壁の聖母像が、今にも僕たちを睨み殺しそうな顔をしているぞ」
エリックが震える声で囁く。リリアはその隣で身を縮め、杖を突く音さえも立てまいと、爪先立ちで歩いていた。
「おだまりなさい。わたくしは今、この修道院の心臓の鼓動を…」
「お静かに」
案内役の老修道士が、振り返らずに言った。それだけだった。たった四文字。しかしその声の重みは、分厚い石壁のように一行の前に立ちはだかり、レオノーラの言葉を完全に押し潰した。
レオノーラは口を閉じた。
修道院長アウグストゥスとの面会は、地下の小さな応接室で行われた。
石造りの部屋には、テーブルと椅子が二脚。それだけだ。装飾も、絵画も、花も何もない。窓の外は霧で真っ白で、時間の感覚さえ失われそうな空間だった。
アウグストゥスは、レオノーラの顔を一瞥してから、静かに口を開いた。
「貴女が何を求めてここへ来たか、おおよそ察しはついている。…だが、我が院の麦酒を口にする資格があるかどうか、それはわたしが決める」
「資格、ですって? わたくしが…」
「一つ、条件がある」
アウグストゥスはレオノーラの言葉を遮り、続けた。
「今夜、夜明けまでこの修道院の規則に従ってもらう。…我らの規則は一つ。完全な沈黙だ。言葉を発してはならない。笑い声も、舌打ちも、咳払いも。…夜明けまで沈黙を守り抜いた者だけが、我が醸造室への扉を開く資格を得る」
沈黙が、部屋を満たした。
レオノーラは、その言葉の意味をゆっくりと飲み込んだ。
夜明けまで。沈黙。言葉を発してはならない。
「…もし、破れば?」
「即刻、山を下りてもらう」
レオノーラは、しばらく院長の顔を見つめた。その瞳の奥に揺らぎを探したが、何もない。岩壁のように、静かで、動かない。
「…受けて立ちますわ」
それが、レオノーラのその夜最後の言葉になる予定だった。
日が落ち、修道院に夜が来た。
一行は、修道士たちの食堂の隅に設けられた場所へと案内された。粗末な木の長椅子が並ぶだけの殺風景な部屋だ。修道士たちは無言で夕食を取り、無言で礼拝へと向かい、無言で自室へと消えていった。その一連の流れに、言葉は一つも必要とされていなかった。
残された四人は、長椅子に並んで座っていた。
最初の三十分は、わりと平穏だった。
レオノーラは背筋を伸ばし、扇子を膝の上に置き、目を閉じている。イリーナは腕を組み、壁を眺めていた。エリックとリリアは、互いに視線を交わしながら、身振り手振りで「寒い」「眠い」「帰りたい」を伝え合っていた。
一時間が経った。
変化が現れ始めたのは、レオノーラだった。
扇子が、膝の上で少し動いた。開きかけて、止まる。また開きかけて、止まる。指先が、無意識のうちに扇子の骨をリズミカルに叩き始め、それに気づいて止める。足が、わずかに貧乏ゆすりを始め、それも止める。
二時間が経った。
レオノーラの額に、薄っすらと脂汗が滲んでいた。
喉の奥に、何かが溜まっている。言葉ではない。笑い声の原型のような、「おーほっほっほ」の最初の「お」が、ずっと喉の入り口で待ち構えている感覚だ。それを飲み込むたびに、胸の奥で何かが軋む。
一方、イリーナは驚くほど平然としていた。
腕を組んだまま、微動だにしない。目は半開きで、呼吸は規則正しく、まるで修道士の訓練を幼少期から積んできたかのような佇まいだ。
レオノーラがそれに気づき、信じられないものを見る目でイリーナを見た。
イリーナが、視線に気づいて目を向ける。そして静かに、口の端だけで、笑った。
レオノーラの眉がぴくりと動いた。
三時間が経った。
エリックとリリアの無音の言い争いが、限界を迎えつつあった。リリアが「寒い」と訴える身振りをし、エリックが「我慢しろ」と手で制し、リリアが「貴方が持ってきた上着はどこ」と身振りで問い、エリックが「荷物の中だ」と目で答え、リリアが「取ってきて」と眉で命じ、エリックが「自分で取れ」と首を振る——その無声劇が延々と続いている。
そしてレオノーラは今、扇子をぎりぎりと握りしめ、唇を固く結び、目を天井に向けていた。
言いたいことが、山ほどあった。
イリーナに「その余裕は何ですの」と言いたかった。エリックとリリアに「見苦しい茶番はおやめなさい」と言いたかった。修道院長に「こんな試練を課して何が分かるというの」と言いたかった。
しかしそれ以上に…。
あの醸造室の香りが、頭から離れなかった。
門をくぐった瞬間から漂っていた、あの深く甘い発酵の香り。石壁に何百年も染み込んだ、野生酵母の息吹。自分がこれまで作ってきた麦酒とは、根本的に異なる何か。
冷却魔法を使えば、どう変わるだろう。いや、本当に使うべきなのだろうか。あの重厚な熱は、冷やすことで生まれるのではなく、時間をかけて積み上げることで生まれる。ならばわたくしにできることは、冷やすことではなく…
四時間が経った。
修道院の鐘が、低く一つ鳴った。夜中の零時だ。
エリックはいつの間にか長椅子に横たわり、目を閉じている。リリアはその隣で膝を抱え、うとうとしていた。イリーナだけが、相変わらず壁を眺めて座っている。
レオノーラは眠れなかった。
眠れるはずがなかった。喉の入り口でずっと待ち続けている「おーほっほっほ」が、少しでも気を抜けば飛び出してきそうで、目を閉じることができない。
五時間が経った。
窓の外の霧が、わずかに白んできた気がする。夜明けまで、あと一時間ほどだろうか。
その時、扉が静かに開いた。
アウグストゥスだった。
老院長は、一行を見渡した。眠るエリック、まどろむリリア、壁を眺めるイリーナ、そして、唇を固く結んで虚空を見つめるレオノーラ。
院長は無言のまま、レオノーラの前に立った。
二人の視線が、交わった。
院長の目は、試している。あと少しだ、と言っている。もう少しだけ黙っていられるか、と問いかけている。
レオノーラは、その視線を正面から受け止めた。
喉の奥で、「おーほっほっほ」が身をよじっている。五時間分の言葉が、堰を切ろうとしている。
そして…決壊した。
「…美味しいんでしょうね」
たった一言。
囁くような、掠れた声だった。笑いでも宣言でも論破でもない。それは、夜通し醸造室のことを考え続けた女の、純粋な独り言だった。
アウグストゥスが、動きを止めた。
レオノーラは自分が口を開いたことに気づき、一瞬目を閉じた。失格だ、と思った。山を下りることになる、と思った。
しかし。
院長の口元に、ゆっくりと、深い皺が刻まれた。
「…ああ」
低く、静かな声で、院長は答えた。
「美味しいぞ」
長い沈黙の後、アウグストゥスは踵を返した。
「…ついてきなさい」
その背中が、醸造室への廊下へと向かって歩き始める。
レオノーラは一秒だけ目を閉じた。それから立ち上がり、イリーナの肩を叩いて起こし、エリックとリリアを足で小突いた。
「なんだ、もう夜明けか」とエリックが寝ぼけた声で言い、「もう少し…」とリリアが目を擦った。
四人は、院長の背中を追って歩き出した。
廊下の奥から、あの香りが漂ってくる。干し葡萄と、蜂蜜と、百年の祈りの香りが。
レオノーラの足が、自然と速くなった。




